ユスティニアヌス帝とは?
ユスティニアヌス帝の生涯
ユスティニアヌス1世(在位527〜565年)は、東ローマ帝国の皇帝です。ビザンツ帝国の盛期を現出した傑物として知られています。 貧しい家庭に生まれたものの叔父ユスティヌス1世の後継者となり、527年に皇帝に即位しました。在位38年の間、領土拡大や法制度の整備など、多岐にわたる功績を残しました。 英明な皇后テオドラを寵愛し政治を助けてもらう一方、532年の「ニカの乱」鎮圧では、民衆を虐殺するなど強権的な面もみられました。晩年は対ペルシャ戦争に明け暮れ、565年に没しました。
東ローマ帝国とビザンツ帝国の違い
東ローマ帝国とビザンツ帝国は、厳密には同一の国家を指しています。 395年のローマ帝国分裂で東半分を受け継いだのが東ローマ帝国であり、その首都がビザンティオン(コンスタンティノープル)でした。 一方でビザンツ帝国という呼称は、16世紀以降の歴史家が便宜上用いるようになった言葉で、ユスティニアヌス帝の時代を含む帝国の盛期を指すことが多いです。 ただし当時の人々は自らを「ローマ人」と呼び、正統なローマ帝国の継承者と考えていました。
ユスティニアヌス帝の主な業績
ユスティニアヌス法典の編纂
ユスティニアヌス帝の代表的な業績が、ローマ法大全の編纂事業です。これは古代ローマの膨大な法令や法学者の注釈をまとめ、整理・体系化したもので、「ユスティニアヌス法典」と呼ばれます。 編纂は530年代に行われ、全12巻で構成されました。法律家トリボニアヌスを中心とする委員会が、約300年分にわたる法文献を調査・統合し、相反する規定の調整、時代遅れの法の削除などを行いました。 この法典は中世ヨーロッパの法学にも大きな影響を与え、近代の民法や国際法の基礎となりました。東ローマ帝国の法制度を後世に伝える記念碑的な業績といえます。
ハギア・ソフィア大聖堂の建設
ユスティニアヌス帝の威光を今に伝えるのが、首都コンスタンティノープルに建設された大聖堂、ハギア・ソフィアです。 532年にニカの乱で焼失した聖堂の再建を、皇帝は建築家のアンテミオスとイシドロスに命じました。 完成した聖堂は、東西約75m、南北約70mの大規模なドーム式建築で、内部は豪奢なモザイク画やオリエント風の装飾が施されました。1000年以上にわたりキリスト教世界最大の聖堂であり、ビザンツ建築の最高傑作とされます。 ユスティニアヌス帝は「ソロモンよ、私はあなたに打ち勝った」と述べたと伝えられ、この建築事業に並々ならぬ情熱を注いでいたことがうかがえます。
領土拡大政策と北アフリカ・イタリア征服
ユスティニアヌス帝は、かつての西ローマ帝国の版図を取り戻すべく領土拡大に乗り出しました。 532年に東ゴート族と和平を結んだのち、将軍ベリサリウスを北アフリカに派遣し、534年にヴァンダル族を降伏させ同地を制圧しました。 さらに535年から始まったゴート戦争では、イタリア半島の大部分を奪取することに成功します。将軍ナルセスが552年にゴート族を撃破し、イタリアを帝国に組み入れました。 同時期、南スペインの一部も領有し、地中海の覇権を回復したのです。 ただし帝国の疲弊は著しく、ユスティニアヌス帝の死後まもなく、これらの征服地の多くが失われる結果となりました。
ユスティニアヌス帝の宗教政策
三章問題とカルケドン信条
ユスティニアヌス帝の治世では、キリスト教をめぐる神学論争も重要な位置を占めています。 当時のキリスト教界では、451年のカルケドン公会議で採択された正統信仰をめぐり、賛同するカルケドン派と、それを拒絶する非カルケドン派(モノフィシト派)が対立していました。 東方の諸教会の多くはモノフィシト派であり、分離の動きを強めていました。 皇帝は544年、非カルケドン派の論客である「三章」の著作を異端として断罪する勅令を出しますが、これに反発したのが「三章問題」です。 西方のカルケドン派は、皇帝によるこの措置を不当だと抗議しました。さらに東方のモノフィシト派も、自説を曲げて妥協したとして反発を強め、事態は泥沼化の様相を呈したのです。
