スーダン内戦の概要
スーダンという国 – 地理、民族、宗教
スーダンはアフリカ大陸の北東部に位置する国で、エジプトと南スーダンの間に広がっています。国土の大部分は砂漠ですが、ナイル川沿いには肥沃な土地が広がります。
人口の約6割をアラブ人が占め、北部を中心にイスラーム教が主要な宗教となっています。一方、南部には多様な非アラブ系民族が暮らし、キリスト教や伝統宗教を信仰する人々が多数派です。
こうした地理的・民族的・宗教的な多様性が、のちの南北対立の遠因となりました。
第一次・第二次内戦の期間と規模感
スーダンでは、1955年から2005年にかけて2度の大規模な内戦が起こりました。
第一次スーダン内戦は、1955年から1972年まで続きました。英国からの独立をめぐって、イスラーム教徒のアラブ人が多数を占める北部と、キリスト教徒や伝統宗教の信者が多い南部の対立が激化。17年に及ぶ戦闘で、50万人以上が犠牲になったとされます。
第二次スーダン内戦は、1983年に再燃し、2005年まで続きました。北部政権による一方的なイスラーム法の導入や、南部の豊富な石油資源の収益分配をめぐる対立が主な原因でした。犠牲者は200万人以上に上り、多くの難民も発生。アフリカ大陸最大の人道危機といわれました。
内戦のもたらした影響と犠牲
長きにわたる内戦は、多大な人命の損失に加え、深刻な経済的・社会的ダメージをスーダンにもたらしました。
戦闘で家を追われた人々は、国内外に難民となって逃れざるを得ませんでした。推計400万人以上が国内避難民となり、周辺国にも多数の難民が流出。学校に通えない子供も後を絶ちませんでした。
経済活動が停滞し、インフラも破壊されたことで、国民の多くが貧困に苦しみました。保健・医療体制も崩壊し、栄養不良や病気が蔓延。教育を受ける機会も奪われ、世代を超えて困難な状況が続きました。
こうした深刻な影響は、内戦終結から20年近くたった今も、スーダンと南スーダンの国づくりの大きな課題となっています。
スーダン内戦の背景 – 複雑に絡み合う対立の要因
イスラーム教徒のアラブ人vs.キリスト教徒・伝統宗教の非アラブ人
スーダン内戦の根底には、国内の民族・宗教対立がありました。
北部のアラブ人はイスラーム教を信仰し、アラビア語を話すのに対し、南部の非アラブ系民族の多くはキリスト教や伝統宗教を信仰し、独自の言語を持っています。
歴史的に北部のアラブ人が政治・経済の主導権を握ってきたため、南部の人々は差別や不平等な扱いを受けてきました。
言語や文化、宗教観の違いに加え、南部の発言権の弱さが対立を深めるひとつの要因となったのです。
南部の豊富な石油資源と収入分配への不満
南部スーダンには豊富な石油埋蔵量があることが1970年代に判明。北部の政権はその開発利権を独占し、収益の多くを北部に投資しました。
一方、油田を有する南部の地域開発は遅れたまま。石油収入の分配をめぐって、南部の不満が募っていきました。
「資源の呪い」といわれるように、地下資源の偏在が地域間の不平等を生み、紛争のきっかけとなったのです。
植民地時代の宗主国イギリスの影響
19世紀末、スーダンは英国とエジプトの共同統治下に置かれました。この植民地時代の統治方針が、のちの南北分断の遠因のひとつとなりました。
イギリスは北部と南部を分けて統治し、両地域の交流を制限。政治・経済の中心は北部に置かれ、南部は周縁化されました。こうした状況が、独立後の民族対立の火種となったのです。
またイギリスは、北部にはアラビア語とイスラーム教を、南部には英語とキリスト教を広めるなど、異なる言語・宗教政策をとりました。その結果、民族間の分断がいっそう進んだといえるでしょう。
植民地支配は1956年のスーダン独立で終わりましたが、その負の影響は長く尾を引くことになったのです。
第一次内戦から第二次内戦へ – 紛争の経過と拡大
第一次内戦(1955年-1972年)- 独立をめぐる争い
