フランス革命をわかりやすく解説|ルイ16世の処刑やナポレオンの台頭

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フランス革命の簡単な解説!

フランス革命は、1789年にフランスで起こった大きな出来事です。当時のフランスでは、国王が全ての権力を持っていて、貴族や聖職者は税金を払わず、平民だけが重い税金を払っていました。国王ルイ16世が貴族にも税金を払ってもらおうとしたところ、貴族たちが反対したため、ルイ16世は三部会という会議を開きました。

しかし、平民の代表者たちは貴族や聖職者と同じ権利を求めて国民議会を作りました。国王が軍隊を使ってこれを止めようとすると、パリの人々が蜂起し、バスティーユ牢獄を襲撃しました。これがフランス革命の始まりです。

その後、国民議会が人権宣言を出したり、国王の権力を憲法で制限する立憲君主制を始めたりしました。しかし、ルイ16世が外国に逃げ出そうとしたことから、王権は停止され、ルイ16世と王妃のマリーアントワネットが処刑され、共和制に変わりました。一時は恐怖政治が行われましたが、最終的にはナポレオンが登場し、革命は終わりを迎えました。

1. フランス革命の概要

1-1.フランス革命が起きた理由

18世紀末のフランスでは、絶対王政のもと、国王が全ての権力を握っていました。社会は聖職者、貴族、平民の三つの身分に分かれ、特権を持つ聖職者と貴族は税金を払わず、重い税負担は平民にのしかかっていました。さらに、度重なる戦争による財政難から、ルイ16世は課税対象を貴族にも広げようとしましたが、彼らの反発を受けて断念せざるを得ませんでした。

こうした状況で、ルイ16世は三部会を招集し、改革に着手しようとします。しかし、平民の代表である第三身分は、聖職者・貴族と同じ投票権を要求。これが認められないと、国民議会を設立し、憲法制定を目指しました。これに対し、国王が武力で弾圧しようとすると、パリ市民が蜂起。1789年7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃したのが、フランス革命の始まりです。

1-2.立憲君主制の導入

1789年の8月、国民議会は封建制度の廃止を宣言し、人権宣言を発表しました。1791年には、立憲君主制を定めた憲法を制定しました。立憲君主制とは、国王の権力を憲法で制限する政治の仕組みです。しかし、オーストリアやプロイセンは、革命が自国に広がることを恐れ、フランスに攻め込みました。フランス国民は祖国と革命を守るために、義勇兵として戦いました。この間、国王は外国逃亡を図りますが捕まってしまうヴァレンヌ逃亡事件が発生します。

1-3.共和制への移行

1792年、王権が停止され、新たに国民公会が成立しました。国民公会は共和制を宣言し、ルイ16世を処刑。共和制とは、世襲の君主を置かず、人民の代表者による政治を行う体制のことです。フランスでは、国民公会が立法権と行政権を握る独裁的な政治が行われました。

1-4.革命の過激化と終結

国王処刑後、ジャコバン派が台頭し、ロベスピエールを中心とする過激派が恐怖政治を敷きました。彼らは、革命の理念に反対する者を次々に処刑し、教会や伝統的価値観を否定。また、戦時体制の中で、物価統制や公定価格制を導入するなど、経済にも大きな影響を与えました。

しかし、1794年7月、ロベスピエールら過激派が失脚し、恐怖政治は終焉。穏健派の台頭により、1795年には新憲法が制定され、総裁政府が発足しました。その後、1799年にナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こし、第一統領に就任。これによって、革命は終結を迎えたのです。

2. フランス革命が起きた背景

フランス革命が起きた背景
  • 特権階級と平民の間の不平等、言論の自由の制限に対する不満や民衆の生活難も革命の原因
  • 深刻化する財政難、特権階級と第三身分の対立や政府への不信が革命への原動力

2-1. 絶対王政下の社会問題と民衆の不満

当時のフランスでは、国王ルイ16世が立法・行政・司法の全権を掌握する絶対王政を敷いており、言論の自由が制限され、国民が政治に参加する機会はほとんどありませんでした。

また、特権階級である聖職者と貴族は免税の特権を享受する一方、平民には重税が課されるなど身分制度に基づく不平等が続いていました。この不平等は、啓蒙思想の影響で自由や平等を求める機運が高まっていた当時の雰囲気とは相容れないものでした。

加えて、数年間に渡る凶作や物価高騰によって民衆の生活はさらに苦しくなり、絶対王政と特権階級に対する不満が募っていきました。こうした社会問題と民衆の不満は、フランス革命への導火線となったのです。

2-2. 財政難と三部会の対立

当時のフランスは、七年戦争やアメリカ独立戦争への参戦などで多額の戦費を費やしたことに加え、ヴェルサイユ宮殿の改修など宮廷の贅沢な生活でも財政を圧迫していました。その一方で、徴税システムが非効率的だったことや特権階級が免税の特権を持っていたことで、十分な税収を確保できずにいました。

