【ピノチェトをわかりやすく解説】独裁者か改革者か?世界史重要ポイントまとめ

ピノチェト

Ministerio de Relaciones Exteriores de Chile., CC BY 2.0 CL 改変済み https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/cl/deed.en, via Wikimedia Commons

抑えるべき重要ポイント!

アウグスト・ピノチェト(1915年11月25日-2006年12月10日)は、チリの軍人・政治家です。1973年9月11日、ピノチェトはクーデターを率いて社会主義者アジェンデ政権を打倒し、その後1990年まで軍事独裁政権を率いました。この期間、ピノチェト政権はネオリベラリズムに基づく経済政策を導入する一方で、人権侵害や弾圧を行ったとして批判も受けています。外交面では、隣国のアルゼンチンとはビーグル海峡の領有権をめぐって対立しました。1988年の国民投票で敗れた後、1990年に大統領を退任しましたが、終生上院議員の地位にあり、政界に影響力を持ち続けました。

ピノチェトとは?政権掌握までの経緯

ピノチェトのプロフィール画像

Ministerio de Relaciones Exteriores de Chile., CC BY 2.0 CL 改変済み https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/cl/deed.en, via Wikimedia Commons

重要ポイント!
  • 1973年、ピノチェト将軍が軍事クーデターを主導し、アジェンデ社会主義政権を打倒した。
  • ピノチェトは軍政のトップに就任し、議会を解散、政党を非合法化するなど独裁体制を確立した。

チリの歴史的背景とクーデター勃発

1970年、チリでは社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領選挙で勝利しました。アジェンデ政権は銅山の国有化など急進的な改革を進めましたが、野党勢力や財界の強い反発を招き、経済は混乱に陥りました。政情不安が高まる中、1973年9月11日、時のチリ陸軍司令官だったピノチェトが軍事クーデターを決行。アジェンデ大統領は殺害され、社会主義政権は崩壊しました。

ピノチェト将軍の台頭と独裁体制の確立

クーデター後、ピノチェトは軍事政権のトップに就任し、独裁体制を確立しました。議会は解散され、左翼政党は非合法化されました。ピノチェトは共産主義者をはじめとする反政府勢力に徹底的な弾圧を加える一方、経済面では新自由主義路線を打ち出しました。シカゴ学派のエコノミストを招聘し、「ショック療法」と呼ばれる急激な市場原理改革を断行。政治的自由は抑圧される中、外資導入や国営企業の民営化などが進められました。

ピノチェト政権下のチリ

重要ポイント!
  • ピノチェト政権は新自由主義経済改革を断行し、一時的な経済成長を実現したが、貧富の格差は拡大した。
  • 反体制派への徹底的な弾圧により、3,000人以上が死亡、1,000人以上が行方不明になるなど重大な人権侵害が発生した。

新自由主義に基づく経済改革とその影響

ピノチェト政権は「ショック療法」と呼ばれる急進的な市場原理改革を断行します。関税引き下げや国営企業の民営化、規制緩和、財政緊縮などを矢継ぎ早に実施。これにより一時的にはインフレ抑制と経済成長を実現しましたが、外資導入に依存する脆弱な経済構造が定着。失業率は上昇し、貧富の格差が拡大しました。特に労働者層や低所得者層への打撃は大きく、「経済の奇跡」とは裏腹に社会の分断が深まっていきました。

反対勢力への弾圧と人権侵害問題

独裁体制を維持するため、ピノチェト政権は反体制派への徹底的な弾圧を行いました。恐怖政治の中心的役割を担ったのが、秘密警察DINA(国家情報局)です。DINAは反政府活動家らを次々に逮捕・拘束し、スタジアムを強制収容所として使用。拷問・虐待を日常的に行い、多くの犠牲者を出しました。政治犯の多くは「飛行機」と呼ばれる方法で、麻薬を打たれた状態で航空機から海に投棄され、殺害されたとされています。

人権団体の調査によれば、ピノチェト政権下で3,000人以上が死亡、1,000人以上が行方不明になったとされています。国際社会からも強い非難を浴び、米国でも経済制裁を受けました。民政移管後の1990年には、人権侵害の真相解明を目的とする「チリ真実和解委員会」が発足。ピノチェト時代の人権侵害の実態が白日の下にさらされ、被害者への補償が勧告されました。

ピノチェト政権の終焉と遺産

重要ポイント!
  •  1988年の国民投票でピノチェトの続投が否決され、1990年に17年間の独裁に幕を下ろした。
  • ピノチェトは「チリの経済発展の立役者」と「独裁者・人権侵害者」の両面で評価が分かれる論争的な存在である。

1980年代、経済危機の深刻化や人権問題への批判の高まりを背景に、ピノチェト政権の求心力は低下していきます。1988年、ピノチェトは大統領任期の延長を問う国民投票を実施しますが、野党連合の「ノー」キャンペーンが勝利。これを機にチリは民主化への道を歩み始めました。

