【世界史】インド初の統一王朝を築いたアショーカ王の生涯と治世を徹底解説!【試験対策】

アショーカ王

アショーカ王はインド史上屈指の偉大な君主であり、初の全インド統一国家を樹立した人物として知られています。その生涯は数奇な運命の転変に彩られ、強大な征服王から仏教の理想君主へと変貌を遂げた稀有の為政者でした。

マウリヤ朝第3代皇帝として即位したアショーカ王は、残虐なカリンガ戦争に衝撃を受け、仏教に帰依。以後は法勅に示された慈悲と寛容の政治理念の下、広大な統一国家の安寧を目指しました。仏教を手厚く保護し各地に派遣した使節を通じてその教えを広めるなど、アショーカ王の事績は古代インドの宗教・文化の展開に大きな影響を与えたのです。

本記事では、アショーカ王の波乱に富んだ生涯を丹念に跡づけながら、統一国家の建設や仏教興隆など多岐にわたるその治世の意義を詳述します。インド史のみならず世界史的にも特筆すべきアショーカ王の事績の数々を、時代背景や思想的文脈も交えつつ浮き彫りにしていきましょう。

アショーカ王とは?出自と即位までの道のり

アショーカ王のプロフィール画像

マウリヤ朝第3代皇帝ビンドゥサーラの子として生まれる

  • 紀元前304年頃、マガダ国の首都パータリプトラで生まれる
  • 父はマウリヤ朝の第2代皇帝ビンドゥサーラ
  • マウリヤ朝は汎インド規模の統一王朝を築いた初の王朝

アショーカ王は、紀元前304年頃にマガダ国の首都パータリプトラで生まれました。父親はマウリヤ朝の第2代皇帝ビンドゥサーラです。マウリヤ朝は、先代のチャンドラグプタ・マウリヤによって樹立された王朝で、インド亜大陸の広範囲を支配下に治める初の統一王朝でした。

マウリヤ朝の版図は西北インドから中央インド、デカン高原南部に及び、強力な中央集権体制の下で統治されていました。アショーカ王の父ビンドゥサーラの治世には、さらに勢力を拡大。海上貿易や交易路の整備など、経済や外交の面でも国力の充実が図られました。このように統一国家の基盤が固まりつつある中で、皇子の1人としてアショーカは誕生したのです。

王位継承争いを制し皇太子に

  • ビンドゥサーラには多数の息子がおり、アショーカは上位の継承権者ではなかった
  • 兄弟たちとの王位継承争いを制し、副王の地位を得る
  • 有力な仏教教団の支持を得て、皇太子の座を射止める

マウリヤ王朝の王位継承は一子相続ではなく、有力な皇子が争う形で行われました。ビンドゥサーラ皇帝には多数の息子がおり、アショーカは上位の継承権者とは目されていませんでした。しかし政治手腕に長けたアショーカは、兄弟たちとの戦いに次々と勝利し頭角を現します。

副王としてウッジャイニーを治めた後、都パータリプトラに戻ったアショーカは、有力な仏教教団の支持を取り付けるなど、巧みに人心を掌握しました。政敵を排除しながら力をつけ、遂に皇太子の座を射止めるに至ったのです。卓越した戦略眼と政治力で勝ち抜いた経緯は、後のアショーカ王の治世における手腕を予見させるものでした。

父の死後、紀元前268年頃に即位

  • ビンドゥサーラ没後、紀元前268年にアショーカが33歳で即位
  • 戴冠式を盛大に行い、マウリヤ朝第3代皇帝の座に就く
  • 強大な軍事力と統治組織を継承し、版図拡大への足がかりを得る

父ビンドゥサーラの死から4年後、紀元前268年頃、アショーカは33歳の若さでマウリヤ朝の第3代皇帝に即位しました。パータリプトラでの盛大な戴冠式を経て、名実ともに王座に就いたのです。

