ニクソンとは?
アメリカ37代大統領になるまでの略歴
リチャード・ミルハウス・ニクソンは、1913年1月9日にカリフォルニア州ヨーバリンダで生まれました。父親からクエーカー教の価値観を学び、厳しい生活の中で勤勉さや忍耐力を身につけました。ウィッティア大学とデューク大学ロースクールで学んだ後、弁護士としてのキャリアをスタート。1942年に海軍に入隊し、第二次世界大戦に従軍しました。
帰国後の1946年、共和党から下院議員選挙に出馬し初当選。1950年の上院議員選挙でも勝利を収め、上院では共産主義者の摘発に積極的に取り組み、全米的な名声を得ました。1952年、ドワイト・アイゼンハワーの副大統領候補に指名され、当選。8年間にわたって副大統領を務めました。
大統領就任以後の略歴
東西冷戦の最前線に立った政治家として、ニクソンは外交・内政の両面で大きな足跡を残しました。ベトナム戦争の終結、中国との国交正常化、ソ連との緊張緩和など、現在の国際関係にも影響を及ぼす重要な局面に立ち会いました。
同時に、大統領の権力濫用や政治の腐敗という民主主義の根幹に関わる問題にも直面しました。ウォーターゲート事件は、メディアと国民の力によって真相が明らかになり、大統領が辞任に追い込まれるという憲政史上類を見ない出来事でした。ニクソンの実像に迫ることで、政治における倫理や責任の在り方について深く考えるヒントが得られるでしょう。
大統領就任までの政治家としての経歴
下院議員・上院議員時代の活動
下院議員時代のニクソンは、ソ連のスパイ疑惑事件に関する調査委員会の活動で注目を集めました。旧知のウィタッカー・チェンバースから、国務省職員アルジャー・ヒスの共産党員としての活動について情報を得たニクソンは、ヒスへの糾弾を主導。ヒス事件は世間の耳目を集める一大スキャンダルとなり、ニクソンは共産主義対決の急先鋒としての名声を高めました。
1950年の上院議員選では、相手候補を「ピンクの淑女」と呼んで反共産主義キャンペーンを展開。辛勝で当選を果たし、上院では引き続き共産主義活動を追及する赤狩り委員会のメンバーとして活躍します。婉曲な物言いを好まず、容赦のない追及で「トリックスター(悪戯者)ニクソン」とも呼ばれました。
アイゼンハワー政権での副大統領就任
共和党の新星として頭角を現したニクソンは、1952年の大統領選で共和党候補アイゼンハワーのランニングメイトに指名されます。当時、副大統領候補の座をめぐっては、ニクソンの私的な政治資金が問題視されるスキャンダルが勃発。窮地に立たされたニクソンは「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるテレビ演説を行い、愛犬のチェッカーズを引き合いに出しながら潔白を主張、熱烈な支持を集めました。
アイゼンハワー・ニクソンのチームは見事に勝利を収め、ニクソンは43歳で史上2番目の若さで副大統領に就任します。以後8年間、ニクソンは大統領の外遊に同行したり、国内をまわって共和党の支持拡大に努めるなど、多忙な日々を過ごしました。一方で、アイゼンハワーとの関係は良好とは言えず、政権の主要な意思決定に関与できない不満を抱えていたようです。
ニクソン大統領の主要政策と業績
ベトナム戦争からの撤退とパリ和平協定
アメリカ国内での反戦運動が激化する中、ニクソンは「名誉ある平和」を求めてベトナムからの段階的撤退を進めました。1973年1月には北ベトナムとパリ和平協定を締結。アメリカ軍の撤退とともに、南ベトナム政府への軍事支援を継続することで、何とか体面を保った形で戦争を終結させることに成功しました。しかし、アメリカ軍撤退後の1975年4月、南ベトナムは北ベトナムによって陥落。ベトナム戦争の遺産は、その後も長くアメリカの政治や社会に影を落とすことになります。
デタントによる東西冷戦の緩和
ソ連・中国との関係改善を通じて緊張緩和(デタント)を進めたことは、ニクソン外交の最大の功績と言えるでしょう。ニクソンは国家安全保障問題担当大統領補佐官(後に国務長官)のヘンリー・キッシンジャーとともに、ソ連・中国との関係を巧みに利用する三角外交を展開。ソ連と核軍縮交渉を進める一方、中国との国交正常化を実現させました。
訪中による米中和解
1972年2月、ニクソンは非公式の訪中を実施。毛沢東・周恩来との会談を通じて、アメリカと中国の関係改善への道筋をつけました。米中和解は冷戦構造を大きく揺るがす出来事となり、ソ連に対する牽制にもなりました。その後、1979年の国交正常化を経て、現在の米中関係の基礎が築かれることになります。
米ソ首脳会談とSALT交渉
ニクソンは1972年5月、ソ連のブレジネフ共産党書記長とモスクワで首脳会談を行いました。戦略兵器制限交渉(SALT)に関する第一次協定に調印し、大陸間弾道ミサイル(ICBM)と潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の数に上限を設けることで合意。さらに「暴力の放棄」を定めた基本原則協定を結ぶなど、緊張緩和に向けて大きく前進しました。
経済政策の功罪