1956年、スーダンは英国とエジプトの共同統治から独立しましたが、独立前の1955年に分離独立を求めて南部が武装蜂起したことで、第一次スーダン内戦が勃発。独立後は新政府の中枢を北部出身者が独占。南部の自治権の要求は退けられ、南部の反政府勢力との戦闘が始まりました。
キリスト教徒や伝統宗教の信者が多い南部は、イスラーム化と中央集権化に抵抗。一方、北部はスーダン全土の統一と近代化をめざしていました。
17年間で50万人以上の犠牲を出しながら、紛争は泥沼化。ようやく1972年、「アディス・アベバ協定」で南部に一定の自治が認められ、第一次内戦は終結しました。ただ、南部の不満は根本的には解消されず、10年後には再び戦火が広がることになります。
第二次内戦(1983年-2005年)- 泥沼化する戦闘
1983年、スーダン中央政府がイスラーム法(シャリーア)を全国に適用すると、南部の反発が再燃。内戦が再開されました。
反政府勢力「スーダン人民解放運動」(SPLM)が南部の分離独立を掲げて戦闘を展開。泥沼の内戦は20年以上続き、2005年まで200万人以上の犠牲者を出す大惨事となりました。
戦闘に加え、政府軍の掃討作戦で多数の民間人が犠牲に。誘拐や虐殺、性暴力なども横行しました。援助物資の搬入も妨害され、深刻な飢餓に見舞われるなど、戦闘の長期化で人道状況は悪化の一途をたどりました。
国際社会の仲介で和平交渉は進められましたが、合意は頻繁に破られ、泥沼の戦闘が2005年まで続いたのです。
ダルフール紛争の勃発と「ジャンジャウィード」の蛮行
第二次内戦と並行して、2003年にはスーダン西部のダルフールで大規模な紛争が発生しました。
ダルフールの住民(黒人系)と中央政府が対立。住民側は、長年の差別と低開発への不満から蜂起したのです。
これに対し、政府は民兵組織「ジャンジャウィード」を利用して徹底的な掃討作戦を展開。民兵は村々を襲撃し、民族浄化ともいえる残虐行為を繰り返しました。
ジャンジャウィードによる組織的なレイプや拷問、虐殺などで、非戦闘員を含む数十万人が犠牲になったとみられています。国際刑事裁判所は、スーダン政府とジャンジャウィードの行為をジェノサイド(大量虐殺)と認定。国際社会は制裁と和平交渉を進めましたが、ダルフールの惨状は今も完全には収束していません。
内戦終結と南スーダン独立 – 分離と和平への道
2005年の包括和平合意と南部の自治権獲得
2005年1月、スーダン政府とSPLMの間で包括和平合意(CPA)が結ばれ、20年以上続いた内戦に終止符が打たれました。
CPAでは6年間の移行期間を設け、その後に南部の独立の是非を問う住民投票を実施することが定められました。また、南部に自治政府を置き、原油収入を南北で等分に分け合うことも盛り込まれました。
戦火がようやくやみ、南部は実質的な自治を獲得。復興に向けた動きも本格化しました。しかし、和平合意の履行をめぐって南北の対立が再燃するなど、不安定な情勢が続きました。
国際社会も和平の定着に努めましたが、移行期間中に南部で新たな武力衝突が起こるなど、平和の実現への道のりは平坦ではありませんでした。
2011年、国民投票を経て南スーダンが独立
2011年1月、CPAの規定どおり南部の独立の是非を問う住民投票が実施されました。投票の結果、98%以上が独立に賛成し、同年7月9日、南スーダン共和国が正式に独立。アフリカで54番目の国が誕生しました。
独立で民族自決を果たした南スーダンでしたが、建国までの道のりは困難を極めました。内戦で国土は荒廃し、産業もインフラも皆無に等しい状態。国民の8割以上が絶対的貧困層で、非識字率は7割に達するなど、新国家の課題は山積みでした。
石油資源はあるものの、パイプラインはスーダン領内にあり、収益分配などで両国の対立がくすぶりました。国境線の確定も難航し、領土問題でも緊張が続きました。
そして独立から2年あまりで、南スーダン国内で再び内戦が勃発。新生国家は泥沼の戦闘に引きずり込まれていったのです。