1. 冷戦とは
1-1. 冷戦の特徴
冷戦とは、第二次世界大戦後の1947年頃から1991年まで続いた、アメリカ合衆国を中心とする西側諸国と、ソビエト連邦(ソ連)を中心とする東側諸国との対立のことです。両陣営は直接的な武力衝突を避けつつ、軍拡競争や代理戦争、宇宙開発競争などを通じて覇権を争いました。この期間、世界は資本主義陣営と社会主義陣営に二分され、イデオロギーの対立が先鋭化しました。冷戦の「冷」とは、両陣営が直接戦火を交えることなく対峙したことを意味します。
1-2. 冷戦がはじまったのはいつ?
冷戦の始まりを特定の出来事に限定することは難しいですが、一般的には以下の出来事がその契機となったと考えられています。
・1946年のウィンストン・チャーチルによる「鉄のカーテン」演説
・1947年のトルーマン・ドクトリンの発表と封じ込め政策の開始
・1948年から49年にかけてのベルリン封鎖
これらの出来事を通じて、戦後の国際秩序をめぐる米ソの対立が決定的なものになっていきました。特に、トルーマン・ドクトリンの発表は、アメリカが共産主義の拡大を積極的に阻止する方針を明確にした点で重要な転換点だったと言えるでしょう。
1-3. 冷戦の終結
冷戦は、1980年代後半からのソ連での一連の改革(ペレストロイカ)と東欧諸国の民主化、そして1991年12月のソビエト連邦の解体によって終結しました。具体的には、以下の出来事が冷戦終結の象徴的な出来事と考えられています。
・1989年11月のベルリンの壁崩壊
・1990年10月のドイツ再統一
・1991年7月の戦略兵器削減条約(START I)調印
・1991年12月のソビエト連邦解体宣言
ソ連の崩壊により、東西冷戦の構図は解消されました。アメリカは唯一の超大国としての地位を確立し、冷戦後の国際秩序を主導していくことになります。
1-4. 冷戦の主要参加国
冷戦には多くの国が関与しましたが、主要参加国は以下の通りです。
西側諸国(資本主義陣営):
・アメリカ合衆国
・西ドイツ
・フランス
・イギリス
・日本
東側諸国(社会主義陣営):
・ソビエト連邦
・東ドイツ
・ポーランド
・チェコスロバキア
・ハンガリー
冷戦に直接参加しなかった多くの国々は、両陣営のいずれかに同調するか、あるいは非同盟・中立の立場を取りました。第三世界の多くの国は、米ソ両陣営から影響力を行使されつつ、時に両者を駆け引きの材料として利用する複雑な立ち位置に置かれました。
2. 冷戦のはじまり
2-1. ヤルタ会談とポツダム会談
冷戦の背景には、第二次世界大戦末期の連合国首脳会談、特に1945年2月のヤルタ会談と同年7月のポツダム会談における連合国間の対立がありました。
ヤルタ会談では、戦後のヨーロッパの領土問題や対ドイツ政策について協議が行われました。しかし、ソ連のスターリンは東欧諸国に親ソ政権を樹立する方針を示し、西側諸国との亀裂が生じました。
ポツダム会談でも、戦後処理をめぐる米英ソの対立が浮き彫りになりました。特に、ドイツ占領地域の分割統治方式をめぐって意見が対立し、東西分断の萌芽が見られました。
2-2. トルーマン・ドクトリンと封じ込め政策
1947年3月、アメリカのトルーマン大統領は議会で演説を行い、共産主義の脅威に対抗するため、自由主義諸国を支援する方針を表明しました。これはトルーマン・ドクトリンと呼ばれ、封じ込め政策の基礎となりました。
封じ込め政策とは、共産主義勢力のこれ以上の拡大を阻止することを目的とした一連の外交政策です。具体的には、ギリシャ・トルコへの軍事・経済援助、西ヨーロッパ復興のためのマーシャルプランなどが実施されました。
これらの政策は、東西陣営の対立を決定的なものにし、冷戦の本格化につながりました。
2-3. NATO結成とワルシャワ条約機構
冷戦の進展とともに、東西両陣営は軍事同盟の結成を進めました。
1949年4月、アメリカ、カナダ、西ヨーロッパ諸国による北大西洋条約機構(NATO)が結成されました。NATOは集団防衛を目的とする軍事同盟で、西側諸国の安全保障の要となりました。
