レーニン

レーニン

必ず押さえるべき重要ポイント!

レーニン(1870年~1924年)は、本名ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ、マルクス主義の理論家であり、ロシア帝国の弱体化に乗じて1917年のロシア革命を主導。
ソビエト連邦の建国者の一人であり、世界で初めての社会主義国家を実現。帝国主義を資本主義の最高段階と捉え、資本主義から社会主義への移行を目指すプロレタリア革命の必要性を説いた。

ネップと呼ばれる新経済政策を導入し、ソ連の経済再建に尽力。

レーニンとは?ロシア革命の指導者の基本プロフィール

レーニンのプロフィール画像
重要ポイント!
  • レーニンは1870年、ロシア帝国シンビルスクに生まれ、兄の処刑を機に革命思想に傾倒。
  • 若くして革命運動に身を投じ、マルクス主義の理論家・実践家として活躍した。

レーニンの本名(ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)の由来と意味

ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、本名をウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフと言います。「ウラジーミル」はロシア語で「平和の守護者」、「イリイチ」は父親の名前「イリヤ」から取った父称、「ウリヤノフ」は父方の姓を指します。一方、「レーニン」はペンネームで、ロシア語で「最も強い者」を意味するとされています。レーニンは、その名の通り、ロシア革命の最も強力な指導者となりました。

幼少期から大学時代までのレーニンの歩み

レーニンは、1870年4月22日、ロシア帝国シンビルスク(現ウリヤノフスク)で、裕福な教育者の家庭に生まれました。父親のイリヤは学校監督を務め、母親のマリアは地主の娘でした。レーニンは幼少期から優秀な成績を収めましたが、1887年、皇帝アレクサンドル3世暗殺未遂事件への関与が発覚した兄アレクサンドルが処刑されたことで、革命思想に傾倒していきます。

その後、レーニンはカザン大学に入学しますが、学生運動に関わったために退学処分を受けました。彼はサマラに移り、マルクス主義研究会を主宰するなど、革命運動への一歩を踏み出しました。1891年にはエカテリンブルク(現エカテリンブルク)で弁護士資格を取得し、次第に革命家としての道を歩み始めたのです。

マルクス主義者としてのレーニンの思想形成

重要ポイント!
  • レーニンはマルクス主義を基盤としつつ、資本主義の最高段階を帝国主義ととらえ、帝国主義戦争から社会主義革命への発展を目指した。
  • 自然発生的な労働者の運動だけでは不十分とし、職業革命家からなる前衛政党の指導的役割を重視した。

カール・マルクスの思想とマルクス主義の基本概念

レーニンの思想を理解するには、まずカール・マルクスの思想体系であるマルクス主義について知る必要があります。マルクス主義の中核をなすのは、唯物史観剰余価値論です。唯物史観とは、人間社会の歴史は経済的な土台によって規定され、生産力と生産関係の矛盾が社会変革の原動力になるという考え方です。剰余価値論は、資本家が労働者の労働力から生み出した剰余価値を搾取することで利潤を得ているとする理論です。

マルクスは、資本主義社会の矛盾が深まれば、必然的にプロレタリアート(無産労働者階級)が革命を起こし、資本主義を打倒して共産主義社会を実現すると考えました。レーニンは、このマルクス主義の基本概念を踏まえつつ、帝国主義段階の資本主義分析と革命理論の開拓に乗り出したのです。

レーニンのマルクス主義解釈 – 帝国主義論と労働者革命論

レーニンは、19世紀末から20世紀初頭にかけての資本主義の新たな段階を「帝国主義と捉えました。彼の著作帝国主義論』では、資本主義が独占資本主義へと移行し、列強による植民地の争奪戦が不可避の帝国主義戦争を生み出すと論じられています。レーニンは、この帝国主義戦争こそが革命の好機をもたらすと考えました。

また、レーニンは、マルクスの革命論をロシアの現実に即して発展させ、労働者階級の前衛政党による革命の必要性を説きました。彼は、プロレタリアートの自然発生的な運動だけでは真の革命は実現しないと考え、社会主義革命のためには、職業革命家集団からなる規律の取れた党の指導が不可欠だと主張しました。この思想は、ボリシェヴィキ(多数派)党の組織原理の基礎となりました。

亡命先のヨーロッパ各地での革命活動

弾圧を逃れるため、レーニンは1900年からロシア国外に亡命し、欧州各地で革命活動を展開しました。亡命先のジュネーブでは、革命運動の理論的機関紙『イスクラ』を創刊し、ロシア国内外の革命家たちをまとめ上げる役割を果たしました。

1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会で、レーニンは前衛政党の必要性を訴え、自らの主張に賛同する多数派「ボリシェヴィキ」を形成しました。これ以降、レーニンはボリシェヴィキ派の指導者として、ロシアでの革命運動を牽引していくことになります。亡命生活で培ったマルクス主義の理論と実践は、やがて1917年のロシア革命へとつながっていったのです。

