湾岸戦争とは何か
湾岸戦争の定義と概要
湾岸戦争とは、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻から1991年2月のイラク軍退却までの約7ヶ月間に及んだ戦争です。ペルシャ湾岸地域で起きたことからこの名で呼ばれています。国連安保理決議に基づき、アメリカ主導の多国籍軍がイラク軍と戦いました。「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる空爆により、イラク軍はわずか100時間余りで敗退。クウェートからの撤退を余儀なくされました。20世紀末の世界に大きな衝撃を与えた戦争の一つです。
戦争勃発の時期と場所
1990年8月2日未明、サダム・フセイン率いるイラク軍が突如クウェートに侵攻しました。クウェートはペルシャ湾に面した小国で、石油資源が豊富な戦略的要衝です。首都クウェート・シティは短時間で陥落。イラク軍の圧倒的物量に、クウェート軍はまったく歯が立ちませんでした。これを機に、イラクに対する国連の外交的圧力と、アメリカ主導の多国籍軍による軍事作戦がスタート。1991年1月17日には空爆作戦「砂漠の嵐」が始まり、2月24日の地上作戦でイラク軍は壊走。2月28日には戦闘が終結しました。
交戦国と主要人物
交戦国:
- イラク共和国(サダム・フセイン大統領)
- クウェート国
- 多国籍軍(アメリカ、イギリス、フランス、サウジアラビア、エジプト等、31ヵ国が参加)
主要人物:
- サダム・フセイン: イラクの大統領。強権的なバアス党政権の指導者。
- ブッシュ: 当時のアメリカ大統領。湾岸戦争では多国籍軍の結成を主導。
- シュワルツコフ: 多国籍軍を指揮したアメリカ陸軍大将。
1. 湾岸戦争に至る背景
1-1. 中東情勢の不安定化とイラン・イラク戦争の影響
1980年代、中東地域は大きな不安定要因を抱えていました。1979年のイラン・イスラム革命による反米感情の高まり、同年のソ連のアフガニスタン侵攻、さらに1980年に勃発したイラン・イラク戦争など、次々に地域秩序を揺るがす事態が発生したのです。特にイラン・イラク戦争の長期化は、戦費調達に窮したイラク経済を疲弊させました。戦争終結直後の1990年、クウェート侵攻に踏み切ったイラクの行動には、この経験が色濃く影を落としていたと言えるでしょう。
1-2. イラクとクウェートの対立 – 石油資源と領土問題
イラクとクウェートの対立の背景には、石油資源をめぐる主導権争いと領土問題がありました。両国は世界有数の産油国ですが、イラン・イラク戦争後、イラクは戦費を賄うために原油の増産を進めました。これに対しOPECは減産を求め、イラクとサウジアラビア・クウェートは対立。また歴史的にイラクはクウェートを自国の一部とみなしており、国境線をめぐっても争いが続いていました。石油輸出の制約と領土問題が重なり、次第にイラクの対クウェート強硬姿勢が強まっていったのです。
1-3. イラクのクウェート侵攻とサダム・フセインの野望
1990年7月、イラクのサダム・フセイン大統領はクウェートとの国境に10万の兵力を集結させました。そして8月2日未明、電撃的なクウェート侵攻に踏み切ったのです。サダム・フセインの狙いは、軍事力によって一気にクウェートを併合し、強大な「油田帝国」を築くことでした。イランとの戦争で傷ついた国力の回復と、中東の盟主としての地位確立を目指したのです。またパレスチナ問題で行き詰まりを見せるアラブ世界の立て直しを唱え、反イスラエル・反欧米の「英雄」を演じることで求心力を高めようともくろみました。
2. 国際社会の対応と湾岸戦争の結末
2-1. 国連安保理決議と対イラク経済制裁