一方、ソ連は1955年5月、東欧諸国とワルシャワ条約機構(ワルシャワ条約)を結成しました。これは、NATOに対抗する東側の軍事同盟で、ソ連の影響力を東欧に確保する狙いがありました。
東西の軍事同盟の結成は、冷戦の構図を固定化し、軍拡競争を加速させる要因となりました。同時に、両陣営の対立が全面戦争に発展するリスクを常にはらんでいました。
3. 冷戦の主戦場と危機
3-1. 朝鮮戦争
朝鮮戦争は、冷戦初の本格的な代理戦争となりました。1950年6月、ソ連の支援を受けた北朝鮮が韓国に侵攻したことから戦争が勃発しました。アメリカを中心とする国連軍が韓国側を支援し、中国が北朝鮮側に参戦しました。
戦線は38度線を挟んで膠着状態に陥り、1953年7月に休戦協定が結ばれました。朝鮮戦争は、東西陣営の対立が武力衝突に発展する危険性を示すとともに、朝鮮半島の分断を固定化させる結果となりました。
3-2. ベルリン危機とベルリンの壁構築
ベルリン危機は、東西冷戦の象徴的な出来事の1つです。1961年8月、東ドイツ政府は西ベルリンへの移動を制限するため、東西ベルリンの境界にコンクリートの壁を建設しました。これがベルリンの壁です。
ベルリンの壁は、東西ドイツの分断と東ドイツ市民の自由の制限を具現化したものでした。壁をめぐっては、東ドイツ市民の脱出者が相次ぎ、多くの犠牲者が出ました。ベルリンの壁は、1989年11月の崩壊まで東西冷戦の象徴であり続けました。
3-3. キューバ危機
1962年10月、ソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、米ソ間の緊張が最高潮に達しました。これがキューバ危機です。
アメリカのケネディ大統領は、キューバ封鎖を実施し、ソ連に基地撤去を迫りました。一方、ソ連のフルシチョフ首相は当初これを拒否。世界は核戦争の瀬戸際に立たされました。
結局、ソ連がミサイルを撤去し、アメリカがキューバ侵攻を断念することで危機は収拾されました。キューバ危機は、冷戦が核戦争に転化する危険性を世界に知らしめた出来事となりました。
3-4. ベトナム戦争
ベトナム戦争は、冷戦最大の代理戦争となりました。1960年代、アメリカは南ベトナムの反共政権を支援し、北ベトナムと戦闘を開始しました。ソ連や中国は北ベトナムを支援しました。
戦争は泥沼化し、アメリカ国内では反戦運動が高まりました。1973年1月、パリ和平協定が調印され、アメリカ軍は撤退しました。しかし、1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムを制圧し、戦争は終結しました。
ベトナム戦争は、冷戦構造の下での大国の軍事介入の限界を示すとともに、アメリカ国内に大きな社会変動をもたらしました。
4. 冷戦終結への道のり
4-1. デタントの時代
1970年代に入ると、米ソ関係は緊張緩和(デタント)の時期を迎えました。1972年5月、ニクソン大統領が訪ソし、戦略兵器制限交渉(SALT)に調印しました。これにより、米ソの軍拡競争に一定の歯止めがかかりました。
また、1975年7月には宇宙飛行士の国際共同ミッションであるアポロ・ソユーズ計画が実施されるなど、米ソ協調の動きも見られました。デタントは、ベトナム戦争の終結や中国との関係改善など、国際情勢の変化を背景に進展しました。
4-2. ゴルバチョフの登場とペレストロイカ
1985年3月、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任しました。ゴルバチョフは、停滞したソ連経済と硬直化した政治体制を改革するため、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進しました。
