イラン・イラク戦争をわかりやすく解説|中東戦争の背景から結末まで簡単理解

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イラン・イラク戦争を簡単に解説!

イラン・イラク戦争は、1980年から1988年にかけて、イランイラクの間で行われた現代の中東地域における大規模な戦争。

イラクのフセイン大統領は、イスラム教シーア派が多数を占めるイランでのイスラム革命の影響を恐れ、国境紛争を口実に先制攻撃を開始。

当初はイラクが優勢だったが、次第にイランが巻き返し、国連の仲介により1988年に終結。この戦争では、大量破壊兵器が使用され、双方に多大な被害が出た。結果的に国境線に変更はなく、イラクの戦争目的は達成されず。

イラン・イラク戦争とは何だったのか

イラン・イラク戦争とは何だったのか
  • 1980年から1988年にかけて行われたイランイラクによる戦争
  • 最終的な犠牲者数は両国合わせて50万人以上、20世紀後半最大規模の戦争の一つ

戦争の概要と規模

イラン・イラク戦争は、1980年9月から1988年8月にかけて、中東の両大国イランイラクで行われた大規模な戦争です。イラク軍の奇襲攻撃で始まり、8年間におよぶ長期戦となりました。最終的な犠牲者数は、イラン側で30万人以上、イラク側で20万人以上と言われており、20世紀後半最大規模の戦争の一つに数えられています。国境線の変更はなく、双方に甚大な損害を与えた結果に終わりました。

戦争の時代背景と地域情勢

1979年、イランでは反米イスラム革命が起こり、ホメイニ師最高指導者とするイスラム共和国樹立されました。一方、イラクフセイン大統領は、その影響力拡大を警戒。当時の中東は石油資源を巡る欧米列強の利権争いの影響を受け、不安定な地域情勢が続いていました。また、イスラエルパレスチナ対立レバノン内戦など多くの地域紛争が並行して起こっていた時期でもありました。

イラン・イラク戦争に至った経緯

イラン・イラク戦争に至った経緯
  • イランのイスラム革命イラクのフセイン大統領の警戒心対立を深刻化
  • 国境線の不明瞭さ、石油資源の帰属、民族・宗派対立など複合的な要因が重なる

両国の歴史的経緯と対立点

イランイラクは、ペルシア帝国とオスマン帝国の対立という歴史的経緯をもとに、長年にわたり複雑な関係にありました。国境線の不明瞭さ、石油資源の帰属、民族・宗派対立など、様々な火種が積み重なっていました。1975年のアルジェ協定一時緊張緩和しましたが、イスラム革命後、イラクがこれを破棄。フセイン大統領がイランの弱体化を狙って軍事侵攻に踏み切った形です。

宗教的対立 – イスラム教スンニ派とシーア派

イラクの多数派であるスンニ派と、イランの多数派であるシーア派対立も大きな要因でした。イスラム教の宗派対立は7世紀にまでさかのぼる歴史があり、時に流血の抗争に発展してきました。シーア派の革命政権を樹立したイランに対し、イラクのスンニ派政権は脅威を感じていたのです。実際、フセイン大統領はイラン国内のアラブ系住民の分離独立を扇動。宗派対立が地政学的緊張に拍車をかけた構図でした。

国境と資源をめぐる争い

両国の国境線は、シャッラ・アル・アラブ川(アラビア語名)/アルヴァンド川(ペルシア語名)の帰属問題を含め、曖昧な部分が残されていました。川の主流権石油資源の権益をめぐる対立は絶えませんでした。イラン側は1975年のアルジェ協定一度譲歩したものの、革命後に再び強硬姿勢に転じます。国境線のわずか数kmをめぐって、大規模な戦争に発展したのです。

戦争の進展と泥沼化

戦争の進展と泥沼化
  • 開戦当初はイラク優勢も次第に膠着状態に、イランの反撃で戦線は拡大
  • イラクの化学兵器使用など非人道的戦術横行、国際社会の和平努力虚しく長期化

開戦からの戦況の推移

1980年9月、イラク軍イラン領内侵攻し、全面戦争が勃発。当初はイラク軍が優勢でしたが、イラン側の反撃で次第に膠着状態に。1982年にはイラン軍イラク領内侵攻し、戦線は膠着。86年以降はイランの攻勢が続きましたが、イラク化学兵器を使用するなど非人道的な戦術で抵抗。さらに戦線が拡大する一方で、泥沼の様相を呈していました。

化学兵器の使用と非人道的な戦い

この戦争で最も非人道的だったのが、イラク軍による化学兵器の使用です。マスタードガス神経ガスなどが民間人に対しても無差別に用いられ、多数の犠牲者が出ました。国際法上も禁止されていた化学兵器使用を、国際社会は強く非難。また、子供兵の動員、民間人へのミサイル攻撃など、非人道的行為が両軍で横行しました。戦争の残虐さがここに如実に表れていたと言えるでしょう。

長期化する消耗戦と国際社会の動き

8年間にも及ぶ消耗戦は、両国国力大きく疲弊させました。戦費はイラン側で1,000億ドル超、イラク側でも5,000億ドル近くに達したと言われています。戦争の長期化とペルシャ湾の石油輸送への影響を懸念した国連は、1980年代を通じて和平案を提示しましたが、両国の受け入れには至りませんでした。和平交渉難航を極め、国際社会の対応の難しさも浮き彫りになりました。

戦争の終結と影響

戦争の終結と影響
  • 1988年8月、国連安保理決議受諾停戦、両国に甚大な戦争被害と経済的損失
  • イラン・イラクの国力低下で湾岸諸国台頭、次の湾岸戦争への布石に

甚大な戦争被害と犠牲

1988年8月、両国は国連安保理決議598号を受諾し、停戦に合意。8年間の戦争は、ようやく終結を迎えました。しかし、その犠牲甚大でした。両軍合わせて50万人以上の死者、さらに多数の負傷者が出たと推計されています。経済的損失は天文学的な規模。国民の暮らしは疲弊し、戦後復興には長い年月を要しました。また、戦争によるPTSDや、環境汚染など、目に見えない被害も長く残ることになりました。

中東情勢へのインパクト

この戦争は、当事国だけでなく、中東全体地政学的バランスにも大きな影響を与えました。戦後、イラン、イラクともに国力が低下し、湾岸諸国の相対的な地位上昇サウジアラビアUAEなどの台頭につながりました。また、戦争で疲弊したイラククウェートに侵攻したことが、次の湾岸戦争の導火線に。米国主導の多国籍軍がイラクを攻撃する構図となり、中東の力学が大きく変化する転換点になったのです。

その後の両国関係と湾岸戦争への道

戦後もイランとイラクの関係改善は容易に進みませんでした。1990年に至ってようやく国交が回復するも、わずか4日後にはイラククウェートへ侵攻国連の制裁とアメリカ主導の湾岸戦争によってイラクは大敗を喫しました。その後、イラクでは反体制派の蜂起が続き、2003年のイラク戦争フセイン政権は崩壊イラクは混迷に陥る一方、イラン最高指導者ハメネイ師のもとでの強硬路線を維持しています。
イラン・イラク戦争の遺恨と流血は、その後の中東の混迷と分断に大きく影を落としていると言えるでしょう。戦争という悲劇を乗り越え、和解と共生への道を見出すことが、こんにちの中東に課された大きな課題だと言えます。宗教や民族を超えた対話による地域の安定化が強く望まれる所以です。