先代から強大な軍事力と整った統治組織を継承したアショーカは、のちに版図をさらに拡げ、インド全土の统一を成し遂げることになります。また皇帝の座についたアショーカは、仏教に対する深い帰依を示し、王朝と仏教との関係を強める方向性を打ち出しました。理想の統治と国家の実現に向けて、アショーカ王の治世が本格的に始動したのです。

重要ポイント!
  • マウリヤ朝第3代皇帝ビンドゥサーラの子として生まれ、兄弟間の王位継承争いを制し皇太子の座を射止める
  • 紀元前268年頃、父王の死を受けて33歳で王位に就き、マウリヤ王朝の全盛期を現出する

版図拡大と統一インドの形成

カリンガ戦争で残虐な征服を敢行

  • 即位後、東部のカリンガ国を攻略し征服
  • 大量の戦死者と捕虜を出す徹底した破壊と虐殺
  • 戦争の惨状に心を痛めたアショーカ王は深く悔悟

アショーカ王は即位後まもなく、マウリヤ朝の版図拡大に乗り出します。標的となったのはインド東部の独立国カリンガでした。紀元前261年、大軍を送ってカリンガ国に侵攻したアショーカ王は徹底した征服戦争を敢行。カリンガ軍を圧倒的な軍事力で蹂躙しました。

戦いの結果、カリンガ側に10万以上の戦死者を出すなど甚大な被害が生じました。多数の捕虜を出し、住民に残虐な扱いを加えるなど、征服は徹底したものでした。アショーカ王自身、戦争の惨状を目の当たりにして心を痛め、深く悔悟したと伝えられています。

戦争の悲惨さに衝撃を受け仏教に帰依

  • 殺戮と破壊の限りを尽くした戦争に自省
  • 仏教の教えに触れ、唯一の救いと悟る
  • 王自ら仏教に帰依し、非暴力と慈悲の統治を誓う

これまで数々の戦いを勝ち抜き、強大な軍事力を誇示してきたアショーカ王でしたが、カリンガ戦争での殺戮と破壊の限りを尽くした光景に愕然とします。自らの行いを深く悔い、真の王道を模索するようになったのです。

そんな時、アショーカ王は仏教の教えに触れます。戦争のない平和な理想郷を説く仏陀の言葉に感銘を受け、仏教こそが唯一の救いと確信するに至ります。アショーカ王は王自ら仏教に帰依し、以後は非暴力と慈悲の心を以て国民を治めることを誓ったのでした。

インド全土の統一を果たす

  • 徳治主義に基づく寛容な統治で民心を掌握
  • 全インドを統一し、マウリヤ朝の全盛期を現出
  • 統一王朝樹立によりインドの歴史が大きく動く

仏教に帰依して以降のアショーカ王は、武力ではなく徳治主義に基づく寛容な統治を行います。慈愛と善政によって民心を掌握し、各地の武力征服も進めた結果、ついにアショーカ王はインド全土の統一を成し遂げたのです。

広大なインド全域を統べるマウリヤ帝国が誕生し、政治・経済・文化の面で空前の安定と繁栄を享受します。アショーカ王の治世はマウリヤ朝の全盛期と位置付けられ、インド史上初の統一王朝樹立は、後世のインドの歴史に計り知れない影響を与えることになりました。

重要ポイント!
  • カリンガ戦争での残虐な征服に衝撃を受け、深く仏教に帰依するに至る
  • 徳治主義に基づく寛容な統治により民心を掌握し、マウリヤ朝の版図を全インド的規模に拡大

仏教の育成と布教活動

上座部仏教を篤く信仰

  • 善政を布くための指針として仏教の教えを重視
  • 特に上座部仏教を篤く信仰し、王自ら護持
  • 仏教に基づく徳治主義を政治理念の根幹に据える

アショーカ王は仏教への帰依を決めると、以後の人生を仏陀の教えの実践に捧げました。理想の治世を行うための指針として仏教の教義を何よりも重視し、みずから篤い信仰心を示して民衆を導きます。