ペレストロイカは、計画経済の部分的な自由化や地方分権化などを目指すものでした。ゴルバチョフは、軍事費を削減し、外交面でも西側諸国との関係改善を進めました。こうした改革は、東欧諸国の民主化運動を後押しする結果となりました。
4-3. 東欧革命
1989年、東欧諸国で民主化を求める大規模なデモが相次ぎ、社会主義政権が次々と崩壊しました。これを東欧革命と呼びます。
ポーランドでは自由選挙が実施され、連帯が勝利を収めました。ハンガリーでは複数政党制への移行が宣言され、チェコスロバキアでは「ビロード革命」が起こりました。東ドイツでは、大規模デモを受けて社会主義統一党政権が崩壊しました。
ソ連のゴルバチョフは、これらの変革を軍事介入で抑え込むことをせず、東欧の民主化を事実上容認しました。これにより、戦後の東西対立の構図は決定的に崩れ去ることになりました。
4-4. ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一
東欧革命の象徴的な出来事が、1989年11月のベルリンの壁崩壊でした。東ドイツ政府が国境開放を発表すると、多くの市民が壁に殺到し、壁の崩壊が始まりました。
ベルリンの壁崩壊は、東西ドイツの分断の終わりを告げるものでした。1990年10月、東西ドイツは再統一を果たし、冷戦の象徴であった分断は解消されました。
ドイツ再統一は、ヨーロッパの地政学的な構図を大きく変化させるとともに、冷戦構造の解体を加速させる出来事となりました。ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年12月、ソビエト連邦は解体され、冷戦は終結しました。
5. 冷戦の参加国と陣営
5-1. 西側陣営 – 米国と西欧諸国
冷戦の西側陣営は、アメリカ合衆国と西ヨーロッパ諸国を中心に形成されました。アメリカは、戦後の資本主義世界の盟主として、西側陣営の軍事・経済面での支柱となりました。
西ヨーロッパでは、イギリス、フランス、西ドイツなどが重要な同盟国でした。これらの国々は、アメリカの援助を受けつつ、NATOの枠組みの中で集団防衛体制を構築しました。日本も、アメリカとの安全保障条約を軸に西側陣営に属しました。
西側諸国は、市場経済と議会制民主主義を基本的な価値として共有し、共産主義陣営に対抗しました。同時に、植民地の独立をめぐる問題や、経済的な対立など、陣営内部でも様々な課題を抱えていました。
5-2. 東側陣営 – ソ連と東欧諸国
冷戦の東側陣営は、ソビエト連邦と東ヨーロッパ諸国によって構成されました。ソ連は、マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家として、東側陣営の盟主としての役割を果たしました。
東欧諸国では、第二次世界大戦後にソ連の影響下で社会主義政権が樹立されました。ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなどが主要な同盟国でした。これらの国々は、ワルシャワ条約機構の下で軍事同盟を結び、ソ連の指導に従いました。
東側諸国は、計画経済と一党独裁を特徴とし、個人の自由や人権は制限されていました。ソ連は、東欧諸国の自立的な動きを強硬に抑え込む一方、経済・軍事面で各国を支援しました。
5-3. 非同盟諸国 – 第三世界の台頭
冷戦期には、多くの新興独立国が第三世界として台頭しました。これらの国々の多くは、米ソ両陣営のいずれにも与せず、非同盟・中立の立場を取りました。
非同盟諸国は、1955年のバンドン会議を機に結束を強め、国際連合での発言力を高めていきました。インド、ユーゴスラビア、エジプト、インドネシアなどが運動を主導しました。
第三世界の国々は、植民地支配からの脱却と経済的自立を目指し、両陣営から援助を引き出そうとしました。同時に、東西対立の代理戦争の舞台となることも少なくありませんでした。非同盟運動は、冷戦構造に一石を投じるとともに、戦後の国際政治の多極化を促す役割を果たしました。