ボストン茶会事件をわかりやすく解説|アメリカ独立革命の導火線となった事件の全貌を簡単理解

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ボストン茶会事件を簡単に解説!

ボストン茶会事件は、1773年に、イギリスの茶に対する重税に反発したアメリカ植民地の人々が、イギリス東インド会社の茶を積んだ船から茶箱を海中に投げ込んだ事件。

イギリス議会が定めた茶法に対する抗議行動であり、アメリカ独立戦争の発端。

1. ボストン茶会事件とは何か

ボストン茶会事件とは何か
  • 1773年に起きた、アメリカ植民地の人々によるイギリス東インド会社の茶の投棄事件
  • アメリカ独立革命の導火線となった象徴的な抵抗運動

1-1. ボストン茶会事件の概要

ボストン茶会事件は、1773年12月16日に起きたアメリカ植民地の抗議運動です。イギリスアメリカ植民地に茶を輸出する際茶税を課していたことに反発した植民地の人々が、ボストン港に入港したイギリス船から大量の茶を海に投棄しました。これは、イギリスの植民地支配に対する象徴的な抵抗行為となりました。

事件の中心人物は、サミュエル・アダムズや、後のアメリカ独立宣言の起草者ジョン・ハンコックらで、彼らは「自由の息子」と呼ばれる抵抗組織のメンバーでした。イギリス船ダーツマス号などが積んでいた大量の茶葉が、インディアンに扮した植民地の人々によって海に投げ込まれました。これにより、現在の価値にして約100万ドル相当の茶が廃棄されたと言われています。

1-2. アメリカ独立革命における位置づけ

ボストン茶会事件は、アメリカ独立革命の導火線となった重要な出来事です。長年にわたるイギリスの重商主義政策に反発し、「代表なくして課税なし」を掲げた植民地の人々の怒りが爆発した瞬間でした。

この事件をきっかけに、イギリス議会は翌1774年にボストン港閉鎖法などの弾圧的措置を取りましたが、これが逆に植民地の団結を強め第一次大陸会議開催につながりました。そして、1776年7月4日のアメリカ独立宣言へと直結していく重要な転換点となったのです。

このように、ボストン茶会事件は、アメリカが独立国家の道を歩み始めるうえで、歴史的な分岐点となった象徴的な事件だったのです。

2. ボストン茶会事件の背景 ~アメリカ植民地とイギリスの対立~

ボストン茶会事件の背景
  • イギリスの重商主義政策と、植民地に課された砂糖法印紙法タウンゼンド諸法への反発
  • 東インド会社への茶の独占販売権付与に対する植民地の不満

2-1. イギリスの重商主義政策と植民地の反発

18世紀のイギリス重商主義の経済思想に基づき、自国の富を増大させるため、植民地を搾取する政策を取っていました。本国の製造業を保護育成し、植民地を原料供給地および商品の販売市場として位置づけたのです。アメリカ植民地の人々自治と自由貿易を求めており、次第にイギリスへの反発を強めていきました。

2-2. 砂糖法・印紙法・タウンゼンド諸法の内容と影響

イギリスは、植民地の経済活動に対して次々と課税しました。1764年の砂糖法輸入砂糖に税を課し、翌年の印紙法新聞や法律文書などにも印紙税を導入しました。1767年のタウンゼンド諸法では、茶・ガラス・紙などにも税金が課されました。

これらの法律は本国のための増税という性格が強く、「代表なくして課税なし」を主張する植民地の人々の反発を招きました。各地で不買運動が起こり、ボストン虐殺事件(1770年)など、イギリス軍との衝突も起きました。

2-3. 東インド会社の茶葉独占販売権

1773年、イギリス議会東インド会社に茶の対米直接販売を認める法律制定しました。これは同社の経営危機を救済する一方、茶税徴収し、密輸も取り締まる狙いがありました。植民地側からは、本国の企業を特別扱いする不公平な措置だと受け止められました。

こうして、イギリスの一連の政策への不満が募る中、東インド会社の茶を積んだ船がボストン港に到着この茶の荷揚げを阻止したのが、ボストン茶会事件だったのです。

3. ボストン茶会事件の経過

ボストン茶会事件の経過
  • サミュエル・アダムズらの抵抗運動と、茶の荷揚げ阻止計画
  • ダーツマス号などの茶の積み荷を海に投棄し、イギリス議会の報復措置植民地の反発

3-1. サミュエル・アダムズらの抵抗運動

ボストンでは、サミュエル・アダムズ中心となり、イギリス本国からの茶の荷揚げに反対する運動が起こりました。植民地の自治を求める急進派の秘密結社自由の息子のメンバーが中心で、町の人々に茶を買わないよう呼びかけを行いました。

一方、当時のボストン総督ハッチンソンは、東インド会社への配慮から茶の荷揚げを認める立場を取りました。これに反発したアダムズらは、12月16日の夜、茶の積み荷の荷揚げを実力で阻止する計画を立てたのです。

3-2. ダーツマス号などの積み荷の投棄

12月16日の夜、先住民に扮した「自由の息子」のメンバーら50~60人が、ボストン港に停泊中のダーツマス号、エレノア号、ビーバー号の3隻に乗り込みました。彼らは船内から大量の茶箱を次々と船外に投げ込み、総計342箱(現在の価値で約100万ドル相当)の茶を海に沈めたのです。

イギリス議会の命令で、総督は軍を動員せず、茶の破壊を傍観するしかありませんでした。この事件は、本国の意向に真っ向から反抗する植民地の姿勢を印象付ける劇的なデモンストレーションとなりました。

3-3. イギリス議会の対応と植民地の反発

茶会事件に激怒したイギリス議会は、1774年一連の法律を制定して報復しました。ボストン港閉鎖法では、茶の損害賠償がなされるまでボストン港を閉鎖マサチューセッツ統治法では、同植民地の自治権を大幅に制限しました。

これらの弾圧的な措置は、逆に植民地の結束を固めることになりました。ボストンへの同情が広がり、他の植民地から支援物資が届けられました。9月にはフィラデルフィア第一次大陸会議が開かれ、イギリスへの抗議と不買運動の継続が決議されたのです。

4. ボストン茶会事件の結果 ~独立革命への導火線~

ボストン茶会事件の結果と影響
  • 第一次大陸会議の開催と、植民地の団結
  • 独立戦争を経て、第二次大陸会議は独立宣言を採択

4-1. 第一次大陸会議の開催

ボストン茶会事件後の議会の対応をきっかけに、アメリカ13植民地の代表者が1774年9月にフィラデルフィアに集まり、第一次大陸会議開催しました。イギリスに抗議する「権利宣言」を採択し、イギリス商品の不買運動を決議。植民地の団結を内外に示しました。

4-2. 独立宣言へのプロセス

大陸会議を経て、植民地とイギリスの対立は決定的になりました。1775年独立戦争勃発を経て、1776年7月4日、フィラデルフィアの第二次大陸会議独立宣言採択アメリカ合衆国の誕生を宣言し、イギリスからの完全独立に踏み切ったのです。

ボストン茶会事件は、この独立宣言へと直結する重要な契機となりました。事件後の展開は、もはや和解の余地のない植民地とイギリスの対立構図を決定づけたのです。アメリカ建国の「神話」としても語り継がれるようになりました。