なかでもアショーカ王が心酔したのが上座部仏教です。上座部は仏教最古の伝統の一つで、仏陀の教えを忠実に守ることを重んじる部派。その厳格な戒律と禁欲的な修行に感銘を受けたアショーカ王は、自ら在家信者となって上座部を手厚く保護しました。王権と仏教教団が一体となって民衆を教化する体制が整えられたのです。

また、アショーカ王は仏教の理念を政治の根幹に据えることを目指しました。慈悲と寛容、平和と共生を説く仏陀の言葉を為政者の心得とし、徳の高い王こそが国民を幸福に導けると考えたのです。アショーカ王の仏教に基づく徳治主義は、王の政治姿勢を決定づける思想となりました。

第三結集を開催し教団の浄化を図る

  • 教団内の腐敗や教義の混乱を危惧
  • 王の主導で第三結集を開催し、戒律を確定
  • 大菩提寺で1万人の僧を集め、教団の浄化を断行

篤信者として仏教に対する手厚い保護を続けるアショーカ王でしたが、一方で教団内部の腐敗や怠慢、教義解釈の混乱を危惧するようになります。王は仏教の権威と求心力を高めるため、みずからが音頭を取って大規模な宗教会議「第三結集」を開くことを決断しました。

紀元前250年頃、王都パーター リプトラの大菩提寺に1万人もの僧侶が集められ、アショーカ王の主導の下で第三結集は開催されました。上座部の長老モッガリープッタ・ティッサを議長に、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の内容を検討し、正統な教義と戒律を確定。これにより教団の浄化と統制が図られたのです。

アショーカ王は第三結集の成果を自らの権威で裏付け、上座部仏教を「純粋な仏教」として公認しました。王と結びついた仏教は、より強固な基盤を得て民衆への普及を進めることになります。アショーカ王にとって、第三結集は理想の仏教を実現するための大事業だったのです。

仏教を国教に指定し国家の保護の下で教化を推進

  • 仏教を事実上の国教に指定し、手厚い保護と支援
  • 各地に石柱を建立して法勅を刻み、王の仏教徳治を宣言
  • 仏塔や僧院の造営を奨励し、仏教美術も隆盛

第三結集を経てアショーカ王と上座部仏教の一体化がより強まると、王は仏教をマウリヤ朝の事実上の国教に指定します。国家の手厚い保護と支援の下、仏教は民衆への布教を活発化しました。

アショーカ王は自らの法勅を刻んだ石柱を各地に建立し、仏教の教えに基づく徳治の理念を告げ知らせます。民衆は石柱を通じて、慈悲と非暴力の政治を明言する王の意志を知ることができたのです。また、王は仏塔や僧院の造営を奨励し、多くの仏教建築が造られました。仏教美術も隆盛を極め、アショーカ様式として知られる彫刻や建築が生み出されます。

国教としての手厚い保護と、王権の後ろ盾を得た布教活動により、仏教はアショーカ王の治世下で空前の広まりを見せました。インドの各地で教勢を拡大し、民衆の間に深く浸透していったのです。アショーカ王の仏教振興策は、インド仏教史の画期をなすものでした。

重要ポイント!
  • 仏教、特に上座部仏教を手厚く保護し、第三結集を開催して教団の浄化を図る
  • 仏教を事実上の国教に指定し、国家の庇護の下で精力的な教化活動を展開

法勅を通じた理想国家の統治

法勅に慈悲と寛容の政治理念を示す

  • 岩面や石柱に刻まれた法勅は、王の言葉を民に伝える重要な手段
  • 非暴力と慈愛、寛容と調和を説く法勅の数々
  • 功利主義ではなく生命の尊重と道徳の重視を強調

