ルイ フィリップとは何者?
七月革命でシャルル10世から王位を継承
ルイ フィリップは、1830年の七月革命でブルボン復古王政の国王シャルル10世が退位した後、「フランス人の王」として即位しました。七月革命は、専制的な政治を行っていたシャルル10世への不満から起こった市民革命で、立憲主義の理念を掲げるルイ フィリップへの期待が高まった結果でした。
「フランス人の王」「市民王」と呼ばれた由来
ルイ フィリップは、絶対王政時代の「神の恩寵による王」とは異なり、国民の意思に基づいて統治する「フランス人の王」を自称しました。また、豪華な王宮ではなく、パリの民家に住み、市民に親しみやすい態度を示したことから「市民王」とも呼ばれました。こうした姿勢は、革命後の混乱を収拾し、国民との融和を図る上で効果的でした。
ルイ フィリップの主な政策
制限選挙制の維持と立憲君主政
ルイ フィリップは、国王の権限を制限し、議会の同意の下で政治を行う立憲君主制を採用しました。ただし選挙権は高額納税者に限られ、国民の多数は政治に参加できませんでした。この制限選挙制の下で、ルイ フィリップは産業ブルジョワジーの利益を優先する政策を進めました。
ギゾーを重用し、内政の安定と経済発展を実現
宰相に起用されたギゾーは、ブルジョワ支配体制を強化しつつ、教育の普及や経済の自由化を推進しました。その結果、七月王政期には産業革命が本格化し、フランス経済は大きく発展を遂げました。また、中間層を取り込んだ「中庸」路線により政情は比較的安定し、文化面でも市民文化が花開く「七月王政の全盛期」を迎えました。
外交では四国同盟の形成などバランス外交を展開
対外的には、イギリス、プロイセン、オーストリアとの四国同盟を形成し、ヨーロッパの勢力均衡を維持するバランス外交を展開しました。また、アルジェリア侵攻を開始するなど、フランスの大国としての地位回復を図りました。ただしヨーロッパ諸国の自由主義運動に対しては抑圧的な態度をとり、革命勃発を警戒する保守的な姿勢が目立ちました。
ルイ フィリップ体制の動揺
選挙法改正を求める運動の高まり
七月王政の末期には、制限選挙制への不満が高まり、選挙法改正を求める運動が活発化しました。中間層や労働者階級は参政権の拡大を訴え、各地で議会改革を求める集会が開かれるようになりました。しかしルイ フィリップ政権は、これを危険視して弾圧に乗り出しました。
不作による食料価格の高騰と経済の悪化
1845年から数年間続いた農作物の不作は、食料価格の高騰を招き、民衆の生活を圧迫しました。都市部では失業者が増加し、経済の行き詰まりに対する庶民の不満が爆発寸前の状況となりました。七月王政の政策は大ブルジョワジーには有利でしたが、労働者には厳しいものだったのです。
体制批判の強まりと共和主義の台頭
ルイ ブランらの社会主義者が平等社会の実現を唱え、支持を集めるようになります。また、ラマルティーヌなどの共和派は王政打倒を訴え、民衆の共感を得ていきました。こうした急進的な勢力は、ルイ フィリップの体制が抱える矛盾を鋭く追及し、変革の必要性を説きました。民衆の間に王政への反感が募る一方、共和制を理想とする機運が高まっていったのです。
1848年2月革命とルイ フィリップの退位
民衆の蜂起により、ルイ フィリップは退位
1848年2月22日、パリで選挙法改正を求める集会が開かれ、これを弾圧しようとした政府と衝突が起こりました。23日から市街戦となり、ルイ フィリップは兵力を動員しますが、民衆の攻撃の前に王宮は陥落。結局ルイ フィリップは退位を余儀なくされ、イギリスへ亡命しました。短期間で王政が崩壊した背景には、国民の広範な支持を得られていなかった体制の脆弱さがありました。
第二共和政の樹立へ
革命の中心となった共和派は臨時政府を樹立し、普通選挙に基づく共和政の実現を宣言しました。こうして成立した第二共和政は、のちにナポレオン3世によって帝政に移行しますが、フランス史上初めて男子普通選挙を導入した点で画期的な意義を持ちました。七月王政の崩壊は、19世紀前半のヨーロッパを席巻した自由主義革命の一つの到達点となったのです。
ルイ フィリップの歴史的評価
七月王政期のフランスを安定へ導いた功績
ルイ フィリップの最大の功績は、革命後の混乱からフランスを立て直し、秩序と安定をもたらしたことです。「中庸」を標榜する七月王政は、急進的な変革は避けつつ産業の発展を促し、教育の振興などで着実な成果を上げました。ギゾー内閣の下で達成された繁栄は、フランス近代化の礎となりました。
体制の限界と亀裂も徐々に露呈
しかし七月王政の安定は表面的なもので、国民の多数を政治から疎外する制度の歪みは次第に大きくなりました。ブルジョワ支配を優先するあまり、労働者の困窮を軽視したことも禍根を残しました。結局、国民の声に耳を傾けない硬直した体制は、内外の変化に対応できず崩壊への道をたどることになります。
革命を経験した最後のフランス国王
ルイ フィリップは激動の時代を生き、革命の只中で王位に就いた稀有な君主でした。「フランス人の王」を自認し立憲主義を標榜しましたが、結局は革命に倒れた最後の国王となりました。ルイ フィリップの治世は、護送船団方式から自由主義への過渡期に位置し、新旧の価値観が交錯する複雑な時代だったと言えます。その意味で、ルイ フィリップの歴史的評価には光と影の両面があると考えられます。
試験で問われる重要ポイント
- 七月革命(1830年)の経緯とルイ フィリップ即位の意義
- ルイ フィリップ体制の特徴(立憲君主政、制限選挙制など)
- ギゾー政権下の内政と外交
- 1848年2月革命の原因と結果
- ルイ フィリップの歴史的評価(功績と限界)
確認テスト
問1. ルイ フィリップが国王に即位したきっかけとなった1830年の革命は何革命か?
解答:「七月革命」
1830年に起こった七月革命は、カルロス10世の絶対王政に対する反乱であり、この結果ルイ・フィリップが「市民王」として国王に即位しました。
問2. ルイ フィリップ政権下で実権を握った政治家は誰か?
解答:「フランソワ・ギゾー」
ギゾーはルイ・フィリップ政権下で教育相や内相を歴任し、特に1836年から1848年の間、強力な影響力を持ちました。
問3. ルイ フィリップ体制を揺るがせた1848年の革命は何革命か?
解答:
「二月革命」
1848年に起こった二月革命は、広範な社会的・政治的不満が原因で、この革命によりルイ・フィリップは退位し、フランス第二共和国が成立しました。