ヘルマン・ゲーリングは、20世紀のドイツを代表する軍人、政治家であり、ナチス・ドイツの中枢を担った人物です。第一次世界大戦での活躍から、ナチス党へ の入党、ヒトラーの側近としての権力掌握、第二次世界大戦でのドイツ空軍指揮、そしてニュルンベルク裁判での死刑宣告と服毒自殺に至るまでの半生は、 激動の時代を映し出す鏡とも言えるでしょう。本記事では、ゲーリングの生涯を通して、ナチス・ドイツの興亡の歴史を探ります。
ゲーリングとはどんな人物?
ゲーリングの経歴概要 – 第一次世界大戦からナチス党への加入まで
ヘルマン・ゲーリングは、1893年1月12日、バイエルン王国の裕福な家庭に生まれました。少年時代から反抗的な性格で知られ、学業よりもスポーツや狩猟に熱中していました。第一次世界大戦が勃発すると、1914年にドイツ陸軍に志願し、のちに航空隊に転属。戦闘機パイロットとして活躍し、22機を撃墜したとされ、プール・ル・メリット勲章を授与されるなど、英雄となりました。
戦後、ゲーリングは極右団体に関わるようになり、1922年にアドルフ・ヒトラーと出会い、ナチス党に加入します。ヒトラーの側近として、突撃隊(SA)の組織化などに尽力し、党勢拡大に貢献しました。1923年11月のミュンヘン一揆(ビアホール一揆)では、ヒトラーとともにバイエルン州政府打倒を図りますが、鎮圧され失敗。この時に負傷したゲーリングは、麻薬性鎮痛剤の投与を受けたことから、麻薬中毒に陥ったと言われています。
ヒトラーの側近として – ナチス党でのゲーリングの役割と権力掌握
1933年1月30日、ナチス党が政権を獲得すると、ゲーリングはプロイセン州の首相に就任し、警察を掌握。ナチス政権の基盤固めに大きな役割を果たしました。さらに、国会議長や経済大臣など、要職を兼任し、権力を集中させていきます。
1935年、ゲーリングはドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)創設とともに空軍総司令官に就任し、元帥の地位を得ました。ヒトラーの後継者と目されるようになり、ナチス党内でも確固たる地位を築いたのです。また、四か年計画全権委員として経済政策にも大きな影響力を行使し、軍需産業の育成に尽力。第二次世界大戦に向けて、ドイツ経済を統制していきました。
こうして、ゲーリングはヒトラーに次ぐナチス党ナンバー2の座に上り詰め、党内の実力者として、第三帝国の中枢を担う存在となったのです。政治、軍事、経済など、あらゆる面で絶大な権力を握ったゲーリングでしたが、やがて第二次世界大戦が勃発し、ドイツの運命とともに、彼の命運もまた風前の灯火と化していくこととなります。
ゲーリングとナチス・ドイツ空軍
ゲーリングとルフトヴァッフェ – ナチス・ドイツ空軍の創設と発展
1935年3月、ナチス政権はヴェルサイユ条約の軍事制限条項を一方的に破棄し、ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)を公然と創設しました。空軍総司令官に就任したゲーリングは、パイロットの養成や最新鋭機の開発、レーダー技術の導入など、全力で軍備拡張を推し進めます。
1936年から1939年にかけて、ドイツ空軍はスペイン内戦に派兵され、レジオネ・コンドル(コンドル軍団)として実戦経験を積みました。ゲルニカの空爆に代表される無差別爆撃は、ゲーリングの指揮方針を象徴するものでした。こうしてドイツ空軍は急速に戦力を増強し、第二次世界大戦開戦までには、質・量ともに世界有数の空軍へと成長を遂げたのです。
第二次世界大戦におけるゲーリングの指揮 – 空軍の戦略と敗北
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、ゲーリングの指揮するドイツ空軍は電撃戦の切り札として、大きな戦果を挙げました。西部戦線でも、空軍は陸軍に先行して侵攻し、連合軍を圧倒。1940年5月のダンケルクの戦いでは、撤退するイギリス軍を猛攻撃し、追い詰めました。