アショーカ王は理想の政治を民衆に知らしめるため、みずからの言葉を法勅として石に刻み、各地に建立しました。法勅は岩面や石柱に刻まれ、現在も30以上の刻文が確認されています。これらの法勅を通じ、アショーカ王は仏教に基づく為政者の心得を説きました。

法勅の随所に見られるのは、非暴力と慈愛、寛容と調和を重んじる姿勢です。アショーカ王は臣民に対し、民族や信仰の違いを越えて互いに慈しみ合うことを説きます。「寛容こそがもっとも大切な徳である」という言葉に象徴されるように、法勅からは深い人間愛に裏打ちされた政治理念が読み取れます。

また、王は法勅の中で功利主義的な発想を戒め、生命の尊重と道徳の重視を繰り返し説きました。「たとえ小さな生き物でも、殺生してはならない」と明言し、道徳なくして国家の安寧はありえないと強調します。アショーカ王にとって理想の政治とは、仏教の慈悲の心を体現することに他ならなかったのです。

徳治主義に基づき王自らが模範を示す

  • 王みずからが徳を実践することの重要性を説く
  • 僧侶への布施や巡礼を実践し、信仰心を示す
  • 民衆に向けて理想の生き方を説き、王自身が手本となる

アショーカ王は法勅の中で、為政者たる王自身が模範となって徳を実践することの重要性を繰り返し説きました。「善き行いをなすことが肝要である」と述べ、民衆を導く者は言行を一致させねばならないと強調します。

みずからの信仰を実践するため、アショーカ王は僧侶たちへの布施を欠かさず行いました。晩年には仏跡巡礼に赴き、仏陀ゆかりの地を訪れて信仰を深めています。こうした王の姿は、仏教に基づく徳治の理想を体現するものでした。

また、アショーカ王は法勅を通じて臣民にも理想の生き方を説きました。両親を敬い、友に誠実であれと説き、高い倫理観を持って人生を歩むことを奨励します。為政者のみならず民衆一人一人が、道徳的な生き方を目指すことがアショーカ王の理想でした。王は法勅に示された言葉を自ら実践することで、民衆の手本となることを目指したのです。

巡察官を派遣し民衆の福利向上に努める

  • 地方に王の代理として巡察官を派遣
  • 道徳の教化や民衆の諸問題の解決に当たらせる
  • 全国規模で福祉・医療政策を展開し、民生の安定を図る

アショーカ王は法勅に示した理想を単なる言葉に終わらせず、具体的な政策によって民衆の幸福の実現に努めました。その一環として、地方都市に王の代理として「法の巡察官」と呼ばれる役人を派遣します。

巡察官は各地を巡り、アショーカ王の法勅に則って民衆を教導しました。道徳や正義を説くとともに、民衆の抱える諸問題の解決に当たったのです。アショーカ王は巡察官を通じ、理想の統治を全国津々浦々に浸透させることを目指しました。

また、王は巡察官を介して全国規模の福祉・医療政策を展開します。病院を設立して民衆を治療し、薬草園を整備して医薬品の確保に努めました。遠隔地にも井戸を掘って人々に水を供給するなど、アショーカ王は広く社会福祉にも意を用いたのです。

理想を言葉だけでなく行動によって示し、民の福利向上に全力を尽くすアショーカ王の姿勢は、法勅に示された徳治の理念の実践そのものでした。アショーカ王にとって、理想の国家とは慈悲と寛容に満ちた政治が行き渡る世界だったのです。

重要ポイント!
  • 石柱や岩面に刻まれた法勅により、仏教に基づく慈悲と寛容の政治理念を説く
  • 王自ら理想を体現し民の模範となるべく努め、巡察官を派遣して各地の民衆の福利向上を図る

