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王羲之とは?
東晋時代を代表する書家
王羲之(おう ぎし、303年〜361年)は、中国の東晋時代を代表する書家である。山陽郡の臨海県(現在の浙江省台州市)に生まれ、一族に名だたる書家を多く輩出した名門の出身。若くして頭角を現し、当時の書壇をリードした傑出した才能の持ち主だった。特に行書の書風を集大成し、書の表現力を極限まで高めた功績は大きい。六朝時代の貴族文化を体現する人物の一人とされている。
「書聖」の称号を与えられた伝説的人物
王羲之は、後世「書聖」と尊称され、書道史上の金字塔として、崇高な地位を与えられている伝説的な人物である。唐代には王羲之を「書之聖」「書之神」と称え、千古不朽の書家としての評価を確立。以降、王羲之は書道の理想像として君臨し、歴代の書家たちに多大な影響を与え続けた。顔真卿、柳公権、趙孟頫など歴代の名筆家たちも、王羲之の書風を規範とし、その作品に範を求めたと伝えられる。
王羲之の生涯
書家一族に生まれ、幼少期から才能を発揮
王羲之は、東晋の開国功臣である王導の孫にあたり、父も著名な書家だった。祖父・父の代から三代続く書の名家に育ち、幼少期から非凡な才能を発揮したと伝えられる。5歳の時に祖父に故事成語「羲之操筆」のエピソードを残すなど、神童ぶりは周囲を驚かせた。10代半ばで下賢良書を書いた際は、父から「この子は将来必ず名を成すだろう」と絶賛されたという。
官僚としての経歴と文人としての交流
王羲之は、官僚としても順調に昇進し、会稽内史、右軍将軍などの要職を歴任。東晋の宮廷に仕え、皇帝の側近として重きをなした。しかし、理想とする政治からは程遠い現実に幻滅し、40代前半で官界を引退。隠遁生活に入ると、文人墨客との交流に没頭し、精神性の高い芸術世界を探求した。当時を代表する文人たちとの交流は王羲之の人格形成にも大きな影響を与えたとされる。
代表作「蘭亭序」
『蘭亭序』(神龍半印本、部分)
蘭亭の宴での制作エピソード
王羲之の書跡の中で最も有名なのが「蘭亭序」である。353年の上巳の節句に、会稽山陰の蘭亭で催された名士たちの宴「蘭亭の会」で即興で記されたもの。当日は曲水の宴が行われ、順番に詩を作りながら酒杯を流した。宴もたけなわになった頃、王羲之が酔った勢いでこの文章を書き上げたという。この時の王羲之は41歳。人生と芸術の円熟期を迎えていた。
行書の完成形としての「蘭亭序」の芸術性
「蘭亭序」は、行書の完成形として書道史に名を残す傑作。線質の美しさ、字形の整った安定感、一字一字の呼応のバランスなどが絶妙。特に「之」「也」「生」など連綿と続く流麗な運筆は王羲之の真骨頂。この時期の心境を反映してか、若い頃の作品に比べて、さらに洗練された芸術性の高さが際立っている。唐代には「天下第一行書」と称えられ、顔真卿ら歴代の書家たちのお手本となった。
王羲之の書の特徴と影響
行書の大成者として後世に与えた影響
王羲之は、行書の表現力を最高レベルにまで高め、書聖と称される所以を示した行書の大成者。楷書の持つ品格と草書の持つ勢いを兼ね備え、線質の妙味や全体の調和の取れた美しさは、後世へ多大な影響を与えた。唐代の欧陽詢・虞世南・顔真卿、宋代の蘇軾・黄庭堅・米芾など、歴代の書家は軌を一にして王羲之を宗師とし、その書風は古典として後世に範を垂れ続けた。
「三跡」と呼ばれる伝説の書跡
王羲之の膨大な書跡の中でも、「蘭亭序」「十七帖」「喪乱帖」は「三跡」と称され、書道芸術の最高峰とされている。いずれも王羲之の書の神髄を伝える国宝級の書蹟。「蘭亭序」は行書の完成形、「十七帖」は若書きの力強さ、「喪乱帖」は晩年期の渋みと枯淡の美を示すなど、その芸術性は広範。王羲之は生涯にわたって理想の書を追求し、その書は常に時代の書風をリードし続けた。
王羲之の人物像と逸話
天才書家としての逸話と伝説
王羲之の天才ぶりを示す逸話は枚挙に暇がない。幼少期の「羲之操筆」のエピソードは前述の通り。また、「蘭亭序」を酔った勢いで一気呵成に書き上げたという逸話や、「蘭亭の水」と称される名水で墨をすり、その墨で書を書くと上達すると言われるなど、王羲之にまつわる伝説は多い。書に没頭するあまり、食事を忘れて一日中書き続けたという話も、天才書家としての逸話の一つ。
文人墨客としての交友関係と人間性
王羲之は、東晋を代表する文人墨客として、知識人たちとの交流を深めた。孫綽、謝安、支遁など、当代随一の教養人たちと、詩文や書画を通じて芸術の理想を語り合った。「蘭亭の会」で筆をふるったした「蘭亭序」も、文人たちとの交流が生んだ不朽の名作。王羲之は、芸術を通じて人生の本質を見つめる感性の人でもあった。「人生は久しからず」と人生の儚さを説く「蘭亭序」の一節は、王羲之の深い人生観を表している。