しかし、ゲーリングは同年7月から10月にかけて行ったイギリス本土空襲作戦、バトル・オブ・ブリテンで重大な誤算を犯します。レーダー網を生かしたイギリス空軍の防空態勢を過小評価し、優勢を誇ったものの、結局、パイロットと航空機の損失が大きく、作戦は失敗。ヒトラーのイギリス本土侵攻計画も頓挫したのです。
大戦後半、ソ連侵攻作戦での損耗に加え、米英軍の戦略爆撃が激化する中で、ドイツ空軍の戦力は大幅に低下しました。ゲーリングの指揮能力への不信が高まり、空軍内部は混乱に陥ります。ヒトラーとの関係も悪化の一途をたどり、1945年4月、ゲーリングは空軍総司令官を解任されました。かつての英雄としての威光も失せ、ナチス・ドイツの崩壊とともに、ゲーリングの権力者としての生涯も末路を迎えようとしていたのです。
ニュルンベルク裁判とゲーリングの最期
ニュルンベルク裁判でのゲーリングの態度 – 自己正当化と反省のなさ
第二次世界大戦の終結から数ヶ月後の1945年11月、ドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク国際軍事裁判が開廷しました。被告人として法廷に立ったナチス党の重要人物の中で、ゲーリングは際立った存在感を示しました。獄中でも体重を増やし、万全の体調で裁判に臨んだのです。
法廷では、他の被告人が消極的な態度を取る中、ゲーリングは終始堂々とした面持ちで、ナチス・ドイツの行動を正当化する発言を繰り返しました。検察側の厳しい追及に対しても、巧みな弁舌で切り返し、時には法廷の失笑を買うこともありました。ゲーリングにとって、裁判は自分の信念を主張する場であり、死をも恐れぬ毅然とした姿を演出する舞台だったのかもしれません。
死刑宣告と服毒自殺 – ゲーリングの最期
1946年10月1日、ニュルンベルク裁判の判決が言い渡され、ゲーリングには絞首刑が宣告されました。死刑判決を聞いても、ゲーリングは微動だにせず、最後まで反省の色を見せることはありませんでした。獄中でもヒトラーへの忠誠を誇示し続け、ナチズムの理念を信奉する姿勢を崩さなかったのです。
そして、死刑執行前日の10月15日深夜、ゲーリングは隠し持っていた青酸カリを服毒し、自ら命を絶ちました。連合国側の厳重な監視をくぐり抜け、最期の瞬間まで相手を出し抜いた行動力は、ゲーリングの特異な性格を物語っています。
ナチス・ドイツの002号として、ヒトラーに次ぐ権力を握り、第三帝国に君臨したゲーリングでしたが、敗戦国の戦犯として屈辱的な最期を遂げることとなりました。しかし、法廷で見せた不屈の態度と、死をもって裁く側への抵抗を貫いたその生き様は、ゲーリングというカリスマ性と大衆扇動力を持つ独裁者の本質を、如実に示していたのかもしれません。
試験で問われる重要ポイント
ゲーリングの経歴とナチス党での役割
- 第一次世界大戦で活躍した戦闘機パイロット – ナチス党黎明期からのヒトラーの側近で、党勢拡大に尽力
- ナチス政権下で、党内ナンバー2の地位を確立 – 政治、軍事、経済など広範な分野で絶大な権力を掌握 ナチス・ドイツ空軍との関係
- ドイツ空軍創設の立役者となり、空軍総司令官に就任 – 第二次世界大戦初期、電撃戦を支えた空軍の強化・発展を主導
- バトル・オブ・ブリテンでの戦略的判断ミスにより、英空軍に敗北
- 大戦末期、空軍の衰退と混乱に責任を負う ニュルンベルク裁判での態度と最期 – 戦争犯罪人として連合国軍事裁判で裁かれる – 法廷で毅然とした態度を崩さず、ナチス・ドイツの行為を正当化 – 死刑宣告後、服毒自殺し、裁く側への最後の抵抗を示す
確認テスト
問題1: ゲーリングがナチス党に加入したのはいつ?
A. 1920年 B. 1922年 C. 1925年 D. 1928年
解答:B. 1922年
問題2: ゲーリングが指揮したナチス・ドイツ空軍の名称は?
A. ヴェアマハト B. クリークスマリーネ C. ルフトヴァッフェ D. シュトゥルムアプタイルンク
解答:C. ルフトヴァッフェ
問題3: ニュルンベルク裁判でのゲーリングの最終的な運命は?
A. 終身刑 B. 獄中で病死 C. 刑場で絞首刑 D. 服毒自殺
解答:D. 服毒自殺