アショーカ王の歴史的評価と影響

インド統一と中央集権国家の礎を築く

  • 初の全インド規模の統一国家を樹立
  • 強力な中央集権体制を整備し、王朝の盛衰の先例に
  • 統一がもたらした政治的安定と経済・文化の隆盛

アショーカ王の治世の最大の功績は、インド亜大陸の統一を成し遂げたことにあります。マウリヤ朝の領土は南端のカンニャークマリから北端のヒンドゥークシュ山脈、西のアフガニスタンから東のベンガル湾に及び、初の全インド的規模の統一国家が出現したのです。

広大な版図を束ねるため、アショーカ王は強力な中央集権体制を整備しました。王を頂点とする官僚機構を整え、各地に総督を派遣して統治の浸透を図ります。この集権的な国家統合のシステムは、後のインドの王朝にも踏襲されるもので、アショーカ王の事績は統一国家樹立の先例となったのです。

政治的統一は経済や文化の発展も促しました。国内の交易路が整備され、商業が活性化します。統一によって安定を得た社会では学問や芸術も花開き、サンスクリット文学の興隆などインド古典文化の礎が築かれました。アショーカ王の統一事業は、政治のみならず経済・文化の面でもインド史の画期をなすものだったのです。

法勅は初期インド文字の貴重な資料

  • 法勅は紀元前3世紀のプラークリット語(俗語)の資料
  • 当時の言語の姿や書記法を知る手がかりに
  • バラモン教以外の宗教・思想の実態も伝える

アショーカ王の法勅は、碑文の内容自体の重要性とともに、初期インドの文字資料として大きな価値を持っています。法勅の大半はプラークリット語と呼ばれる俗語で記されており、紀元前3世紀当時の言語の姿を今に伝えています。

サンスクリット語が主に宗教的場面で用いられた一方、法勅は民衆に向けられたものだけに日常的な言葉が使われており、言語の実態や変遷を知る手がかりとなります。ブラーフミー文字など当時の書記法の発達を知る上でも、法勅は貴重な資料となっているのです。

また法勅は、バラモン教とは異なる宗教・思想の様相も伝えています。アショーカ王自身の言葉で記された仏教や唯物論の教義は、当時の多様な思想界の実像を今に伝える希有の資料です。碑文の内容そのものが、宗教史や思想史の重要な手がかりとなっているのです。

仏教はアショーカ王の庇護の下で南アジア・東南アジアに広まる

  • 国教として厚い保護を受けた仏教は全インドに拡大
  • スリランカを始め南アジア各地に伝播
  • 東南アジア諸国にも及び、上座部仏教の基盤に

アショーカ王の手厚い保護の下、仏教はマウリヤ朝期に空前の広まりを見せました。王の管轄下で実施された布教活動により、仏教は辺境の地にまで伝えられ、短期間で全インド的な宗教へと発展を遂げたのです。

王の派遣した仏教使節はスリランカを始め南アジア各地に渡りました。アショーカ王の息子マヒンダとその妹サンガミッターによってスリランカに伝えられた仏教は、土着化を遂げて以後のスリランカ仏教の主流となります。このようにアショーカ王の庇護はインド国内のみならず、仏教の対外的な伝播の画期ともなったのです。

さらにアショーカ王の影響力は東南アジアにも及びました。ミャンマーのモン族を通じて伝わった上座部仏教は、のちにタイ・ラオス・カンボジアなど東南アジア諸国の基層宗教となっていきます。アショーカ王の庇護なくしては、これほどまでの仏教の広まりは考えられません。まさにアショーカ王の治世は、仏教が世界宗教へと飛躍する決定的な転機だったのです。

重要ポイント!
  • インド初の統一国家を樹立し、中央集権体制の先鞭をつけた点で画期をなす
  • 仏教の広範な展開の基盤を築き、法勅に記された政治理念は現代にも通じる普遍的価値を持つ

試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント!
  • カリンガ戦争での惨禍を契機とする仏教への改宗が、王の政治姿勢の大きな転換点となった
  • 法勅に示された非暴力と寛容の思想は、王の目指した徳治主義の理念を端的に表している

