ジョージ3世とは – イギリス王室の系譜と即位の経緯
ハノーヴァー朝の始まりと名誉革命
ジョージ3世が属するハノーヴァー朝は、1714年にスチュアート朝の後を継いでイギリス王位に就いた。その発端となったのは、1688年の名誉革命である。専制的なスチュアート朝のジェームズ2世に対し、議会派が蜂起。ジェームズ2世を退位に追い込み、メアリー2世とオランダ総督ウィリアム3世を共同統治者に迎えた。さらに権利章典を制定し、議会の権限を強化。立憲君主制への第一歩を踏み出した画期的な出来事だった。
ジョージ3世の先代君主たちの治世
名誉革命後、メアリー2世とウィリアム3世が共同統治するが、2人に子はなく、メアリーの妹アン女王が継いだ。しかしアン女王にも跡継ぎがいなかったため、ハノーヴァー選帝侯ジョージ1世(在:1714-1727)が即位。以後、ジョージ2世(在:1727-1760)を経て、ジョージ3世(在:1760-1820)へと続くハノーヴァー朝の全盛期を迎える。ジョージ1世、2世と権力を握った政治家ロバート・ウォルポールの下で、名誉革命後の政治体制が安定化。新たな時代の幕開けとなった。
ジョージ3世の統治 – 専制君主から立憲君主への転換
七年戦争とイギリスの世界的覇権
1756年、オーストリア継承戦争に端を発する七年戦争が勃発。イギリスはプロイセンと同盟し、宿敵フランスと全面対決。ヨーロッパや北米、インドなど世界各地で戦端が開かれた。戦いはイギリス・プロイセン同盟軍の勝利に終わり、1763年のパリ条約で決着。イギリスはフランスから北米の広大な植民地や、インドでの商業的権益を獲得。七年戦争の結果、イギリスは名実ともに世界の覇権国家となった。
イギリス議会との確執と権力闘争
七年戦争後のイギリスでは、戦費を賄うための増税をめぐり政情が不安定化。ジョージ3世は即位当初、議会に対し強硬な姿勢で臨んだが、次第に妥協を余儀なくされる。1770年代には、北アメリカ植民地の反乱に直面。議会との対立の末、1782年には内閣を指名する権限を失った。以後、ジョージ3世は「君臨すれども統治せず」の立場に甘んじ、政治の実権は議会へと移っていく。ジョージ3世治世下で、イギリスは専制から立憲君主制への過渡期を経験したのである。
アメリカ独立戦争 – ジョージ3世にとっての試練
アメリカ植民地の反乱とボストン茶会事件
七年戦争の戦費を賄うため、イギリス議会は北米植民地に新税を課した。これに反発した植民地は、1773年のボストン茶会事件を機に反乱。「代表なくして課税なし」を掲げ、イギリスからの独立を目指す。これに対し、ジョージ3世は強硬策を主張。植民地への譲歩は「王権の弱体化」に直結すると、妥協を一切拒んだ。その頑なな姿勢が、独立戦争の泥沼化を招く遠因となったと評価される。
戦争の拡大と大陸軍の勝利
1775年、レキシントン・コンコードの戦いに端を発し、独立戦争が本格化。ジョージ・ワシントンが指揮する大陸軍は当初苦戦を強いられたが、次第に戦局を好転させる。1777年のサラトガの戦いでイギリス軍を破ると、戦争はヨーロッパにも拡大。宿敵フランスがアメリカ側に参戦し、スペインやオランダも対英戦に加わった。こうした国際情勢の変化が、大陸軍を勝利に導く決定打となった。
パリ条約とアメリカ合衆国の独立承認
1781年のヨークタウンの戦いで大陸軍が勝利し、独立戦争は終結へ。1783年、パリで講和条約が調印された。イギリスはアメリカ13州の独立を承認し、ミシシッピ川以東の領土を割譲。新生国家アメリカ合衆国の誕生である。ジョージ3世はアメリカの独立を受け入れざるを得ず、「世界の帝国」の夢は潰えた。以後、イギリスは植民地政策の転換を迫られ、自治領の拡大を進めていくこととなる。
ジョージ3世治世下の国内改革
産業革命の始まりと社会の変化
18世紀後半、イギリスでは産業革命が始まった。綿工業を筆頭に、機械制工場による大量生産が可能に。都市部への人口集中が加速し、社会構造が大きく変化した。この過程で、特権階級と平民の対立が先鋭化。選挙制度改革など、政治の民主化を求める声が高まった。ジョージ3世は旧弊な体制の守護者として、改革の動きに抵抗。その保守的姿勢が、国王の求心力低下を招いた。
ピット父子の登用と行政・財政改革
ジョージ3世は宰相に、ウィリアム・ピット(ピット老)とその子ウィリアム・ピット(ピット子)を登用。2人はイギリスの行政・財政改革を断行し、近代国家としての基盤を整えた。ピット老は就任早々、汚職の一掃に着手。能力主義を徹底し、行政の効率化を進めた。ピット子も、所得税の導入や奴隷貿易の廃止など、一連の改革を成し遂げた。こうしたピット父子の手腕が、フランス革命やナポレオン戦争の動乱を乗り越える原動力となった。
フランス革命とナポレオン戦争への対応
