カラカラ帝|弟を暗殺するも、自らも暗殺されたローマ皇帝を簡単に解説

カラカラ帝

必ず押さえるべき重要ポイント!

カラカラ帝は、本名をマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌスと言い、188年まれ、217年に暗殺されるまで在位。
父セプティミウス・セウェルスの死後、弟ゲタと共同統治しましたが、ゲタを暗殺単独皇帝となった。

212年に「アントニヌス勅法」発布。これにより、ローマ帝国内自由民全てローマ市民権が付与された。また、カラカラ浴場の建設も有名。

対外的には、東方のパルティア戦争に従事。217年、この遠征中に暗殺され、ローマ軍は撤退。

カラカラ帝の生い立ちと即位までの経緯

カラカラ帝のプロフィール画像
重要ポイント!
  • セプティミウス・セウェルス帝の次男として生まれ、弟ゲタとともに副帝に任命される。
  • 父の死後は弟ゲタと共同統治するが対立が激化し、ゲタを暗殺して単独皇帝となった。

セプティミウス・セウェルス朝の始まりと混乱

カラカラ帝は、セプティミウス・セウェルス帝の次男として188年ごろ生まれました。父セプティミウス・セウェルスは193年に皇帝に即位し、セウェルス朝を開きます。しかし当時のローマ帝国は「五賢帝」時代の安定を失い、厳しい内戦状態に陥っていました。

共同皇帝としてのカラカラ

198年、カラカラは弟ゲタとともに副帝に任命され、211年には父の死去により兄弟で共同統治者となります。しかし両者の仲は悪く、対立が激化。結局カラカラはゲタを暗殺し、212年に単独皇帝となったのです。

カラカラ帝の治世と政策

重要ポイント!
  • アントニヌス勅令を発布し、属州の自由民に広くローマ市民権を付与。
  • 軍隊を重視する一方、財政難から貨幣価値を下落させるなどの問題も抱えた。

属州住民への市民権付与 – アントニヌス勅令

カラカラ帝の治世で最も有名なのが、212年に発布されたアントニヌス勅令です。これにより、ローマ帝国内の自由民に広くローマ市民権が付与されました。これは財政難を背景に、より多くの人々から税金を集めるための措置でしたが、属州の地位向上にもつながる重要な政策でした。

軍隊重視の政策と財政難

また、カラカラ帝は軍隊を重視し、兵士の待遇を手厚くすることで忠誠を得ようとしました。一方で、公共事業など軍事以外の支出は削減。戦費調達のため貨幣価値を下落させたことから、経済の混乱を招くなど財政面での課題を抱えることになりました。

カラカラ浴場の建設

こうした中、カラカラ帝はローマ市内に巨大な公共浴場「カラカラ浴場」を建設しました。1日最大8000人が利用できる規模を誇り、豪華な内装や図書館なども備えた一大娯楽施設でした。民衆の支持獲得と、自らの権力誇示が目的だったと考えられています。

対外戦争とカラカラ帝の最期

重要ポイント!
  • ゲルマニアのアレマンニ族やパルティアとの戦いを展開するが、決定打を欠き戦況は膠着状態に。
  • 217年、シリアでのパルティア遠征中に側近のマクリヌスに暗殺され、29歳の生涯を閉じた。

ゲルマニア戦役とアレマンニ族

対外的には、ライン川上流のアレマンニ族と戦いました。213年のゲルマニア遠征では辛くも勝利しましたが、決定打を欠き長期化。さらに兵站も問題を抱え、カラカラ帝の強引な戦い方に兵士の不満が募っていきます。

パルティア戦役

東方では、パルティア遠征を企てます。カラカラ帝はパルティアの内紛に乗じて介入。公式には和親を求めつつ、奇襲によって領土拡大を狙いましたが失敗。パルティア王との婚姻に応じた王女を拉致したことで、両国関係は最悪の事態に。

カラカラ帝暗殺事件

217年、シリアでのパルティア戦役の最中、カラカラ帝は側近のマクリヌスに暗殺されてしまいます。29歳の若さでした。背景には、カラカラ帝への恨みや皇帝の座を狙う野心があったとみられています。後を継いだのは、暗殺を主導したマクリヌスその人でした。

カラカラ帝の歴史的評価と影響

重要ポイント!
  • 専制色が強く軍隊を重視する一方、元老院の影響力は低下
  • 市民権の拡大や皇帝権力の強化など、ローマ帝国衰退の遠因となる政策を多く含んでいた。

専制君主としてのカラカラ帝

カラカラ帝の治世はわずか6年でしたが、専制色の強い皇帝の典型として知られています。皇帝権力の強化と軍隊の支持獲得に腐心。一方で、元老院の影響力低下は著しく、暴君的な印象も与えました。法学者ウルピアヌスを重用したことが、後の専制的な「皇帝法」の端緒にもなりました。

ローマ市民権の拡大がもたらした影響

市民権を広く付与したことで属州の不満解消を図りましたが、他方でローマ市民の特権が薄れ、帝国の一体感は弱まったともいえます。元老院を軽視し、軍隊を重視する体制は、軍人皇帝時代の先駆けになりました。都市貴族に代わり、属州出身者が台頭する遠因にもなったのです。

カラカラ帝とローマ帝国衰退の始まり

カラカラ帝の時代は、3世紀の混乱や危機の兆しが見え始めた時期ともいえます。財政難から軍隊に傾斜し、属州の不満をかわす市民権付与など、帝国の内面にひずみが生じつつありました。絶対的な皇帝権力のもと、元老院や法の規範は形骸化。カラカラ帝亡き後、ローマ帝国は「軍人皇帝時代」へと突入していくのです。

試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント
  • アントニヌス勅令の内容と影響(属州住民へのローマ市民権付与)
  • カラカラ浴場建設
  • 対外戦争と遠征(ゲルマニア戦役・パルティア戦役)

確認テスト


問1 カラカラ帝が発布した、属州の自由民に広くローマ市民権を付与した勅令は何か?
a. コンスティトゥティオ・アントニニアーナ
b. パックス・ロマーナ
c. プリンケプス・キウィターティス
d. レース・プーブリカ

解答:a

問2 カラカラ帝が建設した大規模公共浴場の名称は?
a. ネロ浴場
b. トラヤヌス浴場
c. ディオクレティアヌス浴場
d. カラカラ浴場

解答:d

問3 カラカラ帝が東方遠征で敵対したパルティア王朝の王女を拉致したエピソードがある。
a. 正しい
b. 誤り

解答:a

問4 29歳の若さで暗殺されたカラカラ帝を継いだ皇帝は誰か?
a. ヘリオガバルス
b. マクリヌス
c. アレクサンデル・セウェルス
d. ゴルディアヌス3世

解答:b

問5 カラカラ帝の治世で見られた次の出来事のうち、ローマ帝国衰退の遠因となったと考えられるものはどれか?

a. 市民権の拡大によるローマ市民の特権の希薄化
b. 元老院の影響力低下と皇帝権力の強化
c. 軍隊を重視する体制の先駆け
d. 以上すべて

解答:d