アヘン戦争とは何か
アヘン戦争に至る経緯
【背景】三角貿易をめぐる清とイギリスの対立
イギリスが運営する東インド会社が三角貿易を取り仕切っていました。
三角貿易は、産業革命で大量生産できるようになった綿織物をイギリスからインドに輸出し、中国からお茶や絹をイギリスは輸入する一方、インドで生産されたアヘンを清に密輸する三者間の貿易です。
清はアヘンの販売と使用を禁止していましたが、イギリス商人は利益を求めて密輸を続行しました。
また両国の貿易観・世界観は大きく異なっていました。清は伝統的な「朝貢貿易」の理念を持ち、夷狄(外国人)を見下していたのに対し、イギリスは自由貿易の拡大を求めていたのです。こうした価値観の違いが対立を深めていきました。
アヘン密輸の横行と清の取り締まり強化
1830年代、アヘンの密輸がますます盛んになると、清は取り締まりを強化します。1839年、道光帝は林則徐を広東に派遣し、アヘン密輸の根絶を命令しました。林則徐は外国商館を包囲し、イギリス人に莫大なアヘンを引き渡すよう要求。結局、イギリス側は2万箱以上のアヘンを提出し、林則徐はこれを没収して海に投棄・焼却したのです。
これにより、イギリス人商人は莫大な損害を被りました。本国の世論が清への強硬論で沸き返り、イギリス政府は武力行使に踏み切り、アヘン戦争を開戦しました。
アヘン戦争の展開
イギリス艦隊の侵攻と清朝の混乱
1840年6月、イギリス艦隊が広州湾に到達し、事実上の戦争が始まりました。当初、イギリス軍は珠江への侵入を試みましたが、林則徐の警備強化により予想外の抵抗を受け、厦門でも上陸できませんでした。
イギリス軍は北上を続け、7月に舟山島を占領して前進基地とし、さらに渤海湾に侵入しました。天津沖までイギリス海軍が迫ったことに清朝政府は驚き、林則徐を罷免し、広州での交渉に切り替えました。
1841年1月、イギリス軍が攻撃を再開すると、道光帝はようやく開戦を決断し、宣戦布告を行いました。しかし現地では琦善がすでに香港島の割譲などを約束しており、清朝政府は面目を失いました。
各地の戦闘と清軍の敗北
4月、イギリス軍は虎門砲台を攻略し、守将関天培らの奮戦むなしく落城しました。5月には奕山率いる清軍も敗退を重ね、イギリス軍は厦門、定海、鎮海、寧波を次々と占領していきました。
広州侵攻の際、現地の民衆は「平英団」を結成し、イギリス軍に抵抗を試みました。外国勢力への民衆レベルの反発が、すでにこの時点で芽生えていたことは注目に値します。
大運河封鎖と和平交渉へ
イギリス軍は上海を占領し、南京に迫ると、大運河の起点である鎮江を占拠して封鎖を宣言しました。中国経済の大動脈を脅かされた清朝は、ついに和平交渉に応じざるを得なくなったのです。
アヘン戦争の終結と南京条約
清の敗北と屈辱的講和
1842年、清はイギリスとの講和を決断します。8月、南京で講和条約(南京条約)が結ばれました。この条約で清は以下のような大きな譲歩を迫られたのです。
- 香港島をイギリスに割譲
- 2100万ドルの賠償金支払い
- 上海など5港の開港
- 関税自主権の喪失
こうして、アヘン戦争は清の完敗に終わりました。列強の軍門に下った屈辱的な条約となったのです。
アヘン戦争の歴史的意義
中国の伝統的国際秩序観の崩壊
アヘン戦争の敗北により、清を形成していた伝統的な「朝貢」と「華夷秩序」が崩壊しました。
列強の中国進出と半植民地化の始まり
香港の割譲と開港は、列強の中国進出の契機となりました。以後、清は次々と不平等条約を結ばされ、主権を蚕食されていきます。半植民地化の過程が始まったのです。
中華思想の動揺と近代化の模索
敗戦により、中華帝国の優越性を説く伝統的な中華思想は動揺しました。危機感を募らせた知識人は、変法自強を唱え、近代化の道を模索し始めるのです。
試験で問われるポイント
原因:
- アヘン貿易の是非をめぐる対立
- 清のアヘン取引規制の強化
発端:
- 林則徐によるアヘンの没収と焼却
- これによるイギリス商人の損害
経過:
- アヘン戦争の勃発から南京条約の締結まで
- イギリスの圧倒的な軍事力と清軍の敗北
結果:
- 南京条約の締結と不平等な内容
- 香港島の割譲と5港の開港、賠償金の支払い
影響:
- 清朝の衰退の始まりと半植民地化
- 中国の伝統的な国際秩序観の崩壊と危機感の高まり
確認テスト
問1. アヘン戦争の戦端となった、アヘンの没収と焼却を行ったのはだれか。
解答:林則徐
問2. アヘン戦争で清が割譲した島は何か。
解答:香港
問3. アヘン戦争後、清が列強と結んだ条約を何というか。
a. 北京条約 b. 南京条約 c. 天津条約
解答:b. 南京条約