イラクのクウェート侵攻を受け、国際社会は即座に反応しました。侵攻当日の1990年8月2日、国連安全保障理事会は安保理決議660を全会一致で採択し、イラクに即時かつ無条件のクウェートからの撤退を求めました。また8月6日の安保理決議661では、イラクに対する武器禁輸を含む厳しい経済制裁を発動。イラクの原油輸出を禁じ、金融取引も凍結したのです。さらに11月29日の安保理決議678は、イラクに1991年1月15日までのクウェート撤退を求め、これに従わない場合、加盟国に武力行使の権限を与えました。
2-2. 米国主導の多国籍軍結成と「砂漠の盾作戦」
アメリカのブッシュ大統領は湾岸危機に素早く対応し、イラクを押し返すための軍事的圧力を強めました。8月7日、「砂漠の盾作戦」の発動を宣言。サウジアラビアに即応部隊を派遣し、ペルシャ湾へ大規模な海軍力を展開したのです。当初はイラクの更なる軍事行動を抑止し、サウジアラビアを防衛する狙いでした。その後アメリカ主導で31ヵ国からなる多国籍軍が結成され、11月までに在サウジ米軍は50万人に達しました。ソ連崩壊後の「新世界秩序」を先導するため、ブッシュ政権は湾岸危機への関与を深めていったのです。
2-3. 「砂漠の嵐作戦」の展開とイラク軍の敗北
1991年1月15日の最後通牒期限が過ぎてもイラクがクウェートから撤退しないと、1月17日、多国籍軍は「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる大規模空爆を開始しました。最新鋭のハイテク兵器を投入した無差別爆撃は、イラクの軍事施設や産業基盤に壊滅的打撃を与えました。さらに2月24日からの地上作戦「砂漠の剣作戦」では、イラク軍の敗色が鮮明に。装甲車を捨てて敗走する兵士の姿が世界中に中継されました。圧倒的な戦力差を見せつけられ、2月28日、イラクのサダム・フセインはクウェートからの無条件撤退を発表。わずか100時間余りの地上戦で、湾岸戦争の戦闘は終結したのです。
3. 湾岸戦争の世界的影響と中東情勢の変化
3-1. 冷戦後の新国際秩序と米国の一極支配体制
湾岸戦争が勃発した1990年は、東西冷戦の終結から間もない時期でした。冷戦の終結とは、資本主義陣営の盟主・アメリカと社会主義陣営の盟主・ソ連の対立構造が崩れ去ったことを意味します。1991年12月のソ連崩壊によって、この流れは決定的になりました。アメリカ主導の単極世界が到来したのです。国連の機能も変化しました。東西対立に伴う安保理の麻痺状態から脱し、集団安全保障の理念の下、アメリカを中心とした協調体制が生まれました。湾岸戦争は、その最初の実践例となった。新国際秩序を体現する出来事だったのです。
3-2. 中東和平プロセスの進展とパレスチナ問題
皮肉にも、イラクによるクウェート侵攻は中東和平を一時的に加速させました。湾岸危機で窮地に立ったアラブ諸国は、欧米との協調を模索。マドリード和平会議(1991年10月)では、イスラエルとパレスチナ、アラブ諸国の初の直接交渉が実現しました。また、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の歴史的和解を担ったオスロ合意(1993年)にも弾みをつけました。しかし、その後のイスラエルの強硬路線や和平の頓挫によって、イスラエル・パレスチナ間の亀裂は再び深まっていきます。湾岸戦争は、中東和平の不安定さを浮き彫りにもしたのです。
3-3. イラク弱体化とイランの台頭による地域勢力図の変化
イラクはクウェート撤退後も、国連の武装解除要求に反発し、査察を拒み続けました。経済制裁下で疲弊したイラク経済は、国民生活を逼迫させました。湾岸戦争によってフセイン政権の統治基盤は揺らぎ、クルド人やシーア派の反政府運動が活発化。政情不安が慢性化していきます。その一方で、最大のライバルだったイラクの弱体化は、イランの地域的影響力を高めることになりました。核開発疑惑などで欧米との緊張が続くイランでしたが、軍事力の増強や石油外交を通じて、徐々に中東の盟主としての地位を築いていったのです。