カリンガ戦争を転機とする仏教への改宗

  • マウリヤ朝の全盛期を現出したアショーカ王の事績を理解する上で欠かせない出来事
  • 残虐な征服戦争の体験が、王の人生観と政治姿勢に決定的な転機をもたらした
  • 仏教への帰依が王の治世の性格を方向づけ、理想の政治を志向するようになった経緯をおさえる

アショーカ王の生涯において特筆すべき画期となったのが、カリンガ戦争とそれに続く仏教への改宗です。マウリヤ朝の全盛を告げる武力征服の一方で、戦争の残虐さに衝撃を受けた王が仏教に救いを見出すに至る経緯は、アショーカ王の事績全体を理解する上で欠かせないポイントとなります。

征服王としての絶頂期にカリンガの惨禍を目にしたことで、アショーカ王の人生観と政治姿勢は大きく変化しました。功利主義的な領土拡張への疑念を抱くようになり、仏教の教えに感化されて非暴力と慈悲の統治こそ理想と悟ったのです。王の仏教帰依は単なる個人的信仰の変化にとどまらず、治世の性格そのものを方向づける決定的な契機となりました。

このようにカリンガ戦争と仏教への改宗は表裏一体の出来事であり、アショーカ王の思想と為政者としての理想を考える上で重要な転換点となっています。世界史の試験では、カリンガ戦争前後の王の変化を的確に説明できることが求められるでしょう。

法勅に示された徳治主義の政治理念

  • 法勅はアショーカ王の政治思想を直接示す一級の史料
  • 仏教の教義に基づく慈悲と寛容の政治理念が色濃く打ち出されている
  • 功利主義的発想の否定、生命尊重と道徳律の重視など、王の理想とする為政者像が説かれている点に注目

アショーカ王の政治理念を知る上で決定的に重要なのが、各地の石柱や岩面に刻まれた法勅の数々です。王自身の言葉で直接記された法勅は、アショーカ王の目指した理想の政治の在り方を雄弁に物語る貴重な史料となっています。

法勅の随所には仏教の教義に根差した慈悲と寛容の精神が色濃く反映されており、アショーカ王の政治思想の基底をなしていることがわかります。殺生を戒め、罰ではなく教化によって民を善き方向に導こうとする姿勢は、仏教的慈悲の思想の発露と言えるでしょう。

また法勅では、功利主義的発想への警鐘が鳴らされ、為政者は生命の尊重と道徳の遵守に率先して努めるべきだと説かれます。政治の真の目的は物質的な繁栄ではなく道徳的理想の実現にこそあるとの見解は、アショーカ王の目指した徳治主義の核心を示すものです。

世界史の試験では、法勅の記述内容に即してアショーカ王の政治理念の特色を的確に説明できることが重要となります。法勅が示す為政者像を仏教思想との関係で捉え、王の思想的変遷とも結びつけて理解を深めましょう。

仏教の対外的な広がりとアショーカ王の影響力

  • アショーカ王の庇護の下で仏教が汎インド的規模に発展し対外的にも広まった経緯を押さえる
  • 使節の派遣によりスリランカを始め南アジア各地に仏教が伝播した歴史的意義
  • 東南アジア諸国の上座部仏教の源流となったアショーカ王の影響力の大きさを理解する

アショーカ王の事績を考える上で見落とせないのが、仏教の対外的な発展に果たした王の役割の大きさです。国教として厚い保護を受けた仏教は、アショーカ王期に汎インド的な広がりを見せただけでなく、王の感化力によって南アジアや東南アジアにも伝播していったのです。

とりわけ重要なのが、アショーカ王の派遣した使節によるスリランカへの仏教伝来の経緯です。王の息子マヒンダらによってスリランカにもたらされた仏教は、土着の信仰と融合しながら定着を遂げ、以後のスリランカの宗教・文化の基層を形作ることになりました。