レーニンと1917年のロシア革命

重要ポイント!
  • 1917年2月革命で帝政が崩壊し臨時政府が樹立されると、レーニンは「四月テーゼ」で社会主義革命の必要性を訴えた。
  • 10月、レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起(十月革命)を決行し、世界初の社会主義政権を打ち立てた。

レーニンの「四月テーゼ」と臨時政府打倒の方針

1917年2月、ロシアでは食糧難や戦争への不満から民衆蜂起が発生し、ロマノフ朝の帝政が崩壊しました(二月革命)。臨時政府が樹立される一方、各地にソビエト(労兵代表評議会)が成立し、二重権力状態が生まれました。亡命先のスイスから帰国したレーニンは、4月3日、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)のフィンランド駅に到着。そこで発表されたのが、「四月テーゼ」と呼ばれる一連の主張です。

レーニンは「四月テーゼ」で、①臨時政府から全権力をソビエトへ移行すること、②帝国主義戦争から即時離脱すること、③農民へ地主の土地を分配することなどを訴えました。これは、ソビエトを基盤とした社会主義政権の樹立を目指す方針であり、ブルジョワ民主主義革命としての二月革命を、プロレタリア社会主義革命へと発展させる戦略でした。

十月革命 – ボリシェヴィキによる武装蜂起と政権奪取

レーニンの指導の下、ボリシェヴィキは「一切の権力をソビエトへ」のスローガンを掲げて大衆運動を組織し、臨時政府打倒に向けて勢力を拡大していきました。1917年10月25日(露暦)、ペトログラード・ソビエト軍事革命委員会は、レーニンの指示に基づいて武装蜂起を開始。激しい市街戦の末、26日未明には首都の中枢を掌握し、臨時政府を打倒することに成功しました。

ボリシェヴィキによる武装蜂起と政権奪取は「十月革命」と呼ばれ、世界初の社会主義国家の誕生を告げる歴史的な出来事となりました。この革命の成功は、レーニンの革命理論と指導力によるところが大きく、彼はロシア革命の最も重要な立役者と評価されています。

ソビエト政権の樹立とレーニンの指導者としての役割

十月革命の勝利を受けて、レーニンを議長とする人民委員会議(閣僚会議に相当)が組織され、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ソビエト・ロシア)が成立しました。レーニンは、新生ソビエト政権の最高指導者として、社会主義国家建設に着手します。

まず、レーニンは地主の土地を農民に分配する土地に関する布告」を発し、農民の支持を獲得しました。また、帝国主義戦争からの離脱を実現するため、1918年3月、ドイツなどの同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結。厳しい講和条件を受け入れてまでも戦争を終結させ、革命体制の維持を優先したのです。

さらに、レーニンは資本主義経済の社会主義的改造に乗り出し、工場や銀行の国有化を断行。国営企業を軸とする計画経済体制の構築を目指しました。こうしたレーニンの指導の下、ソ連は「共産主義の実現」に向けて、世界で初めての社会主義的実験に挑んでいったのです。

レーニンの指導するソビエト・ロシアの歩み

レーニン
重要ポイント!
  • 内戦の混乱を経て、レーニンは戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への転換を図り、現実路線を模索した。
  • コミンテルン(共産主義インターナショナル)を創設し、世界革命の実現を追求した。

ロシア内戦とレーニンの「戦時共産主義」政策

十月革命後、ソビエト政権は旧体制派や外国の干渉軍と激しい内戦を繰り広げましたロシア内戦と呼ばれるこの戦いは、1918年から1920年にかけて続き、ソビエト・ロシアの存立を脅かす深刻な危機となりました。

内戦の過酷な状況下、レーニンは「戦時共産主義」と呼ばれる一連の非常措置を実施します。これは、国家による経済の全面的な統制と管理を特徴とする政策で、農産物の強制的な徴発や私的商業の禁止などが行われました。戦時共産主義は、内戦を勝ち抜くための非常手段でしたが、他方で経済の混乱と国民生活の困窮を招く側面もありました。

新経済政策(ネップ)への転換とその意義

内戦が終結し、ソビエト体制が一応の安定を取り戻すと、レーニンは経済政策の大幅な転換を図ります。1921年から導入されたのが、新経済政策(ネップ)です。これは、戦時共産主義で行き詰まった経済を立て直すため、私的経済活動を一定範囲で認める現実的な路線への修正でした。

ネップの下では、農民の余剰生産物の自由販売が認められ、小規模工業での私的経営も許容されました。国営企業の独立採算制も導入され、市場メカニズムを部分的に活用する混合経済体制が模索されたのです。ネップへの移行は、教条的な共産主義路線からの重大な転換であり、レーニンの柔軟な現実対応力を示す出来事でもありました。

コミンテルンの創設と世界革命の追求

レーニンは、ロシア一国での革命の成功のみならず、世界革命の実現を目指していました。そのための組織として、1919年、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が創設されます。

