ワイマール憲法をわかりやすく解説|ヒトラーとナチス台頭までを簡単理解

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ワイマール憲法について簡単に解説!

ワイマール憲法は、第一次世界大戦後の1919年に制定されたドイツの憲法。

戦後の混乱期に、ヴェルサイユ条約の締結と前後して、ドイツは帝政から共和制へと移行。

ワイマール憲法は、議院内閣制比例代表制を採用し、基本的人権の尊重を掲げた民主的な憲法だったが、大統領の緊急命令権など大統領に大きな権限が与えられていて後にナチスの台頭を許す要因の一つともなりました。

ワイマール憲法の制定

ワイマール憲法の制定
  • 第一次世界大戦後の敗戦国ドイツで、民主化を求める機運の高まりから制定
  • 1919年8月に公布され、ドイツは共和制国家としての第一歩を踏み出した

第一次世界大戦後のドイツの状況

第一次世界大戦の敗戦国となったドイツは、帝政の崩壊多額の賠償金支払い経済の混乱社会不安などの難題に直面しました。戦後処理を進める中、ドイツ国内では民主化を求める機運が高まり、新たな憲法の制定が急務となっていました。

ワイマール憲法制定の経緯

1919年1月ドイツ国民議会選挙が実施され、制憲議会が招集されました。議会はワイマール市で開催されたことから、ここで制定された憲法は「ワイマール憲法」と呼ばれています。憲法制定をリードしたのは第一党となった社会民主党で、ワイマール連立を形成し議会の多数を占めました。同年8月ワイマール憲法が公布され、ドイツは共和制国家として新たな一歩を踏み出したのです。ただし、ワイマール憲法の内容には連合国の意向も反映されており、ドイツの完全な主権は制限されていました。

ワイマール憲法の主な内容

ワイマール憲法の主な内容
  • 三権分立議院内閣制比例代表制など民主的な政治制度を採用
  • 基本的人権の保障男女同権教育の権利労働者の権利などを明記

権力分立と民主的な政治制度

ワイマール憲法は、行政・立法・司法の三権分立を定め、議院内閣制を採用しました。国民の代表である国会(ライヒスターク)が立法権を持ち、国会の信任に基づいて首相が行政を担当する仕組みです。また普通・平等・直接・秘密選挙による比例代表制を導入し、複数政党の存在を保障しました。

基本的人権の保障

憲法では、表現の自由、集会・結社の自由、信教の自由など、国民の基本的人権を幅広く保障しています。特筆すべきは男女同権の明記で、女性の参政権を認めた点です。また、教育を受ける権利労働者の権利なども盛り込まれました。

議院内閣制と比例代表制

ワイマール憲法下の議会は、比例代表制により選出された複数政党で構成されました。しかし議席が分散し、安定した政権運営が難しい状況でした。首相は議会の信任に基づき組閣されますが、信任を得られない場合は総辞職に追い込まれる仕組みです。結果的に短命な内閣が続くこととなりました。

ワイマール憲法の問題点

ワイマール憲法の問題点
  • 大統領の強大な権限と議会の分裂・機能不全による大統領権限の濫用
  • 比例代表制による小党分立と不安定な連立政権極端な政党の台頭

大統領の強大な権限

ワイマール憲法では、大統領は国家元首であり行政権の長とされ、非常に強い権限が付与されていました。大統領は国防軍の最高指揮権を持ち、非常事態においては緊急命令を発する権限も有していたのです。さらに議会の解散権を持ち、民選議会に優越する立場にありました。本来なら民主的なチェック機能が働くはずですが、議会の分裂と機能不全を背景に、大統領権限の濫用が横行する結果となりました。

不安定な連立政権

比例代表制の下、ワイマール期の議会は小党分立状態が続きました。過半数の議席を単独で獲得する政党はなく、連立交渉は難航しがちでした。その結果、短命な連立政権が次々に誕生しては崩壊するという不安定な政治状況が常態化したのです。政権基盤の弱さは、一貫した政策の実行を困難にし、国民の政治不信を募らせました。

極端な政党の台頭を許す選挙制度

議会の分裂は、比例代表制という選挙制度にも原因がありました。比例代表制は民意を忠実に反映する一方、少数政党が議席を得やすいという特徴を持ちます。ワイマール期には極右・極左の過激政党が議会に進出し、議会の正常な機能を阻害しました。特にナチ党は選挙で議席を伸ばし、最終的には政権を掌握するに至ったのです。

ワイマール憲法下の政治不安

ワイマール憲法下の政治不安
  • 短命な連立内閣の連続世界恐慌による経済危機で政治・経済が不安定化
  • 共産党ナチ党の台頭、大統領緊急令への依存による議会政治の形骸化

度重なる内閣の崩壊と経済危機

ワイマール憲法の欠陥は、政治の不安定性をもたらしました。短命な連立内閣が次々に倒れ、一貫した政策立案が難しい状況でした。そこへ世界恐慌が襲います。1929年の株価暴落に端を発した未曽有の経済危機は、ドイツにも深刻な影響を与えました。大量の失業者が発生し、国民の間に経済的不安と政治不信が広がったのです。

共産主義者とナチスの台頭

経済の悪化は、極端な政治勢力を勢いづかせました。共産党は「ドイツ革命」を掲げ、労働者の支持を集めます。他方、ヒトラー率いるナチ党民族主義反ユダヤ主義を前面に押し出し、中産階級や失業者の支持を得ました。両極端勢力の対立は、政情を一層不安定化させ、暴力の応酬すら生じさせたのです。

大統領による緊急令の乱発

行き詰まった議会政治を打開するため、大統領権限が乱用されるようになりました。1930年代、ブリューニング、パーペン、シュライヒャーら歴代首相は、議会の信任を得られず、もっぱら大統領緊急令に頼って政権を運営しました。しかし大統領の意向に沿うだけの内閣は、国民の支持を得られず、かえって反体制派の力を強めることとなったのです。

ナチス台頭とワイマール憲法の終焉

ナチス台頭とワイマール憲法の終焉
  • 1933年にヒトラーが首相に就任し、ナチ党の政権掌握が始まる
  • 全権委任法の制定でワイマール憲法が形骸化し、ナチスの一党独裁体制が確立

ヒトラーの政権掌握

1932年、ナチ党二度の国会選挙で第一党の地位を獲得しました。ナチスの台頭を恐れた大統領ヒンデンブルクは、当初ヒトラーを首相に任命することを拒みました。しかし諸政党の離合集散の中で代替案が見つからず、1933年1月、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名したのです。かくしてヒトラー内閣が発足し、ワイマール共和国の崩壊が始まりました

全権委任法の制定とワイマール憲法の形骸化

首相に就任したヒトラーは議会の多数派工作を進める一方、国会議事堂放火事件を利用して共産党議員を追放しました。そして1933年3月、ナチ党と国民党の賛成多数で全権委任法」を制定したのです。この法律は、政府に立法権を委任するもので、ワイマール憲法の基本原則を停止するに等しい内容でした。ここに議会制民主主義は有名無実化し、ヒトラー政権による事実上の独裁が始まりました。

ナチス独裁体制の確立


権力を掌握したナチスは、他の政党を次々と解散に追い込み、一党独裁体制を築き上げました。1934年8月、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領職を廃止し、首相の地位と統合して「総統」を名乗りました。ここに、国家と党が完全に一体化したナチス体制が確立されたのです。ワイマール憲法の諸規定は空文化し、基本的人権は抑圧されました。かくして、ワイマール憲法はその役割を終え、ドイツは暗黒の時代へと突入していったのでした。