ニクソンは経済政策においては、ケインズ主義的な需要刺激策と、価格・賃金統制を組み合わせた「ニクソノミクス」を展開。しかし、根本的な物価上昇圧力に歯止めをかけることはできず、インフレと不況が同時進行するスタグフレーションに陥ってしまいました。
ドル・ショック
1971年8月、ニクソンは戦後の国際通貨体制を支えてきた金とドルの交換を一方的に停止すると発表。「ニクソン・ショック」とも呼ばれるこの措置により、変動相場制への移行が加速化。ドルの信認低下と併せて、世界経済の不安定要因となりました。
賃金・物価統制令
インフレ抑制のため、ニクソンは1971年8月、賃金・物価統制令を発動。90日間にわたって賃金と物価の上昇を凍結し、その後も厳しい上昇率規制を課しました。統制令は一時的にインフレ率を低下させましたが、根本的な解決策とはならず、規制撤廃後は物価が再び上昇。企業活動への政府介入に対しても、多くの反発の声が上がりました。
ニクソン政権の経済運営は、カギとなる物価上昇圧力への対処を誤ったと言えるでしょう。ドル・ショックと賃金・物価統制令は、政府への信頼を損ねる結果となりました。一方で、環境保護に関する政策は高く評価されています。大気浄化法や絶滅危惧種保護法など、今日の環境政策の礎を築いたのもこの時期でした。
また、最高裁判事としてウォーレン・バーガーを任命したことで、保守化への転換点を作ったのもニクソン大統領でした。連邦最高裁は以後、リベラル色の強かった60年代とは一転して保守化の道をたどることになります。
ウォーターゲート事件とニクソンの辞任
事件の経緯と大統領選への影響
1972年6月、ニクソン陣営関係者が民主党本部に不法侵入し、盗聴器を仕掛けるという事件が発生しました。ウォーターゲート・ビルで起きたことからウォーターゲート事件と呼ばれるようになったスキャンダルは、大統領選挙戦の最中に明るみに出ます。しかしニクソンはメディアを「敵」とみなし、事件の捜査を妨害。世論の反発を押し切る形で、11月の選挙では圧倒的大差で再選を果たしました。
ニクソン大統領の関与疑惑と弾劾裁判
選挙後もウォーターゲート事件の追及は続き、ニクソンの関与を示す証拠が次々と明るみに出ます。上院の公聴会でホワイトハウス側の証言が続く中、ニクソンの会話を録音したテープの存在が発覚。ニクソンはテープの提出を拒否しましたが、最高裁の判決で提出を余儀なくされました。
テープからは大統領選対策委員会への資金提供や司法妨害の事実が明らかになり、ニクソンへの弾劾の動きが加速します。下院司法委員会は大統領弾劾の理由を認定。上院で弾劾裁判にかけられる寸前の1974年8月、ニクソンは事態を避けるため電撃的に辞任する道を選びました。
史上初の大統領辞任
リチャード・ニクソンは、1974年8月9日にホワイトハウスで演説を行い、大統領を辞任すると表明しました。正式な辞任は翌日発効。法と正義よりも自身の保身を優先させたことで、ニクソンは史上初めて任期途中で辞任に追い込まれた大統領となりました。副大統領だったジェラルド・フォードが後任の大統領に就任し、ニクソンに恩赦を与えることでこの騒動に終止符が打たれました。
大統領という最高権力者の座にあった者が汚職・隠蔽に関わり、辞任という形で退場を余儀なくされるという事態は、アメリカの政治史に汚点を残すものでした。為政者の倫理観や、権力を監視し牽制するメディア・議会の役割のあり方が、あらためて問い直されることになったのです。
確認テスト
問1 ニクソン大統領の下で実現した、アメリカ外交の歴史的転換点となる出来事は何か。
a. 国際連合への加盟
b. 中国との国交正常化
c. ベルリンの壁の崩壊
d. ソ連との国交断絶
- 正解: b. 中国との国交正常化
- 解説: ニクソン大統領の在任中、1972年に中国を訪問し、米中関係の改善と国交正常化への道を開いたことが外交上の歴史的転換点とされています。この動きは「ニクソン・ショック」とも呼ばれ、冷戦時代の国際政治に大きな影響を与えました。
問2 ウォーターゲート事件の発端となった出来事は次のうちどれか。
a. ニクソン大統領暗殺未遂事件
b. 民主党本部での盗聴事件
c. ニクソン陣営の脱税スキャンダル
d. ベトナム反戦運動のデモ隊との衝突事件
- 正解: b. 民主党本部での盗聴事件
- 解説: ウォーターゲート事件は、1972年にワシントンD.C.のウォーターゲートビル内にある民主党全国委員会本部で起こった盗聴と侵入事件に端を発します。この事件が発覚し、その後の隠蔽工作がニクソン大統領の辞任につながる大スキャンダルとなりました。
問3 ニクソン政権下のベトナム戦争について、誤っている記述を選べ。
a. 当初は「ベトナム化」政策で戦争の早期終結を目指した
b. 北爆の強化により、北ベトナムを軍事的に圧倒した
c. 泥沼化に伴い国内の反戦運動が激化した
d. 1973年のパリ和平協定調印で名目上の「平和」を実現した
- 正解: b. 北爆の強化により、北ベトナムを軍事的に圧倒した
- 解説: ニクソン政権は北ベトナムへの爆撃(北爆)を一時的に強化しましたが、これが北ベトナムを軍事的に圧倒するには至りませんでした。実際には、北爆の効果は限定的で、北ベトナムとの交渉には大きな進展をもたらすことはなかった。