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シュメール文明とは?
シュメール人の起源と活動舞台
シュメール人は、メソポタミア南部のシュメール地方を中心に栄えた古代文明の担い手です。その起源は定かではありませんが、紀元前4000年頃までにはすでにこの地に定住し、高度な文明を築いていたと考えられています。
シュメール人の活動舞台となったメソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川に囲まれた肥沃な土地であり、豊かな農業生産を背景に数多くの都市国家が生まれました。ウルクやウル、ラガシュなどがその代表例です。
シュメール文明の特徴と主な業績
シュメール文明は、人類史上初期の高度な文明のひとつとして知られています。その特筆すべき業績は多岐にわたります。
まず、世界最古の文字であるシュメール語の楔形文字を発明したことが挙げられます。この文字によって、行政や商取引、学問などの記録が可能となり、文明の発展に大きく寄与しました。
また、シュメール人は灌漑農業に優れ、用水路や運河を整備することで安定した農業生産を実現。これを基盤とした豊かな経済は、壮大なジッグラトなどの都市建設を支えました。
さらに、シュメール人は数学や天文学、法律の整備などでも先駆的な役割を果たしました。60進法に基づく数学体系は、現在の時間計算などにも通じるものです。
このように、シュメール人は様々な分野で人類の文明史に偉大な足跡を残したのです。
シュメール文明の衰退の原因と経緯
都市国家間の覇権争いと混乱
シュメール文明の衰退は、紀元前2000年頃から徐々に始まったとされます。その大きな要因のひとつが、シュメールの都市国家間の覇権争いでした。
ウルやラガシュなどの有力都市は、メソポタミア南部の支配をめぐって争うようになります。こうした対立は、次第に泥沼化し、各都市を疲弊させていきました。
また、シュメール人は、北方から侵入してきたアッカド人などの異民族とも戦わねばなりませんでした。戦乱が広がる中で、都市の繁栄は次第に失われていったのです。
アッカド帝国の支配とその後の動乱
紀元前24世紀頃、サルゴン大王が建設したアッカド帝国は、メソポタミア全土を支配下に収めます。シュメール都市も、アッカドの強大な軍事力の前に屈することになりました。
しかしアッカド帝国の統治は、シュメール人にとって過酷なものでした。重税に苦しむ住民も少なくありません。アッカド帝国の衰退後も、シュメールの地は混乱が続き、再び統一されることはありませんでした。
自然環境の変化と農業生産力の低下
シュメール文明を支えた灌漑農業も、時とともに難しい局面を迎えます。紀元前2000年頃からメソポタミアの気候が乾燥化し、砂漠化が進んだことで、用水路の維持が困難になったのです。
さらに、長年の灌漑による土壌の塩害も深刻化。農地の肥沃さが失われ、穀物の収穫量は低下の一途をたどりました。かつて豊かな実りをもたらした大地も、次第にシュメール人の生活を支えられなくなっていったのです。
新興勢力の台頭とシュメール人の勢力圏縮小
衰退の進むシュメールに追い打ちをかけたのは、周辺地域に勃興した新興勢力の脅威でした。
紀元前18世紀頃からは、北のアッシリアが台頭し、南のバビロニアもまたカッシート人の支配下に入ります。勢力を拡大したこれらの国家は、弱体化したシュメールへと侵攻を繰り返しました。
一方、シュメール人の勢力圏は徐々に縮小。最終的に紀元前1750年頃のバビロニアのハンムラビ王の攻撃により、シュメールの地は完全にバビロニアに併合されることになります。
こうして、3000年にも及んだシュメールの輝かしい歴史に終止符が打たれました。様々な要因が複雑に絡み合い、徐々に、しかし着実に、シュメール文明を歴史の表舞台から姿を消させたのです。