ピサロ徹底解説 – インカ帝国を滅ぼしたコンキスタドールの生涯と功績

ピサロ

16世紀、スペインのコンキスタドール、フランシスコ・ピサロは、わずか168人でインカ帝国を滅ぼした。莫大な富と権力を手に入れた征服者の生涯は、一方で非道の限りを尽くした残虐性でも知られる。インカ帝国の崩壊から、スペイン副王との対立、非業の死に至るまで、ピサロの功罪を探る。

ピサロとは何者か – その出自と経歴

ピサロのプロフィール画像

スペインの貧しい兵士から新大陸へ

フランシスコ・ピサロは1478年頃、スペインのトルヒーリョに貧しい家庭の子として生まれました。若くして孤児となったピサロは、学問より武芸や軍事訓練に励む道を選びます。当時、新大陸の発見によって富と名声を求めてスペインを離れる若者が多くいました。ピサロもまた、1509年にその一人としてイスパニョーラ島(現在のハイチ)に渡ります。
スペイン領となった中米で兵士として経験を積んだピサロは、1513年、バルボアが率いる太平洋発見の遠征に参加。以降、パナマ地峡でのスペインの植民地化に尽力します。1519年にはパナマ市の市長に就任し、植民地経営の手腕を発揮しました。

パナマ総督としての手腕と名声

1530年代、ピサロはパナマの総督に任命されます。当時のパナマは、南米大陸の征服と支配の前線基地となっていました。総督として植民地の発展に努める一方、海岸部の未知の地の探検を進めたピサロは、南に黄金の国が存在するとの情報を得ます。
1524年、ピサロはアルマグロ、ルケとともにインカ帝国への遠征を開始。莫大な富を手に入れるチャンスに賭けた冒険でした。3度の遠征の末、ついにペルーにたどり着いたピサロ一行は、想像をはるかに超える文明と富の存在を目の当たりにします。

重要ポイント!
  • スペインの貧しい家庭に生まれ、若くして新大陸に渡ったピサロは、軍人としてのキャリアを積む。
  • パナマ総督として名声を得た彼は、黄金の国を求めてインカ帝国への遠征を開始する。

インカ帝国征服 – ピサロの最大の功績

カハマルカの戦い – わずか168人でインカ軍を破る

1532年11月、ピサロ率いるわずか168人のスペイン軍は、カハマルカでアタワルパ皇帝との会見に臨みました。数千人のインカ軍を前に、ピサロは大胆にも皇帝を拘束する作戦に出ます。不意を突かれ混乱するインカ軍に対し、鉄砲と騎馬隊という未知の兵器で攻撃を加えたスペイン軍は、圧倒的な戦力差を見せつけました。短時間の戦闘でインカ軍を壊滅させ、アタワルパを捕虜としたのです。

アタワルパ皇帝の処刑と莫大な金銀

捕らえられたアタワルパは身代金として、部屋一杯の金と銀を差し出すと約束します。ピサロはこれを受け入れ、インカ各地から金銀財宝が運び込まれました。しかし、約束を果たしたアタワルパに対し、ピサロは裏切りの姿勢を見せます。スペイン王への反逆罪を着せられたアタワルパは、最終的にピサロによって処刑されてしまうのです。

クスコ占領とインカ帝国の崩壊

アタワルパを失ったインカは大混乱に陥ります。その隙をつき、ピサロ軍はインカの首都クスコに進撃。1533年にはクスコを占領し、ここにインカ帝国の崩壊が決定的となりました。ピサロはクスコに傀儡皇帝を立て、インカ支配の体制を整えていきます。
抵抗を続けるインカ勢力もありましたが、指導者を失い士気は低下。内部分裂もあり、次第にスペインの圧倒的な軍事力の前に屈することになりました。こうしてわずか数百人の兵で、南米最大の帝国を征服したピサロ。彼の武勇と策略は、インカをはるかに上回るものだったのです。

重要ポイント!
  • カハマルカの戦いでは、騙し討ちでアタワルパ皇帝を捕らえ、インカ軍を壊滅させる。
  • クスコを占領し、インカ帝国を崩壊に追い込んだピサロは、莫大な富と権力を手にする。

スペイン王室との確執と暗殺

副王との対立とピサロ兄弟の抗争

インカ帝国を滅ぼし、絶大な権力を手にしたピサロでしたが、晩年はスペイン王室との関係悪化に悩まされます。新大陸の統治をめぐり、ピサロと副王ヌニェス・ベーラの対立が深まったのです。副王はピサロ兄弟の専横を危険視し、インディオ保護令を発布。これに反発したピサロ兄弟は、王室の意向に逆らってまで自らの利権を守ろうとします。
一方、征服の功績をめぐってはアルマグロ一派との対立も生じていました。かつての盟友の子アルマグロ二世が、ペルー副王領の統治権を主張したのです。ピサロはクスコを占拠したアルマグロ派を武力で排除しようとします。こうしてピサロとアルマグロ二世の内戦が勃発。その過程でピサロの弟フアンが戦死するなど、泥沼の抗争が続きました。

アルマグロ派との内戦と非業の最期

内戦はピサロ軍の勝利に終わり、アルマグロ二世は処刑されます。しかし、これは逆にピサロへの反発を広げる結果となりました。アルマグロ派の残党は復讐を誓い、ピサロ暗殺の機会をうかがっていたのです。
1541年6月、リマの屋敷で執務中のピサロのもとに、アルマグロ派の一団が乗り込みます。激しい斬り合いの末、ピサロは遂に命を落とすこととなりました。征服者の栄華を極めた男も、同じ征服者の手にかかって非業の死を遂げたのです。功績に並ぶ数々の悪行が、ピサロ自身に返ってきたとも言えるでしょう。