民政移管プロセスと民主化

1988年10月5日、ピノチェトの大統領続投の可否を問う国民投票が実施されました。「ノー」を訴える野党連合は55%の支持を得て勝利。ピノチェトの敗北が確定し、チリに民主化の機運が高まります。1989年12月の大統領選では、キリスト教民主党のパトリシオ・アイルウィンが当選。1990年3月、ピノチェトは17年に及ぶ独裁に幕を下ろし、アイルウィン政権下で民政が移管されました。

新政権は真実和解委員会を設置し、ピノチェト時代の人権侵害の真相解明と被害者への補償を進めます。一方、経済政策については新自由主義路線を修正しつつも基本的に継承。民主化と経済発展を両立させた「チリモデル」は、その後のラテンアメリカ諸国の模範とされました。

ピノチェトの功罪をめぐる評価

2006年12月、ピノチェトはチリの現役将校時代からの隠退後の引退生活をしていたサンティアゴ郊外の自宅で、心不全のため91歳で死去しました。「独裁者」「人権侵害の元凶」として非難する声がある一方、「チリの経済的繁栄の立役者」と評価する向きもあり、今なお論争が絶えません。

ピノチェト時代を肯定的に捉える人々は、クーデター前の混乱を収拾し、チリをラテンアメリカ屈指の経済大国に導いた功績を強調します。他方、人権団体などは軍政下の弾圧と非道を糾弾。3,000人以上の死者、1,000人以上の行方不明者を出した人権侵害の責任は免れないとの立場です。

チリ社会に深い爪痕を残したピノチェトの統治は、「光と影」の両面を持つ複雑な遺産として、現在も人々の記憶に刻まれ続けています。その歴史的評価をめぐっては、世代を超えて議論が続くことでしょう。

試験で問われる重要ポイント

抑えるべき用語!

(1) 新自由主義
ピノチェト政権下で導入された経済政策。市場原理を重視し、国営企業の民営化、規制緩和、外資導入などを進めた。一時的にインフレ抑制と経済成長を実現したが、貧富の格差拡大などの弊害も指摘される。

(2) 人権侵害
ピノチェト独裁体制下で横行した、基本的人権の不当な侵害行為。反体制派に対する不法拘束、拷問、虐殺など組織的な人権侵害により、3,000人以上が死亡、1,000人以上が行方不明になったとされる。国際的な批判を浴びた。

(3) 民政移管
軍政から文民政権(民政)への政権委譲を指す。ピノチェト政権は1988年の国民投票での敗北を機に求心力を失い、1990年に17年間の独裁に終止符を打った。その後は中道・左派連合政権下で民主化が進展した。

ピノチェトに関する世界史の試験では、クーデターから民政移管までの一連の経緯や、新自由主義改革と人権侵害の問題が主要論点となります。頻出ポイントを整理しておきましょう。

クーデターと軍事政権樹立の経緯

1970年に社会主義者アジェンデが大統領に就任すると、急進的な改革を進めて経済が混乱、政情不安が高まります。1973年9月11日、ピノチェト将軍が軍事クーデターを決行し、アジェンデ政権を打倒。軍政のトップに就いたピノチェトは独裁体制を確立しました。

新自由主義改革の内容と是非

ピノチェト政権はシカゴ学派エコノミストを招き、新自由主義に基づく経済改革を断行。国営企業の民営化、規制緩和、外資導入などにより、一時はインフレ抑制と経済成長を実現。しかし貧富の格差は拡大し、外資依存の脆弱な経済構造が定着したとの批判もあります。

人権侵害の実態と国際的批判

独裁体制下、ピノチェト政権は反体制派への徹底的な弾圧を行い、3,000人以上の死者と1,000人以上の行方不明者を出しました。秘密警察による拷問・虐殺・失踪など組織的な人権侵害が続発。国際人権団体がキャンペーンを展開し、欧米諸国は経済制裁に動きました。

民政移管の背景と過程

1980年代、経済危機の深刻化や人権侵害批判の高まりを背景に、ピノチェト政権の求心力は低下。1988年の国民投票で、ピノチェトの大統領任期延長が否決されます。1990年3月、17年に及んだピノチェト政権に幕が下り、中道・左派連合のアイルウィン政権下で民政移管が実現しました。

ピノチェト関連の確認テスト

ここまで学習したピノチェトに関する重要事項の理解度を確認しましょう。以下の設問に答えてみてください。

年表穴埋め問題

次の空欄①〜④に当てはまる語句を答えなさい。

ピノチェトは(① )年、アジェンデ政権に対する軍事クーデターを主導した。1974年には(② )に就任し、独裁体制を敷いた。その後1980年に新憲法を制定して大統領となるが、1988年の(③ )で敗北。(④ )年、17年に及んだピノチェト政権は幕を閉じ、民政移管が実現した。

解答:
① 1973
② 国家元首
③ 国民投票
④ 1990