また、アショーカ王の庇護を受けた上座部仏教が、のちにミャンマーを経て東南アジア諸国に広まっていった点も重要です。現在のタイ・ラオス・カンボジアなどの上座仏教圏の源流は、アショーカ王期に遡ることができるのです。

このように、アショーカ王の影響力は単にインド国内にとどまらず、南アジアや東南アジアの文化形成にも大きな役割を果たしました。アショーカ王の事績が持つ広範な歴史的意義を、対外関係の観点からも多角的に考察することが肝要です。

アショーカ王に関する確認テスト

選択式の問題で知識チェック

問1. アショーカ王が在位したマウリヤ朝について、正しいものを選びなさい。
a. マウリヤ朝でのアショーカ王の在位は紀元前3世紀頃のことである。
b. マウリヤ朝はアショーカ王の時代に衰退の兆しを見せ始めた。
c. マウリヤ朝の首都はデリーに置かれていた。
d. アショーカ王はマウリヤ朝の第2代皇帝である。

正解:a

マウリヤ朝でのアショーカ王の在位は紀元前268年頃から前232年頃のことで、第3代皇帝に当たります。マウリヤ朝はアショーカ王の治世に最盛期を迎え、首都はパータリプトラに置かれました。

問2. アショーカ王の宗教政策について適切でないものを選びなさい。
a. 親仏教政策を採用し、仏教を手厚く保護した。
b. 第三結集を開催し、仏教教団の浄化を図った。
c. 法勅に仏教の教えを反映させ、慈悲と寛容の政治理念を示した。
d. バラモン教を禁止し、仏教のみを認める政策を採った。

正解:d

アショーカ王は仏教を篤く信仰し手厚い保護を加えましたが、だからといって仏教以外の宗教を禁じたわけではありません。法勅でも宗教的寛容の態度が示されており、バラモン教を含む諸宗教の並存が認められていました。

問3. アショーカ王の事績と関連の深い地名はどれか。
a. サールナート
b. カリンガ
c. ナーランダー
d. アジャンター

正解:b

カリンガはアショーカ王が征服した東部の国で、この戦争での惨禍が王の仏教帰依のきっかけとなりました。他の3つの地名はアショーカ王とは直接関係の薄い、仏教の聖地です。

問4. アショーカ王からスリランカに派遣されて仏教を伝えたのは誰か。
a. ブッダゴーサ
b. マヒンダ
c. ナーガールジュナ
d. パドマサンバヴァ

正解:b

アショーカ王から派遣されてスリランカに渡り、仏教を広めたのは王の息子マヒンダです。伝承によれば、妹のサンガミッターも同行したとされます。その他の人名は、アショーカ王より後の時代の仏教者です。

問5. アショーカ王の法勅の内容として誤っているものを選びなさい。
a. 巡察官の派遣により各地の民衆の福利向上に努めたことが示されている。
b. 非暴力と慈悲、寛容の徳目が説かれている。
c. バラモン教の優位性が謳われ、仏教は批判的に扱われている。
d. 王自らが徳を実践することの重要性が説かれている。

正解:c

アショーカ王の法勅は仏教の教えに基づく慈悲と寛容の精神を説いたもので、バラモン教の優位性を謳ったり仏教を批判したりするような内容は見られません。非暴力の重視、王みずからの徳の実践、巡察官の派遣については実際に法勅に記されています。

アショーカ王の事績は、インド史のみならず世界史全体を見渡しても特筆すべき意義を持っています。インド初の統一国家の樹立、仏教の広範な展開など、アショーカ王の治世はまさに古代インドの画期をなすものでした。また法勅に示された政治理念は、非暴力と宗教的寛容の重要性を説くもので、今日の世界にも通じる普遍的な思想的価値を含んでいます。

アショーカ王の生涯と事績について基本的事項を確認しつつ、その歴史的意義を多角的に考察することが、世界史学習における古代インド理解の要諦と言えるでしょう。

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