ネルーとは? – インド独立運動の中心人物
生い立ちと教育
ネルーは1889年11月14日、アラハバードの富裕な家庭に生まれました。父のモティーラール・ネルーは著名な弁護士で、インド国民会議派の指導者の一人でした。ネルーは7歳でイギリスに渡り、ハロー校で学んだ後、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を専攻。大学在学中にインド哲学に興味を持ち、インド独立への思いを強くしました。1912年、ネルーは弁護士資格を取得してインドに帰国します。
弁護士としてのキャリアと政治活動のはじまり
帰国後のネルーは弁護士として活動する傍ら、貧しい農民や労働者の権利のために尽力しました。また、『インディペンデント』紙の編集者としても働き、ジャーナリストとしての才能を発揮しました。1919年、ネルーはインド国民会議派に参加。ガンディーと出会い、非暴力・不服従運動に共鳴します。ネルーは次第にインド国民会議派の中心的存在となり、独立運動のリーダーの一人へと成長していきました。
ガンディーとの出会いとインド国民会議派での活動
非暴力・不服従運動への参加
1920年代、ガンディーはインド国民会議派を舞台に大規模な非暴力・不服従運動を展開しました。ネルーはこの運動に積極的に参加し、ガンディーと共にインド各地を回って大衆を組織化。英国製品のボイコットや、税の不払い、学校や職場のストライキなどを呼びかけ、独立への機運を高めていきました。運動に参加したことで、ネルーは何度も投獄されますが、独立への信念は揺るぎませんでした。
ネルーとガンディーの関係と思想的影響
ガンディーはネルーにとって、政治的指導者であると同時に精神的な師でもありました。ガンディーの説く非暴力、平等、自助の思想は、ネルーの人生観・世界観の基礎となります。特に非暴力の理念は、ネルーの政治活動の根幹をなすものでした。一方、西洋的教育を受けたネルーは、ガンディーに社会主義的観点からのアドバイスを与えるなど、互いに影響を与え合う関係にありました。二人の強い絆は、インド独立運動を大きく前進させる原動力となったのです。
インド独立までの道のり
第二次世界大戦とクリップス会談
第二次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドの戦争協力を取り付けるため、1942年にクリップス会談を開催しました。しかしイギリスが提示した自治権案は、インド国民会議派の要求を満たすものではありませんでした。ネルーとガンディーは会談に失望し、イギリスからの即時独立を求めて「クウィット・インディア(インドから出て行け)」運動を展開。これに対しイギリスは、ガンディーやネルーを投獄するなど弾圧で対抗しましたが、インドの独立機運を押しとどめることはできませんでした。
イギリスからの独立とインド・パキスタン分離独立
戦後、労働党のクレメント・アトリー政権は、インド独立を実現させる方針を固めます。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を懸念したイギリスは、インドとパキスタンの分離独立案を提示しました。ネルーやガンディーは分離に反対しましたが、イスラム教徒の政治指導者ジンナーが強硬に分離を主張。最終的に二国分離案が受け入れられ、1947年8月、インドとパキスタンはそれぞれ独立を果たしたのです。
独立に伴い、インドとパキスタンの間で大規模な住民の移動が発生。宗教対立に起因する暴力も各地で広がり、多くの犠牲者が出ました。ネルー首相はこうした課題の解決に尽力する一方、独立国家としての体制づくりに着手していきます。
インド初代首相としての政策と業績
ネルーは1947年から1964年までインド初代首相を務め、独立国家の基礎を築くために尽力しました。外交、経済、社会の各分野で、ネルーは独自の政策を打ち出し、インドの近代化と安定化を目指しました。もちろん課題も山積していましたが、ネルーの業績はインドの発展の礎となったと言えるでしょう。
外交面での中立主義と非同盟運動
ネルーは、東西冷戦の対立構造に組み込まれることを避け、中立主義の外交を展開しました。1954年には中国と平和五原則に合意し、1955年にはアジア・アフリカ会議を主導するなど、非同盟運動の旗手としても活躍しました。ソ連や米国といった大国とも等距離の関係を保ちつつ、第三世界の結束を呼びかけるネルーの外交は、インドの国際的地位を高める上で大きな役割を果たしました。
国内での近代化政策と経済発展
国内では、ネルーは社会主義的手法を取り入れながら、経済の自立と近代化を推進しました。重工業の育成に力を入れ、鉄鋼や機械工業などの分野で国営企業を設立。農業面では土地改革を実施し、農民の地位向上を図りました。また、ダム建設など大規模なインフラ整備を進め、工業化の基盤を築きました。こうした政策は「ネルーモデル」と呼ばれ、インド経済の発展の原動力となったのです。
言語・宗教対立への対応
独立後のインドでは、多言語・多宗教に起因する対立が深刻化していました。ネルーはこれに対処するため、言語を基準とした州の再編を進めました。例えば、タミル語を話す人々の州としてタミルナードゥが創設されるなど、言語集団の自治が促進されました。宗教面でも、世俗主義の理念の下でヒンドゥー教とイスラム教の融和を図る政策がとられました。もっとも、対立の解消は容易ではなく、ネルー没後も課題として残ることになります。
