冷戦終結のきっかけ – ゴルバチョフ登場と改革への動き
ペレストロイカとグラスノスチ – ソ連の改革・開放政策
1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任しました。彼は停滞したソ連経済を立て直すため、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)という二つの政策を打ち出します。
ペレストロイカでは、市場原理の部分的導入や企業の自主権拡大など、社会主義経済の非効率性を改善することを目指しました。一方、グラスノスチは言論の自由を促進し、政治体制の透明性を高める政策でした。
これらの政策は、東欧諸国に自由化の機運を呼び起こす一因となりました。同時に、改革の矛盾がソ連邦の求心力を弱め、後の崩壊を招く原因ともなったのです。
レーガン、ブッシュ政権下での米ソ関係改善の模索
米国では、レーガン政権下で対ソ強硬路線がとられていましたが、1980年代後半には米ソ関係改善の機運が高まります。レーガン大統領はゴルバチョフ書記長との首脳会談を重ね、軍縮交渉を進めました。
1989年に大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュも、ゴルバチョフとの協調路線を継承。マルタ会談でブッシュとゴルバチョフは冷戦終結を宣言し、平和な世界秩序の構築に向けて動き出したのです。
こうした米ソ首脳同士の信頼醸成が、東欧革命をはじめとする冷戦終結への流れを加速させることになりました。
冷戦終結を加速させる民主化の波
ポーランドの自主管理労働組合「連帯」の結成と影響力
東欧の自由化は、ポーランドの自主管理労働組合「連帯」の活動から始まりました。1980年にグダニスクの造船所で結成された「連帯」は、自由な労働運動と政治的多元主義を求めて活動。一時は弾圧を受けましたが、1989年には共産政権との円卓会議で合意に達し、東欧初の自由選挙を実現させました。
「連帯」の成功は、他の東欧諸国の民主化運動に大きな影響を与えました。労働者や知識人が団結し、平和的に政治改革を求める姿勢は、チェコスロバキアの「ビロード革命」やブルガリアの「宮殿クーデター」など、次々と起こる市民革命の原動力となったのです。
ハンガリーの鉄のカーテン撤去と東ドイツ難民の流入
ハンガリーでも、1980年代後半から改革の動きが活発化。1988年に共産党改革派のネーメト・ミクローシュが首相に就任すると、鉄のカーテンの撤去など、開放政策が進められました。
1989年9月11日、ハンガリー政府はオーストリアとの国境にある鉄条網の撤去を発表。東ドイツからの多くの難民がハンガリーを経由して西側に脱出する契機となりました。
東欧諸国からの大量の難民流入は、東ドイツ市民の不満を一気に爆発させる要因となり、東欧革命の連鎖反応を引き起こすこととなったのです。
東西ドイツ統一 – 冷戦終焉の象徴的出来事
東ドイツ市民の大規模デモとベルリンの壁崩壊
ライプツィヒを中心に、東ドイツ各地で市民による大規模なデモが頻発。自由と政治改革を求める市民の圧力に、東ドイツ政府は徐々に譲歩せざるを得なくなりました。
1989年11月9日、東ドイツ政府は誤ってベルリンの壁の開放を発表。喜びに沸く市民によって、壁は一気に崩されていきました。
ベルリンの壁の崩壊は、東ドイツ市民の熱意と勇気による歴史的成果であり、東欧の民主化運動のシンボルとなる出来事でした。
歴史的瞬間 – 自由の獲得と東西ドイツの統一へ
ベルリンの壁崩壊の報を受け、東西ドイツ市民は国境を超えて抱き合い、歓喜の渦に包まれました。東ドイツ市民にとって、これは長年の抑圧からの解放であり、自由の獲得という歴史的瞬間でした。
1990年、東西ドイツは正式に統一を果たします。ドイツ統一は、ヨーロッパと世界の秩序に大きな影響を及ぼすこととなりました。
ベルリンの壁の崩壊は、東欧革命という民主化の連鎖反応の象徴であり、冷戦の終焉を告げる決定的な出来事となったのです。
マルタ会談 – 冷戦終結への具体的一歩
初の米ソ首脳による冷戦終結宣言
1989年12月、マルタ島で米ソ首脳会談が行われました。ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長は、東西の対立を乗り越え、新たな協調関係の構築を宣言。事実上の冷戦終結宣言と受け止められました。
両首脳は、イデオロギーの違いを乗り越えて共通の価値観に立脚し、核軍縮や地域紛争解決に向けて協調していくことで合意しました。東欧情勢の安定的な推移を見守ることも確認されました。
ドイツ統一問題や軍縮の話し合い
マルタ会談では、急速に進むドイツ統一の扱いについても話し合われました。NATO残留を望む西ドイツと、中立を主張するソ連の立場の違いが調整され、統一ドイツがNATOに残ることが容認される道筋がつきました。
また、戦略核兵器の大幅削減や、通常兵器削減交渉(CFE)の進展など、軍縮の具体的方策についても議論が行われ、米ソ両国の協調が進みました。
マルタ会談は、東西首脳が垣根を越えて信頼関係を築いた歴史的な会談であり、冷戦の終結に向けて大きく舵を切る転換点となりました。
ソ連邦の崩壊 – 冷戦の終焉
バルト三国の独立とソ連からの相次ぐ離脱
ソ連邦では、ペレストロイカの副作用もあり、構成共和国の自立や独立の動きが活発化します。1990年3月、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)が相次いでソ連からの独立を宣言。他の構成共和国も独立の動きを見せ始めました。
中央政府の求心力は大きく低下し、ソ連邦は急速に瓦解へと向かいました。1991年8月の保守派によるクーデター未遂事件後、ソ連からの離脱は決定的となったのです。
新生ロシア連邦の誕生とCIS結成
1991年12月、ソ連邦は正式に消滅。代わってロシア連邦が誕生し、ボリス・エリツィンが初代大統領に就任しました。旧ソ連の構成共和国の多くは独立を果たし、独立国家共同体(CIS)を結成。ロシアとの緩やかな連合体として、新たな地域秩序の形成を模索し始めました。
一方、ロシアは、社会主義から資本主義への体制移行という困難な課題に直面。経済の混乱や社会不安など、多くの問題を抱えることになりました。
ワルシャワ条約機構の解体で幕を下ろした東側陣営
ソ連邦崩壊と前後して、東側諸国の集団安全保障機構であるワルシャワ条約機構も解体されました。1991年7月、加盟国の合意により、ワルシャワ条約機構は正式に消滅。東欧諸国はその後、NATOへの加盟を目指すなど、西側との関係強化へと舵を切りました。
こうして、東西の対立構造は完全に崩れ去り、冷戦は終焉を迎えたのです。世界は、イデオロギーの対立を超えた新たな協調の時代へと歩みを進め始めました。