東西教会の分裂への影響
結局、東西教会の溝を埋めることはできず、ユスティニアヌス帝の宗教政策は一定の限界をみせました。 しかし皇帝は、異端の取り締まりを通じて教会の一致と国家統制を目指すなど、政教一致の理念を追求し続けたのです。 また、大聖堂の建設や修道院の保護育成など、キリスト教への厚遇を通じて、正教会と国家権力の結びつきを強化しました。 これらの政策は、以後のビザンツ帝国でも踏襲され、西欧とは異なる東方キリスト教世界の独自性の形成に寄与することになりました。 同時に、のちの東西教会の分裂をも準備する遠因になったと考えられます。
ユスティニアヌス帝の治世の影響
東ローマ帝国の全盛期
ユスティニアヌス帝の治世は、ビザンツ帝国の最盛期を画するものでした。 ローマ法の集大成や大聖堂の建設、領土の拡大など、この時代の諸事業は、帝国の威光を内外に示すものでした。 首都コンスタンティノープルは人口50万を超える世界最大の都市に発展し、各地から多様な人材が集まる国際的な大都市となりました。 繁栄の一方で、ペルシャとの抗争、軍事費の重圧、疫病の大流行など様々な困難に直面したのもこの時期でしたが、ユスティニアヌス帝は強力な皇帝権を背景に、国難を乗り越えていきました。 この全盛期の勢いは、ユスティニアヌス帝の死後まもなく減退していきますが、彼の治世はビザンツ文明の記念碑的な時代として、後世に強い影響を与え続けることになります。
法学・建築・芸術への影響
ユスティニアヌス帝の事績は、その後の欧州文化の諸分野に多大なインパクトを残しました。 法学の分野では、ユスティニアヌス法典が中世の大学で教科書として用いられ、近代民法の淵源となりました。 建築では、ハギア・ソフィア大聖堂が後のビザンツ建築やイスラーム建築のお手本となり、ドームと半ドームを組み合わせた壮麗な教会堂が、東方キリスト教圏で数多く建てられるようになります。 美術の面でも、ハギア・ソフィア内部のモザイク画に代表される、キリスト教絵画の古典的な様式が完成をみました。 さらに、貴金属細工や象牙彫刻、絹織物の制作も盛んになり、独特の洗練されたビザンツ様式が花開いたのです。 こうしたビザンツ文明の遺産は、中世ヨーロッパやイスラーム世界、ロシアなどに受け継がれ、世界の文化史に大きな足跡を残すことになります。
試験で問われる重要ポイント
ユスティニアヌス法典の意義
- 膨大なローマ法を集大成し、体系化した法典であること
- 後世のヨーロッパの法学・法体系に多大な影響を与えたこと
- 近代の民法や国際法の源流となったこと
ハギア・ソフィア大聖堂の特徴
- ドーム式建築の最高傑作で、ビザンツ建築の代表例であること
- 内部装飾が極めて豪奢で、モザイク画などが見事なこと
- 1000年以上にわたりキリスト教世界最大の聖堂だったこと
東西教会分裂の原因
- 東西で神学的立場の相違があり、政治的にも対立があったこと
- 三章問題などを通じ、皇帝権と教会の関係をめぐる溝が深まったこと
- ユスティニアヌス帝の強硬な宗教政策が、かえって分裂を助長した面があること
確認テスト
問題と解答
問1 ユスティニアヌス法典の編纂事業を主導した法律家は誰か?
a.トリボニアヌス
b.ガイウス
c.ウルピアヌス
解答:a.トリボニアヌス
問2 ハギア・ソフィア大聖堂の建設を命じた出来事は何か?
a.プロポンティスの戦い
b.ニカの乱
c.ローマ劫掠
解答:b.ニカの乱
問3 ユスティニアヌス帝がイタリア征服のため派遣した将軍は誰か?
a.アエティウス
b.ベリサリウス
c.スティリコ
解答:b.ベリサリウス
問4 当時のキリスト教界で正統信仰とされた教義は何か?
a.アリウス主義
b.カルケドン信条
c.イコノクラスム
解答:b.カルケドン信条
問5 ユスティニアヌス帝の治世はビザンツ帝国の何期にあたるか?
a.初期
b.全盛期
c.衰退期
解答:b.全盛期