コミンテルンは、各国の共産主義政党を指導し、世界的なプロレタリア革命を推進する国際組織でした。レーニンは、コミンテルンを通じて、資本主義諸国の共産党を支援。世界各地に革命の火種を広げることで、社会主義体制の国際的な勝利を目指したのです。しかし、ロシアでの革命が他国に波及することはなく、スターリン時代に入ると、コミンテルンはソ連の外交政策の道具化が進みました。

とはいえ、コミンテルンの設立は、レーニン思想が単にロシア一国の枠内にとどまらず、世界の革命運動に多大な影響を与えた事実を示しています。レーニンの主導で始まった世界革命の試みは、その後の国際共産主義運動の歴史を方向づける重要な一歩となったのです。

レーニンの死去と後継者争い

重要ポイント!
  • 1922年の脳卒中で政界を引退したレーニンは、スターリン専横への警告を遺書に記すも、1924年1月逝去した。
  • レーニン死後、スターリンはトロツキーを追放し、レーニン主義から逸脱した独裁体制を確立していった。

レーニンの健康悪化と政治的影響力の低下

1921年末、レーニンは重労働による過労と持病の悪化で健康を損ない、政治の第一線から遠ざかることになりました。1922年5月、彼は右半身の麻痺を伴う最初の脳卒中に見舞われ、療養生活を余儀なくされます。

レーニンは、病の床にあっても党や国家の重要問題に意見を述べ続けましたが、政治指導の実務からは次第に退いていきました。この間、ソビエト政府の実権は、レーニンの側近だったスターリン、トロツキー、ジノビエフ、カーメネフらに委ねられるようになります。レーニンの政治的影響力の低下は、彼らの間での権力闘争の激化を招く一因ともなりました。

スターリンとトロツキーの権力闘争 – レーニン遺書をめぐる対立

レーニンが政界を引退する中で、後継者の座をめぐって、特にスターリンとトロツキーの対立が先鋭化していきました。スターリンは、党書記長の地位を利用して党内の人事を掌握。一方、トロツキーは、赤軍の創設者として、また優れた理論家として党内で高い威信を得ていました。

レーニンは、晩年、スターリンの専横ぶりを批判し、彼を書記長から解任するよう提言しました。この「レーニン遺書」と呼ばれる文書の存在が、スターリン対トロツキーの権力闘争に大きな影響を与えます。レーニンなきあと、スターリン派は遺書の内容を隠蔽。トロツキー派は遺書の公開を求めて抗議しましたが、党大会での読み上げは阻止されました。

結局、スターリンは、トロツキー派を「反レーニン主義者」と批判し、党から追放することに成功します。トロツキーは1929年、国外追放の憂き目に遭い、スターリンによる独裁体制が確立されていったのです。レーニンの遺言は、皮肉にもスターリン体制を阻止するどころか、かえってスターリンの台頭を許す結果となりました。

レーニンの死去とソ連の今後を占う「レーニン廟」

1924年1月21日、レーニンはモスクワの郊外ゴーリキで死去しました。ソビエト政府は、遺体を防腐処理して永久保存することを決定。赤の広場に「レーニン廟」を建設し、レーニンの遺体を安置しました。

レーニン廟は、社会主義の「聖地」としてソ連国民の崇拝の的となりましたが、他方で個人崇拝の象徴ともなりました。今日でもなお、レーニンの遺体は人々の参拝を集めていますが、それはレーニンという人物の評価の難しさ、ソ連の時代の複雑な遺産を物語っているのかもしれません。

レーニンの死は、ソビエト・ロシアにとって一つの時代の終わりを告げる出来事でした。指導者を失ったソ連が、その後どのような道を歩むのか。それは、レーニンの後継者たちに託された難題だったのです。スターリン時代のソ連が、果たしてレーニンの理想を実現したのかどうか。それは歴史の評価に委ねられる問題と言えるでしょう。

試験で問われるレーニンと関連事項の重要ポイント

マルクス主義とレーニンの革命理論

  • レーニンの思想的基盤はマルクス主義だが、帝国主義論や前衛党の役割など独自の理論を展開
  • 資本主義の最高段階を帝国主義ととらえ、帝国主義戦争から社会主義革命への発展を目指した
  • 労働者の自然発生的な運動だけでは不十分とし、職業革命家による前衛政党の指導を重視した

二つの革命 – 二月革命と十月革命の意義と影響

  • 1917年2月の二月革命で帝政が崩壊し、ロシアに臨時政府とソビエトの二重権力が生まれた
  • レーニンは「四月テーゼ」で臨時政府打倒と社会主義革命の必要性を訴えた
  • 10月のボリシェヴィキによる武装蜂起(十月革命)で、世界初の社会主義政権が樹立された
  • 二月革命ブルジョワ民主主義革命十月革命社会主義革命という性格の違いがある

ソビエト連邦の成立とレーニンの遺産

  • 内戦を経て、1922年12月にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した
  • レーニンは戦時共産主義から新経済政策(ネップ)への転換を主導し、現実的な路線を模索した
  • コミンテルン(共産主義インターナショナル)を創設し、世界革命の実現を追求した
  • レーニンの死後、スターリンが台頭し、レーニン主義から逸脱した独裁体制を確立した

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