ネルーの政策はもちろん万全ではありませんでした。中国との国境紛争、パキスタンとの対立、根深い貧困など、様々な問題を抱えたままネルーは1964年に死去します。しかし、独立インドの初代首相として国家の基盤を築いたネルーの功績は、現在のインドの発展を考える上で欠かせないものだと言えるでしょう。
ネルーの思想と理念
ネルーの政治理念は、民主主義、世俗主義、社会主義、非同盟の4点に集約されると言われます。ネルーは西洋的な近代思想の影響を受けつつ、それをインドの文脈で咀嚼し、独自の思想を形成しました。ナショナリズムと国際協調主義、伝統と近代の融合を目指したネルーの思索は、現代インドの課題を考える上でも示唆に富むものです。
民主主義と世俗主義
ネルーは、議会制民主主義こそが自由と平等を保障する最良の政治制度だと考えていました。一方で、インドの歴史や伝統にも配慮し、各地域の自治を尊重する分権的な民主主義の実現を目指しました。また、ネルーは世俗主義の理念を重視し、国家と宗教の分離を訴えました。多宗教国家インドで平和的な国民統合を進めるには、国家が特定の宗教に与してはならないというのがネルーの信念でした。
社会主義的経済政策
経済面では、ネルーは社会主義的な計画経済の手法を取り入れました。資本主義の行き過ぎを戒め、国家主導で工業化と経済発展を推進することで、貧困の撲滅と社会的平等の実現を図ったのです。もっとも、ネルーの唱えた社会主義は、マルクス主義とは一線を画すものでした。ネルーは私有財産制を否定せず、民主主義と社会主義の両立を目指したと言えます。
平和主義と核廃絶への願い
ネルーの思想のもう一つの特徴は、恒久平和の希求です。非暴力主義者ガンディーの影響を受け、ネルーは平和主義を外交の基調に据えました。核兵器の脅威を憂慮し、核実験の全面禁止を訴えるなど、核廃絶運動の先駆けとしても活躍しました。第三世界の代弁者として、ネルーは国際社会に平和と協調の重要性を説いたのです。
もちろん、ネルーの思想には批判や議論の余地もあります。民主主義と社会主義の整合性、世俗主義の徹底の難しさなど、現実への適用をめぐっては様々な論点が残されています。しかし、多様性の中の統一、伝統と近代の架橋を追求したネルーの理念は、グローバル化時代の今日においてもなお普遍的な意義を持つと言えるでしょう。
試験で問われる重要ポイント
- 試験では、ネルーの生涯の各段階での活動や思想、初代首相としての政策などが問われることが多い。
- ネルーの業績を手掛かりに、インド独立の歴史的意義と独立後のインドが直面した課題を考察することが重要である。
ネルーは、インド独立運動史や現代インド論の文脈で頻繁に登場する人物です。試験では、ネルーの生涯の各段階での活動や思想、初代首相としての政策などが問われることが多いでしょう。ここでは、ネルーについて理解する上で押さえるべき重要ポイントを整理しておきます。
ネルーの生涯の各段階と活動内容
ネルーの人生は、大きく3つの時期に区分できます。青年期は英国留学を経てインドに帰国し、弁護士として政治活動を開始した時期。独立運動期は、ガンディーと出会い非暴力・不服従運動に身を投じた時期。そして首相期は、独立を達成した後のインド建設に邁進した時期です。各時期の活動の特色と転換点を押さえることが、ネルーを理解する第一歩となります。
ガンディーとの関係とその影響
ネルーの思想と行動を考える上で、ガンディーとの関係は欠かせません。ガンディーの非暴力主義や単純生活の思想は、ネルーに大きな影響を与えました。同時に、ネルーはガンディーの宗教的党派性には与せず、世俗主義の立場を貫きました。二人の協力と緊張関係を踏まえつつ、ガンディーがネルーに与えた思想的影響を押さえることが重要です。
初代首相としての主要政策と評価
独立後のネルー政権の政策は、現代インドの基礎を形作ったと言えます。外交面での非同盟中立路線、経済面での社会主義的計画経済、社会面での世俗主義と言語州再編など、ネルーの打ち出した路線は、その後のインドの針路に大きな影響を与えました。もちろん課題も山積していましたが、複雑な国情の中で独立インドの礎を築いたネルーの功績は高く評価されています。
ネルーの業績を手掛かりに、インド独立の歴史的意義と独立後のインドが直面した課題を考察することは、現代インドを学ぶ上でも有益な作業となるでしょう。ネルーの生涯とその遺産は、激動のインド現代史を読み解く重要な鍵なのです。
確認テスト
空欄補充問題
ネルーは( )年にアラハバードに生まれ、( )年にケンブリッジ大学を卒業した。
解答:1889年、1912年
ネルーが非暴力・不服従運動に参加したのは、( )との出会いがきっかけだった。
解答:ガンディー
インドとパキスタンが分離独立したのは( )年のことである。
解答:1947年
正誤問題
ネルーは当初からインドとパキスタンの分離独立を主張していた。(〇・×)
解答:×
ネルーは外交面で東西冷戦の一方の陣営に与することを選択した。(〇・×)
解答:×
ネルーは経済政策として資本主義的な自由主義経済を導入した。(〇・×)
解答:×