キューバ危機をわかりやすく解説|世界を核戦争の危機に追い込んだ背景から結末

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キューバ危機を簡単に解説

キューバ危機とは、1962年にソ連のキューバへのミサイル配備をきっかけに起きたアメリカとソ連の核戦争寸前の危機的状況のこと。
対抗策として、アメリカのケネディ大統領がキューバ海上封鎖を行い、冷戦期の緊張が最高潮に到達。
双方の譲歩により最終的に平和的に解決したが、世界が核戦争の瀬戸際に立たされた。

キューバ危機とは何か

キューバ危機について
  • 1962年10月に米ソ間で起きた核戦争寸前の国際的危機
  • ソ連のキューバへの核ミサイル配備が発端となり、米国が海上封鎖で対抗
  • 13日間の対立の末、ソ連がミサイル撤去に合意し平和的に解決

キューバ危機の概要

キューバ危機とは、1962年10月16日から28日にかけて、米国ソビエト連邦(ソ連)の間で起きた核戦争寸前の国際的危機です。ソ連キューバに核ミサイルを配備したことが発端となり、米国のケネディ政権がキューバへの海上封鎖を行うなど、両国が一触即発の緊張状態に陥りました。13日間にわたる対立と水面下の交渉の末、ソ連が核ミサイルの撤去に合意し、平和的に解決されました。

米ソ冷戦構造の中でのキューバ危機の位置づけ

キューバ危機は第二次世界大戦後の米ソ冷戦の文脈で発生した事件です。資本主義陣営の米国と共産主義陣営のソ連という、イデオロギーの異なる2つの超大国が軍事的に対立する冷戦構造の中で、キューバ危機は東西陣営の対立核戦争の危機にまで発展した象徴的な出来事でした。世界中を恐怖に陥れたこの危機は、その後の冷戦の展開に大きな影響を与えた歴史的なターニングポイントの1つとして位置づけられています。

キューバ危機の背景

キューバ危機の背景
  • 1959年のキューバ革命でカストロ政権が誕生し、反米色を強めた。
  • ソ連がキューバに核ミサイルを配備し、米国の軍事介入阻止ミサイル戦力の均衡を図った

キューバ革命とフィデル・カストロ政権の誕生

キューバでは1959年、フィデル・カストロ率いる革命軍がバティスタ独裁政権を打倒し、カストロ政権が誕生しました。カストロ政権は土地改革や国有化など社会主義政策を推し進めたため、米国との関係が急速に悪化。1961年にケネディ政権下の米国がキューバ侵攻(豚湾事件)を企図しましたが失敗に終わり、カストロ政権はさらに反米色を強めていきました。

米ソ冷戦の激化とキューバの戦略的価値

当時、冷戦の激化により米ソの対立が先鋭化していました。米国にとってキューバは地理的に自国からわずか150キロメートルしか離れておらず、安全保障上の大きな脅威でした。一方、ソ連にとってキューバは社会主義革命を支援する上で戦略的に重要な拠点であり、米国の「裏庭」に影響力を及ぼす絶好の機会でもありました。

ソ連のキューバへのミサイル基地建設の狙い

1962年夏、ソ連のフルシチョフ首相キューバへの核ミサイル配備を密かに決定します。その狙いは、核ミサイルを盾にキューバへの米国の軍事介入を阻止することと、米国に対するミサイル戦力の均衡を図ることでした。ソ連は極秘裏にミサイル基地の建設を進めましたが、10月上旬に米軍の偵察機によってその事実が発覚。これが危機の発端となりました。

キューバ危機の発端

キューバ危機の発端
  • 米軍偵察機がキューバでソ連の核ミサイル基地を発見
  • ケネディ大統領がキューバへの海上封鎖を決定してソ連にミサイル撤去を要求
  • フルシチョフ首相が要求を拒否し、国連安保理で米ソ両国が激しく対立

米軍のキューバ上空からの偵察

10月14日、米軍のU2偵察機がキューバ上空で撮影した写真により、ソ連製の核ミサイル発射台の存在が判明しました。ソ連キューバに極秘裏に核ミサイルを持ち込んでいたのです。ケネディ大統領はただちに、ソ連への強硬な対応を協議する特別会議を開きました。

ケネディ大統領による海上封鎖の決定

ケネディ大統領は、キューバへの武器輸送を阻止するための海上封鎖「隔離政策を決断。10月22日の演説で、ソ連に対しミサイル撤去を要求するとともに、米軍部隊に最高レベルの戦闘準備を指示しました。世界は核戦争勃発の危機に直面したのです。

ソ連の核ミサイル搬入の企図

一方、フルシチョフ首相はケネディ大統領の演説をにべもなく拒否。ソ連キューバへの核ミサイル搬入強行する構えを見せました。米ソ両国が一触即発の状況に陥る中、国連安全保障理事会では激しい応酬が交わされました。

危機のクライマックス

キューバ危機のクライマックス
  • フルシチョフ首相がキューバのミサイル撤去と引き換えに、アメリカ側のトルコのミサイル撤去を提案
  • 国連安保理で米ソ両国が核ミサイルの証拠をめぐり激しく対決

フルシチョフ・ケネディ間の秘密書簡のやり取り

10月26日、フルシチョフ首相からケネディ大統領に秘密書簡が届きます。そこには、キューバからミサイルを撤去する代わりに、米国もトルコに配備していたミサイルを撤去することを求める内容が記されていました。ケネディ大統領は慎重に検討した上で、この提案を受け入れる方針を固めます。

国連安保理における米ソ対決

10月25日の国連安保理では、米国のスティーブンソン大使がソ連のゾーリン大使に核ミサイルの証拠写真を突きつけ、説明を要求する一幕がありました。緊迫した雰囲気の中、ゾーリン大使は「撮影時期が不明」と反論。米ソ対決は最高潮に達しました。

妥協点を探る水面下の外交交渉

米ソ両国は公然と対立する一方で、水面下では外交ルートを通じて打開策を模索していました。ケネディ大統領の弟ロバート・ケネディ司法長官とソ連のドブルイニン大使が極秘会談を行うなど、妥協点を探る動きが活発化します。

キューバ危機の解決 – ミサイル撤去と秘密取引

キューバ危機の解決
  • フルシチョフ首相がキューバからの核ミサイル撤去を表明
  • 米ソ間でミサイル撤去などの合意が成立して危機が終結

米ソ間の合意内容

10月28日、フルシチョフ首相がキューバからの核ミサイル撤去を電波放送で表明。米ソ間の合意内容は次の通りでした。
ソ連はキューバの核ミサイルを撤去する
米国はキューバ侵攻を行わない
米国はトルコのミサイルを撤去する(非公表)
この妥協により、世界に安堵が広がりました。

ソ連のミサイル撤去の実施と危機の終結

11月上旬、ソ連キューバの核ミサイルの撤去を開始。20発以上の核ミサイルが船舶で本国へ送還されました。これを確認した米国海上封鎖を解除キューバ危機は事実上の終結を迎えたのです。米ソ両国は以後、直通電話ホットラインを設置し、同種の危機再発防止の教訓とします。

世界を安堵させた危機の終結

人類史上初めて核戦争の危機に直面した世界は、米ソ両指導者の決断によって破滅の淵から救われました。キューバ危機の経験は、緊張緩和を重視する「デタント」へと冷戦の潮流を変える契機にもなりました。核兵器の脅威を知った世界は、平和の尊さを再認識したのです。