義和団事件をわかりやすく解説|背景から結末まで簡単理解

義和団事件をわかりやすく解説のアイキャッチ画像

義和団事件を簡単に解説!

義和団事件は、1899年から1901年にかけて、清朝末期の中国で起きた排外主義運動とそれに伴う事件。

義和団は、キリスト教や欧米列強に反発し、北京の外国公館を攻撃。これに対し、列強8ヵ国(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、アメリカ、ロシア、日本)は連合軍を結成し、義和団と清朝政府を鎮圧。

結果として、清朝政府は列強との間で北京議定書を結び、賠償金の支払いや、外国軍の北京駐留などを認めた。

義和団事件とは?

義和団事件とは?
  • 1899年から1901年にかけて清朝末期に起きた排外主義運動
  • 西洋列強8カ国が出兵する大規模な国際紛争に発展

義和団事件の概要 – 中国で起きた排外主義運動

義和団事件は、1899年から1901年にかけて中国の清朝末期に起きた排外主義運動です。当時の中国では、西洋列強による植民地化の脅威や不平等条約への不満が高まっていました。その中で、山東省を中心に義和団と呼ばれる秘密結社が組織され、「扶清滅洋(清朝を助け、西洋を滅ぼす)をスローガンに掲げて活動を始めました。
義和団は、西洋の宣教師や商人、外国の影響を受けた中国人などを攻撃する過激な排外主義運動へと発展していきます。彼らは、独特の呪術を用いることで刀や銃弾を避けられると信じており、各地で教会や学校、鉄道などの破壊活動を行いました。

事件の規模と影響 – 列強8カ国が出兵する大事件に

義和団事件は、当初は地方的な反乱でしたが、次第に全国的な広がりを見せ、清朝政府も事態の収拾に乗り出します。しかし、義和団を支持する西太后と、彼らを弾圧しようとする地方官僚の間で対立が生じ、政府内部は混乱に陥りました。
1900年6月には、義和団が北京へ入城し、外国公館を包囲する事態に発展します。これを受けて、イギリスアメリカドイツフランスロシア日本イタリアオーストリア=ハンガリー8カ国連合軍を結成し、清朝に出兵しました。義和団事件は、近代中国史における重大な国際紛争となったのです。

義和団事件の背景

義和団事件の背景
  • 清朝の衰退列強の中国進出により、反発と不満が蓄積
  • 山東省を中心に結成された義和団が排外主義運動を展開

清朝の衰退と列強の進出

義和団事件が起きた19世紀後半の清朝は、すでに衰退の一途をたどっていました。アヘン戦争(1840-1842年)や太平天国の乱(1851-1864年)を経て、清朝の統治力は著しく低下していたのです。
一方、産業革命を経た西洋列強は、軍事力と経済力を背景に中国への進出を強めていきます。列強は、中国との間で一連の不平等条約を結び、関税自主権の喪失領土的特権の獲得を清朝に強いました。また、キリスト教宣教師の布教活動も活発化し、中国社会に大きな影響を与えることになります。
こうした状況下で、中国の人々の間には、列強への反発や不満が蓄積されていきました。特に、農村部の貧困層や没落した知識人層は、西洋化の波に翻弄される立場にあり、彼らの不満は義和団運動の原動力となったのです。

義和団の結成

義和団は、もともと山東省の農村部で結成された秘密結社でした。道教や民間信仰に基づく呪術を用いて、刀や銃弾を避けられると信じられていました。当初は、地方の治安維持を目的とする自警団的な性格が強かったようです。
しかし、1890年代後半になると、義和団は急速に勢力を拡大し、排外主義的な色彩を強めていきます。彼らは、宣教師や中国人キリスト教徒、外国の影響を受けた知識人などを攻撃の対象とし、「扶清滅洋を掲げて各地で活動を展開しました。山東省や直隷省(現在の河北省)を中心に、義和団の運動は次第に全国的な広がりを見せていったのです。

義和団事件の経過

義和団事件の経過
  • 義和団北京で外国公館区を包囲し、清朝政府列強に宣戦布告
  • 列強8カ国連合軍結成し、北清事変として出兵北京占領

義和団の台頭と北京包囲 – 排外主義運動の過激化

1899年から1900年にかけて、義和団の活動一層過激さを増していきます。彼らは、教会や学校鉄道などの破壊活動を積極的に行い、外国人やキリスト教徒に対する暴力事件も頻発しました。清朝政府は当初、義和団の活動を取り締まろうとしましたが、次第に彼らを利用する方針に転じていきます。
1900年6月には、義和団が北京に入城し、外国公館区を包囲する事態に発展しました。清朝政府は、列強に宣戦布告を行い、義和団に呼応する形で外国人に対する攻撃を始めます。北京では、外国公館区が55日間にわたって包囲され、外国人やキリスト教徒が殺害される悲惨な事件が起きました。

八か国連合軍の結成と北清事変勃発 – 列強の武力介入

義和団による北京包囲を受けて、列強8カ国(イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、日本、イタリア、オーストリア=ハンガリー)は連合軍を結成し、清朝への出兵を決定します。1900年8月には、連合軍天津を占領し、北京へ向けて進軍を開始しました。
連合軍は、激しい戦闘の末、同年8月14日に北京を占領することに成功します。この一連の出兵は、北清事変と呼ばれています。列強による武力介入によって、義和団の勢力は徐々に弱体化していきました。また、清朝政府も連合軍との和平交渉に乗り出さざるを得ない状況に追い込まれたのです。

義和団事件の終結と世界への影響

義和団事件の終結と世界への影響
  • 義和団は鎮圧され、清朝政府は屈辱的な北京議定書を締結
  • 中国の主権が制限され、近代化と主権回復が大きく遅れる

義和団の敗北と清朝の屈服

連合軍の北京占領後、義和団の抵抗は続きましたが、近代的な装備を持つ列強軍の前に敗北を喫していきます。1901年9月には、山東省の曲阜で最後の義和団勢力が鎮圧され、事件は終結を迎えました。
一方、清朝政府は、列強との和平交渉を進めざるを得ない立場に立たされます。西太后を中心とする清朝政府は、義和団の責任を認めた上で、莫大な賠償金の支払いや、外国軍の北京駐留公使館区の拡張などの条件を受け入れました。列強の要求を呑む形で、屈辱的な和平が結ばれたのです。

北京議定書の締結

1901年9月7日、清朝政府は列強11カ国(オランダ、ベルギー、スペインが追加)との間で、北京議定書を締結しました。この議定書では、清朝政府が義和団事件の責任を認め、4億5000万両(当時の価値で約3億3000万ドル)もの賠償金を支払うことが定められました。
また、列強軍の北京駐留や、外国公使館区の拡張要塞の建設なども盛り込まれ、清朝の主権が大きく制限されることになります。北京議定書は、アヘン戦争以来の一連の不平等条約の締めくくりとなり、清朝の衰退に拍車をかける結果となりました。
義和団事件は、中国と列強の力関係を如実に示した事件であり、中国の近代化と主権回復の道のりの険しさを物語る出来事でもありました。この事件が残した教訓は、その後の中国の歴史に大きな影を落とすことになるのです。