重要ポイント!
  • 征服地の統治をめぐり、ピサロは副王と対立。アルマグロ一派との内戦も勃発する。
  • かつての同志アルマグロの息子率いる一団に暗殺され、非業の死を遂げる。

ピサロの功績と歴史的評価

インカ帝国滅亡の立役者

ピサロの最大の功績は何と言っても、インカ帝国の征服でしょう。当時の世界屈指の大国を、わずか数百人の兵で滅ぼしたのは前代未聞の偉業です。騎馬隊や鉄砲という軍事技術の優位性を活かし、インカ国内の対立も巧みに利用したピサロの戦略は、高く評価されています。インカ帝国滅亡は、中南米の歴史を大きく変えた一大事件。そこにピサロの名は深く刻まれているのです。

中南米の植民地化とカトリック布教の礎を築く

インカを滅ぼしたピサロは、スペインによる中南米支配の礎を築きました。従来の先住民社会を解体し、植民地経営の枠組みを整備。ペルーをはじめとする地域は、ピサロ以後スペインの重要な領土となりました。同時に、スペインに帯同したカトリック聖職者は、征服地での布教活動を開始。ピサロの軍事的成功が、キリスト教の普及を後押しする形となったのです。ピサロは政治的にも宗教的にも、スペイン帝国の拡大に貢献したと言えるでしょう。

一方で先住民を虐殺した残虐非道の conquistador という評価も

功績の一方で、ピサロには多くの負の遺産もあります。インカ征服に際しては、先住民の虐殺や略奪が横行。カハマルカでの騙し討ちや、捕虜とした皇帝の処刑など、ピサロの非道ぶりは際立っていました。金銀財宝を求める強欲さは際限なく、先住民を奴隷化して酷使する姿勢も顕著でした。こうした残虐性から、ピサロを非難する声は征服直後から根強くあったのです。現在のペルーでも、ピサロは英雄というより侵略者として否定的に捉えられることが多いと言われます。

重要ポイント!
  • インカ帝国征服は中南米の歴史を変えた大事件であり、ピサロの軍事的手腕は高く評価される。
  • 一方で、先住民虐殺や非道な行為の数々から、残虐な侵略者との評価も根強い。

試験で問われる重要ポイント

  • ピサロの出自と経歴(貧しい家庭出身、スペイン軍兵士としてのキャリア、パナマ総督など)
  • インカ帝国征服の過程(カハマルカの戦い、アタワルパ皇帝の処刑、クスコ占領)
  • 征服に用いられた軍事技術(騎馬隊、鉄砲などスペイン側の優位性)
  • インカ帝国滅亡の歴史的意義と影響
  • スペインによる中南米の植民地化とカトリック布教の拡大におけるピサロの役割
  • ピサロの負の側面(先住民虐殺、略奪、非道な行為)と歴史的評価の対立
  • 晩年のスペイン王室・副王との対立、アルマグロ派との内戦
  • ピサロ暗殺の経緯と征服者の権力闘争

ピサロに関する確認テスト

問1. フランシスコ・ピサロの出身地はどこか?
a. イタリア
b. ポルトガル
c. スペイン
d. フランス

正解: c. スペイン

解説

フランシスコ・ピサロはスペインのエストレマドゥーラ地方、トルヘーロ出身です。ピサロは後に南アメリカ大陸に渡り、インカ帝国の征服者として知られるようになります。

問2. ピサロがインカ皇帝アタワルパを捕らえ、多数のインカ軍を破ったのは次のうちどの戦いか?
a. カハマルカの戦い
b. オトゥンバの戦い
c. アヤクーチョの戦い
d. トゥパクアマルの反乱

正解: a. カハマルカの戦い

解説

1532年、フランシスコ・ピサロはカハマルカの戦いでインカ帝国の皇帝アタワルパを奇襲し、捕らえました。この戦いは少数のスペイン兵が大勢のインカ軍を打ち破ったことで知られています。

問3. インカ帝国の首都クスコを占領し、インカ帝国を滅亡に追い込んだのは誰か?
a. エルナン・コルテス
b. フランシスコ・ピサロ
c. ディエゴ・デ・アルマグロ
d. ペドロ・デ・バルディビア

正解: b. フランシスコ・ピサロ

解説

フランシスコ・ピサロは1533年にインカ帝国の首都クスコを占領しました。これにより、インカ帝国の滅亡が確定し、その後スペインによる統治が始まります。

問4. ピサロと対立し、副王に任命されたのは次のうち誰か?
a. トマス・デ・トレド
b. ブラスコ・ヌニェス・ベーラ
c. ペドロ・デ・ラ・ガスカ
d. ガルシア・ウルタード・デ・メンドーサ

正解: b. ブラスコ・ヌニェス・ベーラ

解説

ブラスコ・ヌニェス・ベーラは1544年にペルーの副王に任命され、ピサロとその支持者たちと対立しました。彼の政策は現地のスペイン人コンキスタドールたちから反発を受け、最終的には暗殺されました。

問5. フランシスコ・ピサロを暗殺したのは次のうちどのグループか?
a. インカ帝国の残党
b. スペイン王室派
c. アルマグロ派
d. 王室直属の軍隊

正解: c. アルマグロ派

解説

フランシスコ・ピサロは1541年にアルマグロ派のメンバーによって暗殺されました。アルマグロ派はディエゴ・デ・アルマグロの支持者たちであり、ピサロとの権力争いが暗殺の主要な原因でした。

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