クリミア戦争とは?
ロシアとオスマン帝国の対立
クリミア戦争は、1853年から1856年にかけて、ロシア帝国とオスマン帝国を中心とする同盟国との間で行われた戦争です。19世紀半ばのヨーロッパを大きく揺るがした出来事の一つと言えるでしょう。当時、ロシアはオスマン帝国から独立を求めるギリシア正教徒を支援し、バルカン半島への影響力拡大を図っていました。一方、オスマン帝国はイスラム教国として、自国の領土保全に努めていました。両国の対立は次第に深刻化していきました。
クリミア戦争の主要国と同盟関係
この戦争には、ロシアとオスマン帝国以外にも、イギリス、フランス、サルデーニャ王国(イタリア)が参戦しました。イギリスとフランスは、ロシアの勢力拡大を警戒し、オスマン帝国を支援する側に立ちました。また、サルデーニャ王国もイギリス・フランス側に与しました。こうして、ヨーロッパの大国が二つの陣営に分かれ、クリミア半島を主な舞台として戦いが繰り広げられることになったのです。
クリミア戦争の背景~東方問題を巡る緊張~
東方問題とは何か~オスマン帝国の衰退~
東方問題とは、19世紀のヨーロッパにおいて、衰退しつつあったオスマン帝国をめぐる列強の対立のことを指します。かつて強大な帝国であったオスマン帝国は、19世紀に入ると次第に弱体化し、ヨーロッパ列強の介入を招くようになりました。特にロシアは、バルカン半島のスラヴ系住民の保護者を自任し、オスマン帝国領内への干渉を強めていきました。
ロシアの南下政策がヨーロッパ諸国を刺激
ロシアは、南下政策の一環として黒海への出口を求め、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島への影響力拡大を図りました。これに対し、イギリスやフランスは自国の利害を脅かすものとしてロシアの動きを警戒しました。特にイギリスは、ロシアがボスポラス海峡とダーダネルス海峡(トルコ海峡)を支配下に置くことで、地中海への出口を確保することを恐れていたのです。
聖地の管理権を巡る争い
東方問題の主戦場となったバルカン半島では、ギリシャ正教とカトリックの聖地をめぐる争いも生じていました。ロシアはギリシャ正教の保護者を自認し、聖地の管理権を主張したのに対し、フランスはカトリック教徒の権利を擁護しました。オスマン帝国の衰退に乗じた両国の対立は、クリミア戦争の一つの引き金となりました。宗教的な対立が、国家間の争いに発展したのです。
クリミア戦争の主な出来事〜セバストポリ攻囲戦~
アルマの戦いとインケルマンの戦い
クリミア戦争は、1854年9月にイギリス・フランス軍がクリミア半島に上陸したことで本格化しました。同月20日にアルマの戦いが行われ、ロシア軍はイギリス・フランス軍に敗れました。さらに、11月5日のインケルマンの戦いでもロシア軍は敗北を喫しました。これらの戦いにより、連合国軍はクリミア半島の重要都市セバストポリ攻略への足がかりを得ました。
セバストポリ攻囲戦
インケルマンの戦い以降、戦いの主眼はセバストポリ攻囲戦に移りました。連合国軍は1854年10月から1855年9月にかけて、ロシアの軍港都市セバストポリを包囲・攻撃しました。この攻囲戦は11カ月にも及ぶ長期戦となり、双方に多大な犠牲者を出しました。特に、劣悪な衛生環境が原因で多くの兵士が病死したことでも知られています。1855年9月8日、フランス軍がマラコフ塔を占拠したことで、セバストポリ陥落は決定的となりました。ロシア軍は9月11日に市街から撤退し、セバストポリの戦いは連合国軍の勝利に終わったのです。
クリミア戦争の結果と影響〜パリ条約とその後
ロシアの敗戦とパリ条約
セバストポリ陥落後、ロシアは戦争継続が困難と判断し、和平交渉に応じました。1856年3月、パリ条約が結ばれ、クリミア戦争は終結しました。条約では、ロシアの黒海艦隊保有と黒海沿岸の要塞建設が禁止されました。また、ドナウ川の航行の自由が確認され、オスマン帝国の領土保全が列強によって保証されました。しかし、この条約はロシアにとって不利な内容であり、長続きしませんでした。
戦後のヨーロッパ情勢の変化
クリミア戦争は、ヨーロッパの国際関係に大きな影響を与えました。まず、オーストリアがロシアを裏切ったことから、両国の関係は悪化しました。また、戦争を通じてフランスの国際的地位が向上した一方、ロシアの威信は大きく傷つきました。イギリスは、戦争の大義名分であったオスマン帝国の領土保全を実現しましたが、多大な戦費を強いられました。
オスマン帝国の一時的な延命
クリミア戦争の結果、オスマン帝国は列強の支援を得て一時的に延命しました。しかし、帝国内部の問題は解決されておらず、ナショナリズムの高まりやバルカン地域の不安定化は続きました。19世紀後半には、再びバルカン情勢が悪化し、露土戦争(1877〜1878年)が勃発します。結局のところ、クリミア戦争はオスマン帝国の衰退を一時的に食い止めたに過ぎず、東方問題の根本的な解決には至らなかったのです。
クリミア戦争後の東方問題〜バルカン危機と露土戦争
クリミア戦争の教訓とロシアの内政改革
クリミア戦争の敗北は、ロシアに大きな衝撃を与えました。ロシアは軍制の立ち後れを痛感し、国内の改革に乗り出しました。1861年には農奴解放令が発布され、長らく続いた農奴制が廃止されました。また、司法制度の改革や地方自治の導入など、近代化を目指す様々な改革が行われました。これらの改革は、ロシア社会に大きな変化をもたらしましたが、一方で改革の不徹底さが新たな問題を生みました。
バルカン危機とボスニア・ヘルツェゴビナ反乱
クリミア戦争後も、オスマン帝国の支配下にあったバルカン地域では民族意識が高まり、自治や独立を求める動きが活発化しました。1875年には、ボスニア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対する反乱が発生し、セルビアとモンテネグロも参戦しました。さらに、ブルガリアでも1876年に反乱が起こるなど、バルカン情勢は再び不安定化しました。列強は、自国の利害に基づいてこのバルカン危機に介入しました。
再燃する東方問題と露土戦争
ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱を契機として東方問題が再燃すると、ロシアは1877年にオスマン帝国に宣戦布告しました。露土戦争が勃発したのです。戦争は1878年までの約1年間続き、ロシア軍がバルカン半島の奥地まで進撃する展開となりました。最終的に、オスマン帝国は敗北を認め、サン・ステファノ条約を結びました。しかし、ロシアに有利な内容の同条約に列強は反発し、1878年のベルリン会議で条約は修正されました。こうして東方問題は一応の決着を見ましたが、バルカン地域の民族問題は解決されず、第一次世界大戦の遠因の一つとなったのです。