李承晩は、大韓民国初代大統領である。日本の植民地支配下の朝鮮で独立運動を行い、第二次世界大戦後、国際連合の信託統治を経て大韓民国が建国されると、1948年に初代大統領に就任した。韓国戦争時には国家の独立と主権を守るために尽力したが、独裁的な統治を行ったことから批判も受けた。1960年の四月革命によりハワイに亡命。1965年に死去した。
1. 李承晩の生い立ちと政治家としての歩み
1.1 出身と教育背景
李承晩は1875年、朝鮮王朝の両班(貴族)の家に生まれた。幼少期に両親を亡くし、キリスト教に入信。ソウルの学校を経て、米国に留学。ジョージ・ワシントン大学で政治学を、プリンストン大学と ハーバード大学で博士号を取得した。当時の朝鮮の開化思想に影響を受けるとともに、留学中に民主主義思想を吸収。エリート意識と使命感を培った。
1.2 独立運動家としての活動
1910年の韓国併合後、李承晩は在米韓国人の独立運動を主導。大韓民国臨時政府の初代大統領に就任し、民族自決権の獲得を訴えた。第1次世界大戦後のパリ講和会議にも朝鮮代表として参加。しかし、列強の思惑の狭間で独立は実現せず、以後も在米で長く独立運動を継続。朝鮮半島に戻ることなく、35年間亡命生活を送った。
1.3 大韓民国初代大統領となるまで
第2次世界大戦後、李承晩は74歳で朝鮮に帰国。南北分断を防ぐため、米ソ両国に委託統治を提案したが受け入れられず、結局、南朝鮮のみで大韓民国の樹立を宣言。1948年8月、制憲国会で大統領に選出された。独立の理想と現実の乖離に直面しつつも、初代大統領の重責を担うことになった。
2. 大韓民国大統領としての李承晩
2.1 新生大韓民国の樹立と政治的基盤の確立
李承晩は、荒廃した国土の中で新国家の建設に着手。1948年憲法を制定し、三権分立と議院内閣制を規定した。しかし実際には、李承晩の個人的権威を背景とした大統領優位の統治が行われた。反共を国是とし、左派勢力を弾圧。一方で農地改革を断行し、支持基盤の拡大を図った。
2.2 38度線の設定と朝鮮戦争への対応
李承晩は南北統一を唱えつつ、38度線の固定化を受け入れざるを得なかった。1950年の朝鮮戦争勃発後は、国際連合軍の支援を取り付け、韓国軍を指揮して北進。しかし中国の参戦で戦局が膠着し、休戦交渉でも李承晩は強硬姿勢を崩さず、南北分断が長期化する遠因となった。
2.3 韓米関係の強化と非常大統領制の導入
李承晩は親米外交を追求し、朝鮮戦争での米国の支援に感謝しつつ、賠償金や援助の増額を求めた。国内では1952年に非常大統領制を導入し、大統領令の制定や議会の解散といった権限を掌握。独裁的な統治手法への批判を押し切る形で、1956年の大統領選でも再選を果たした。
2.4 独立・反共政策と国内の反対勢力への対立
李承晩は北朝鮮を「反逆集団」と断じ、統一を掲げつつ事実上の南北対立を主導した。国内でも反共を唱え、共産主義者の活動を徹底的に取り締まった。一方、李承晩に批判的な言論人や野党勢力に対しても弾圧的な姿勢で臨み、言論統制や人権抑圧が行われた時期でもあった。
3. 李承晩の政治思想と業績
3.1 制憲民主主義と権威主義的統治
建国の父である李承晩の政治思想は、民主主義の制度化と大統領権力の強化という二面性を持っていた。憲法で議会制民主主義を規定する一方、非常大統領制を導入して大統領の非常措置権を拡大。民意を重んじる姿勢と、非常事態での強権発動を正当化する論理が同居していた。
3.2 反共主義思想と東アジア冷戦への影響
李承晩の反共主義は、朝鮮戦争を契機により先鋭化した。休戦に難色を示し、一時は国連軍の指揮権さえ無視して単独行動を取るなど、強硬路線を主張。米国の東アジア戦略に影響を与え、冷戦構造の固定化に一役買った。韓国の存在感を高めた半面、南北対決の先鋭化は避けられなかった。
3.3 経済発展基盤の形成と朝鮮戦争の影響
李承晩政権下で、農地改革や初期的な工業化政策が実施され、経済発展の素地が形成された。しかし朝鮮戦争による被害は甚大で、産業基盤は大打撃を受けた。戦後復興に際しては、米国の援助に大きく依存。外資導入と輸出志向の経済体質が定着していく契機となった。
