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韓国併合とは何か
韓国併合の概要
韓国併合とは、1910年に大日本帝国が大韓帝国を併合し、朝鮮半島全体を日本の植民地とした出来事を指します。日本による韓国の支配は、第二次世界大戦終結まで35年間続きました。
1910年8月22日、日本と韓国の全権委員が「韓国併合に関する条約」に調印し、8月29日に発効しました。この条約により、韓国は国家としての主権を失い、大日本帝国の一部となりました。韓国の皇帝は退位し、王公族としての待遇を受けることになりました。日本は韓国の統治機関として朝鮮総督府を設置し、韓国の人々を日本の臣民とみなして支配を開始したのです。
韓国併合の簡単な経緯
19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本は朝鮮半島への影響力を強めていきました。1894-95年の日清戦争で清の影響力が排除され、1895年の下関条約で韓国の独立が確認されました。さらに、1904-05年の日露戦争で日本が勝利したことで、韓国に対する日本の優位が確立したのです。
1905年、第一次日韓協約が締結され、韓国は外交権を失って日本の保護国となりました。続く1907年の第二次日韓協約では、韓国の内政権も日本に委ねられることになりました。1909年には伊藤博文が韓国統監に就任しましたが、同年10月に安重根によって暗殺されるという事件が起きました。そして、1910年8月、ついに韓国併合が実現し、韓国は日本の植民地となったのです[5]。
韓国併合の背景
19世紀末の東アジアを取り巻く国際情勢
19世紀後半、欧米列強のアジア進出が活発化し、東アジアの国際秩序は大きく変動しました。中国の清はアヘン戦争以降、列強の軍事的・経済的圧力によって衰退の一途をたどっていました。一方、日本は明治維新以降、富国強兵・殖産興業政策を推進し、近代化を進めることで軍事力と経済力を強化していったのです。
朝鮮半島は、清の伝統的な影響力と、新興国日本や列強ロシアの勢力が交錯する地政学的に重要な地域でした。19世紀末の朝鮮をめぐる国際情勢は、まさに列強の競争の場となっていたと言えるでしょう。
日清戦争と下関条約が韓国の地位に与えた影響
1894年、朝鮮の内政をめぐって日本と清が対立し、日清戦争が勃発しました。日本軍は清軍を圧倒し、1895年4月に下関条約が結ばれました。この条約により、清は朝鮮に対する宗主権を放棄し、朝鮮の独立が確認されることになったのです。
しかし皮肉なことに、下関条約は朝鮮の独立と近代化を促す一方で、日本の朝鮮半島に対する影響力を強める結果ともなりました。戦後の朝鮮では親日政権が樹立され、日本の政治的・経済的進出が加速していったのです。
韓国の保護国化から併合へ
第一次日韓協約と韓国の保護国化
1905年11月17日、日本の桂太郎内閣は、小村寿太郎外相を全権委員として韓国に派遣し、第一次日韓協約を締結しました。この協約により、韓国は外交権を日本に委ねることになり、事実上の日本の保護国となったのです。
日本は、韓国に統監府を設置し、初代統監に伊藤博文を任命し、韓国の内政に対する日本の影響力を強めていきました。第一次日韓協約締結後の韓国は、国家としての主権を大きく制限されることになったと言えるでしょう。
第二次日韓協約の締結
1907年7月24日、第二次日韓協約が結ばれました。この協約により、韓国は内政権までも日本に委ねることになり、韓国政府の高官の任命権は統監が掌握することになったのです。さらに、韓国軍は解散させられ、警察権も日本に移管されました。第二次日韓協約締結後の韓国は、国家の主権を大部分失い、日本による直接支配が強化されていったと言えます。
韓国併合
1909年10月26日、韓国統監の伊藤博文がハルビン駅で安重根に暗殺されるという事件が起こりました。伊藤博文の後任には寺内正毅が就任し、韓国併合に向けた動きが加速することになります。
1910年8月22日、韓国併合条約が調印され、8月29日に発効しました。この条約により、韓国は大日本帝国に併合され、国家としての地位を完全に失いました。韓国皇帝は退位させられ、朝鮮王公族となりました。また、朝鮮総督府が設置され、初代総督に寺内正毅が任命されたのです。
韓国併合から第二次世界大戦終結までの35年間、朝鮮半島は日本の植民地となり、日本による政治的・経済的・文化的な支配を受けることになりました。