南京事件とは?
南京事件(南京大虐殺)の概要
南京事件とは、1937年12月に日中戦争下で起きた、日本軍による中国の旧首都南京での大規模な殺害事件です。日本軍が南京を占領した後、兵士や捕虜、一般市民を問わず、大量の中国人を殺害したとされています。犠牲者数については諸説ありますが、数万人規模の虐殺があったことは間違いありません。南京大虐殺とも呼ばれ、日中間の歴史認識問題の象徴的な出来事となっています。
南京事件の発生時期と犠牲者数の諸説
南京事件が発生したのは、1937年12月13日の南京占領から約6週間とされますが、前後の期間を含める説もあります。犠牲者数については中国側の30万人説が有名ですが、学者の間では数万人から20万人程度とする見方が一般的です。東京裁判では20万人以上とされました。ただし犠牲者の定義や範囲には諸説があり、現在も論争が続いています。いずれにせよ非戦闘員を大量に殺害した非人道的な行為であったことに疑いの余地はありません。
日中戦争の勃発と南京防衛戦
日中戦争の原因と経緯
南京事件が起きた背景には、1937年7月の日中戦争の勃発があります。日本は満州事変後、華北分離工作を進めましたが、盧溝橋事件をきっかけに全面戦争に突入しました。当初は局地戦の想定でしたが、戦線は次第に拡大。日本軍は上海を攻略した後、11月に首都南京への進撃を開始しました。蒋介石率いる国民党政権は初めて日本との全面戦を覚悟し、南京の徹底抗戦を指示しました。
南京防衛戦と国民党軍の撤退
南京防衛戦は中国軍約10万に対し、日本軍は約2倍の兵力を投入。日本の圧倒的な兵力と装備に苦戦した中国軍は、12月12日に南京からの撤退を開始しました。蒋介石も同日南京を離れ、重慶に移りました。一方日本軍は翌13日に南京城内に入城。散り散りに敗走する中国兵を追撃し、大量の捕虜を捕らえたのですが、この過程で多数の虐殺行為が行われたとされています。負傷兵や投降兵の大部分を含む捕虜が殺害されたのです。
日本軍による南京占領と虐殺行為
日本軍の南京入城と戦闘の終結
1937年12月13日、松井石根中将率いる日本軍が南京城内に入城し、南京の戦闘は事実上終結しました。中国軍の敗走と混乱に乗じ、日本軍は「戦闘指揮権」の継続を理由に、捕虜の大量虐殺に着手。また略奪や強姦、非戦闘員の殺害なども多数発生しました。南京の街は略奪や放火で荒れ果て、市民は恐怖に怯えました。日本軍将兵の規律は著しく乱れ、国際法に違反する蛮行の限りを尽くしたのです。
日本軍による虐殺行為と外国人の証言
日本軍による残虐行為は、南京の外国人居留民によっても目撃されています。アメリカ人宣教師のマギー女史は日記に「日本兵は捕虜を銃剣で刺し殺した」と記録。ドイツ人のラーベ氏は「私が見た限りでも、少なくとも推定で5万人近い中国人が殺害された」と証言しています。南京大学文学院に避難していた女性の多くが日本兵に強姦されたことも、複数の証言で裏付けられています。外国人による記録と証言は、南京事件の実態を知る上で重要な史料となっています。
犠牲者数と戦後処理
南京事件の推定犠牲者数と論争点
南京事件の犠牲者数を巡っては、現在も論争が続いています。中国側は30万人説を主張し、南京事件記念館にもその数字が掲げられています。一方、近年の学術研究では数万人説が有力とされ、2万人から20万人の幅で見積もられることが多いです。ただ犠牲者の定義には諸説あり、虐殺のみならず戦闘での死者や間接死を含むか、南京市内に限定するかなどで数字は異なります。いずれにせよ非戦闘員の大量虐殺は厳然たる事実であり、南京の平和な都市生活は完全に破壊されたのです。
極東国際軍事裁判と戦犯の処罰
戦後、南京事件を含む日本の戦争犯罪は極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれました。南京での残虐行為は重要な争点の一つとなり、松井石根中将ら7名の被告に死刑が宣告されました。他にも無期・有期懲役刑を含め、南京関係の被告28名全員に有罪判決が下りました。ただ南京事件そのものを裁いた「南京裁判」は、中国などの反対で実現しませんでした。中国側が主張する犠牲者数には根拠が不十分として、法廷に採用されなかったことも、判決への不満につながっています。