財政再建を目指したルイ16世は、聖職者会・貴族会・第三身分の三部会を招集します。しかし増税に反対する聖職者と貴族は特権の維持を主張し、平等な課税を求める第三身分との間で対立が激化しました。投票方式を巡っても、身分ごとの投票を主張する特権階級と、頭数による投票を求める第三身分の意見は平行線をたどりました。

こうして行き詰まりを見せた三部会の対立は、第三身分が国民議会を名乗って独自に活動を始めるという事態を招きます。財政危機を解決できない政府への不信と、特権階級への反発は、革命への大きな原動力となりました。

3. フランス革命の経過

フランス革命の経過
  • 三部会での対立から第三身分が国民議会を宣言、国王と国民議会の対立が続く中でバスティーユ牢獄襲撃が発生
  • 国民議会が自由・平等・財産権を求めて人権宣言を発布し、対立した国王ルイ16世処刑されて王政が廃止、ジャコバン派が台頭して恐怖政治が行われた

3-1. 三部会からバスティーユ牢獄襲撃へ

財政危機を打開するために招集された三部会でしたが、聖職者・貴族と第三身分の対立が深まる一方でした。第三身分は「頭数による投票」を主張し、聖職者の一部と合流して「国民議会」を宣言します。6月20日には、国民議会の代表がテニスコートに集まり、憲法制定まで解散しないことを誓う「テニスコートの誓い」が行われました。

これに対し国王は態度を硬化させましたが、パリの民衆の支持を得た国民議会を容認せざるを得ませんでした。しかし国王と国民議会の対立は続き、7月14日には、パリの民衆が蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃する事件が起こります。当時、専制政治の象徴と見なされていたバスティーユ牢獄が陥落したことで、民衆蜂起は全土に広がっていきました。

この民衆蜂起をきっかけに、国民議会は封建的な特権の廃止に乗り出し、教会の特権や領主の権利が否定されました。こうして、民衆の力を背景に、国民議会主導での改革が本格化していくのです。

3-2. 人権宣言、ルイ16世の処刑と恐怖政治

1789年8月26日、国民議会は「人間と市民の権利宣言」を発布しました。この宣言では、「人は自由かつ平等な権利を持って生まれ、生存する」と述べられ、自由・平等・財産権などが確認されました。また国民主権の原理が宣言され、この宣言は新しい憲法の基礎となりました。

しかし、革命の過程では国王ルイ16世との対立が続きます。1791年6月、国王一家が国外逃亡を図るも途中で捕らえられるヴァレンヌ逃亡事件が起き、君主制に対する国民の不信感が高まりました。過激派が台頭する中、ルイ16世は裁判にかけられ、1793年1月に死刑が宣告されて処刑されました。王政が廃止され、共和制の樹立が宣言されます。

その後、ロベスピエールら急進派のジャコバン派が台頭し、恐怖政治と呼ばれる過激な改革が行われるようになります。反革命勢力に対する大規模な粛清が行われ、多くの人々が処刑されました。しかし1794年7月、ロベスピエールら指導者が処刑されると、恐怖政治は終結し、穏健派が主導権を握るようになりました。

4. フランス革命の結果と影響

フランス革命の結果と影響
  • ナポレオンが台頭して独裁体制を確立、フランスは絶対王政から立憲君主制共和制へと移行
  • フランス革命の理念がヨーロッパ諸国に影響を与え、専制君主への反発民主化運動が高まり近代ヨーロッパ史の転換点に

4-1. ナポレオンの台頭とフランスの変化

恐怖政治による混乱を収拾したのが、ナポレオン・ボナパルトでした。ナポレオンは統領政府の実権を掌握し、1799年のクーデターによって第一統領に就任します。そして国民投票を経て1804年には皇帝に即位し、独裁体制を確立しました。

ナポレオンの下で、フランスは大きく変化します。まず、絶対王政から立憲君主制、共和制へと政体が移行し、身分制度が廃止されて法の下の平等が実現しました。また中央集権化が進み、行政・司法・教育制度などの改革によって、近代国家の基盤が築かれました。ナポレオン法典の編纂は、私有財産制や契約自由の原則など、近代市民法の整備に大きく寄与しました。

こうした変革を背景に、ナポレオンはヨーロッパ各地に遠征を繰り広げ、フランスの覇権を確立していきます。ナポレオン戦争と呼ばれるこれらの戦いは、ヨーロッパの地図を塗り替え、各国に大きな影響を及ぼしました。

4-2. フランス革命がヨーロッパ諸国に与えた影響

「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命の理念は、各国の人々に専制君主に対する反発心を呼び起こし、民主化や国民国家樹立を求める運動が広がりました。

オランダやスイスでは、フランス革命に触発された革命が発生し、共和制の樹立を目指す動きが活発化しました。またドイツやイタリアでは、封建的な分裂状態を脱し、統一国家の樹立を求めるナショナリズム運動が台頭しました。

こうしてヨーロッパ全体に広がった革命の波は、保守勢力と革命勢力の対立を生み、その後の国際情勢を大きく左右することになります。1815年のウィーン会議で成立したウィーン体制は、フランス革命の影響を抑え込むことを目的としたものでしたが、1848年の諸革命へとつながる自由主義・民族主義の潮流を完全に押し止めることはできませんでした。