フランス革命勃発とイギリスの動向
1789年、フランスで市民革命が勃発。ジョージ3世はフランスの混乱を歓迎せず、革命勢力への強硬姿勢を主張した。一方、チャールズ・フォックスら野党のホイッグ党は、革命の理念に一定の共感を示した。イギリス国内では、トマス・ペインの『人間の権利』など革命思想の影響を受けた書籍が広まり、政府は言論統制を強化。1793年、ルイ16世処刑を機にフランスに宣戦布告。イギリスはオーストリア、プロイセンと第一次対仏同盟を結成し、フランス革命戦争に突入した。
ナポレオンの台頭と第二次対仏同盟
1799年、ナポレオン・ボナパルトがクーデタでフランスの実権を掌握。その後、皇帝に即位したナポレオンは、ヨーロッパ制覇を目指して次々と周辺諸国を征服していく。これに危機感を募らせたイギリスは、1798年、ロシアなどと第二次対仏同盟を結成。ナポレオン打倒に乗り出す。1805年のトラファルガーの海戦では、ネルソン提督率いる艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を撃破。制海権を握ったイギリスは、経済封鎖戦略に転じてナポレオンを追い詰めた。
ワーテルローの戦いとウィーン体制の成立
1812年、ナポレオンのロシア遠征が失敗に終わると、戦局は一気にイギリス側優位に。1814年の第一次パリ講和でナポレオンは退位に追い込まれ、エルバ島に流刑となった。しかし翌1815年、ナポレオンが脱出・復権。百日天下を打ち立てた。これに対し、イギリスはプロイセン、オランダなどと第七次対仏同盟を結成。6月18日、ワーテルローでナポレオン軍と決戦を交えた。ウェリントン将軍率いる連合軍が勝利し、ナポレオンは再び退位。セント・ヘレナ島へ流された。その後ウィーン会議が開かれ、ウィーン体制が成立。イギリスはナポレオン戦争の「勝者」として、19世紀のヨーロッパ国際秩序を主導することとなった。
晩年のジョージ3世と治世の総括
ジョージ3世の精神疾患と摂政の設置
晩年のジョージ3世は、精神疾患に悩まされた。1788年には憂鬱と錯乱に陥り、国王としての公務が困難に。長男ジョージ4世が摂政に就任する事態となった。さらに1810年、ジョージ3世は完全に視力を失明。以後、ジョージ4世が実質的に国政を担うこととなった。ジョージ3世は在位60年を超える長期政権の末、1820年1月29日に崩御。ウィンザー城の地下礼拝堂に葬られた。
功績と限界 – 専制と立憲のはざまで
ジョージ3世は、イギリスが専制君主制から立憲君主制へと移行する過渡期に君臨した。即位当初は議会に強硬姿勢で臨んだが、次第に譲歩を余儀なくされた。アメリカ独立戦争では植民地を喪失し、権威失墜は免れなかった。しかしフランス革命やナポレオン戦争では、ピット父子の助言を受けながら難局を乗り越えた。行政・財政改革を進め、イギリスの「近代化」を推し進めた点は評価に値する。また、産業革命の進展で階級対立が深刻化する中、民主化の要求を抑え込み、革命の波及を防いだ。保守的な体制の守護者として、安定したイギリス社会の礎を築いたとの見方もできよう。もっとも、その過程でジョージ3世の求心力は大きく低下。「君臨すれども統治せず」へと、王権は形骸化の一途を辿った。「人民の王」を自認したジョージ3世だが、同時に立憲君主制という「王権の衰退」を招いた皮肉な人物とも言える。
試験で問われる重要ポイント
- ハノーヴァー朝の始まりと名誉革命の意義
- 七年戦争を通じたイギリスの世界的覇権の確立
- アメリカ独立戦争とジョージ3世の強硬姿勢
- 産業革命による社会変化とジョージ3世の保守性
- ピット父子の行政・財政改革とその影響
- フランス革命・ナポレオン戦争へのイギリスの対応
- ジョージ3世治世下での王権の形骸化と立憲君主制の本格化
確認テスト
問1 名誉革命で制定された、議会の権限を強化した法令は?
a. 人身保護法 b. 権利章典 c. 星室庁裁判所廃止法 d. トレランス法
解答:b
問2 七年戦争後のパリ条約で、イギリスはフランスからどの地域の権益を獲得した?
a. 北米とインド b. 西インド諸島とアフリカ c. 地中海とバルト海 d. 東南アジアと太平洋
解答:a
問3 アメリカ独立戦争中、フランスが参戦した契機となった戦いは?
a. レキシントンの戦い b. バンカーヒルの戦い c. サラトガの戦い d. ヨークタウンの戦い
解答:c
問4 産業革命期のイギリスで最も発展した工業は?
a. 造船業 b. 製鉄業 c. 綿工業 d. 製粉業
解答:c
問5 ナポレオン戦争中、イギリス艦隊が勝利した海戦は?
a. ナイル海戦 b. トラファルガーの海戦 c. ワーテルローの戦い d. レパントの海戦
解答:b