3.4 李承晩政権の評価とその遺産
李承晩の最大の功績は、国土分断と戦争の混乱の中で大韓民国の建国を実現したことだ。しかし、独立運動家としての理想と、現実政治家としての実務の間で揺れ動いた面もある。民主化運動を弾圧し、独裁的に振る舞ったことは大きな批判点だ。李承晩の遺産は光と影が交錯する難しさを孕んでいる。
4. 李承晩の晩年と退任後の展開
4.1 四月革命と政権崩壊
1960年3月15日の大統領選で、李承晩は不正を行って4選を果たした。しかしこれに反発した学生や市民による大規模なデモ(4・19革命)が発生。警官隊との衝突で多数の死傷者が出て、事態は李政権の維持が困難な段階に発展した。4月26日、李承晩は大統領職を辞任。12年に及んだ長期政権に幕を下ろした。
4.2 亡命生活と晩年の回顧
退陣後、李承晩は米国ハワイに亡命。86歳での政権崩壊は、さぞ無念だったろう。しかし晩年は静かに過ごし、回顧録『白凡逸志』の執筆に勤しんだ。そこでは独立運動家としての半生を振り返り、祖国への愛情を綴っている。同時に政権時代の自らの判断を正当化し、批判に反論する内容も少なくない。
4.3 李承晩の死と歴史的評価
1965年7月19日、李承晩はハワイで90年の生涯を閉じた。『大韓民国の初代大統領が崩御』との報に、韓国社会は大きな衝撃を受けた。しかし当時は軍事政権下で、李承晩への評価は抑制的だった。以後、民主化の進展とともに再評価の動きが本格化。建国の指導者としての功績を認める一方、独裁の負の遺産も直視されるようになっている。
5. 李承晩と韓国の近現代史
5.1 冷戦下東アジアの動向と李承晩の位置づけ
李承晩時代の韓国外交は、冷戦構造に規定された面が大きい。朝鮮戦争後、李承晩は韓米相互防衛条約の締結を実現。米国の東アジア戦略の一翼を担うことで、韓国の安全保障を確保した。一方、日本や台湾との関係にも微妙な距離感が生じた。李承晩は、東アジア冷戦の特異な位相を体現する存在だったと言える。
5.2 韓国政治・外交の展開に及ぼした影響
李承晩の下で確立された権威主義体制は、朴正煕政権にも引き継がれた。軍部の政治介入を招き、民主化を遅らせる一因となった。外交面では、李承晩が追求した韓米同盟重視の方針が、その後も韓国外交の基調となった。対北朝鮮政策でも、李承晩の強硬路線が後の政権に一定の影響を与え続けている。
5.3 現代韓国社会への遺産と教訓
李承晩という存在は、今なお韓国社会に複雑な影を落としている。建国の父であり、解放後の混乱を収拾した功績は大きい。しかし、独裁政治のはしりともなり、民主化運動を弾圧した事実も消せない。近年では、親日派との関係も取り沙汰されている。李承晩の光と影は、現代韓国の苦悩と可能性を示唆する格好の素材だ。
6. 試験で問われる重要ポイント
- 李承晩の出身背景と教育歴
- 独立運動家から初代大統領に至る経緯
- 大韓民国の建国過程における李承晩の役割
- 朝鮮戦争勃発前後の李承晩の政策決定
- 反共主義と権威主義的統治の特徴
- 韓米関係と東アジア冷戦への影響
- 経済発展の基盤形成と朝鮮戦争の影響
- 4・19革命と李承晩政権の崩壊
- 李承晩の政治思想と歴史的評価の変遷
- 現代韓国社会における李承晩の影響と教訓
7. 確認テスト
問1 李承晩が学んだ大学はどこか。
a. ソウル大学
b. 延世大学
c. プリンストン大学
d. 北京大学
解答:c
問2 李承晩が初めて就任した大韓民国臨時政府の役職は何か。
a. 外務総理
b. 国務総理
c. 大統領
d. 内務総理
解答:c
問3 李承晩が導入した非常大統領制の特徴として正しいのはどれか。
a. 大統領の三選禁止
b. 大統領の非常措置権拡大
c. 議会の権限強化
d. 司法府の独立保障
解答:b
問4 4・19革命の直接の発端となった出来事は何か。
a. 朝鮮戦争の勃発
b. 米軍の韓国撤退
c. 不正選挙に対する抗議デモ
d. 国際連合への韓国加盟
解答:c
問5 次の記述のうち、李承晩に関して誤っているのはどれか。
a. キリスト教徒として知られる
b. 晩年に回顧録を執筆した
c. 日本での亡命生活が長かった
d. 農地改革を主導した
解答:c