【アン女王】スペイン継承戦争の重要人物をわかりやすく解説

アン女王

必ず押さえるべき重要ポイント!

アン女王(1665~1714)は、イングランド王国スコットランド王国女王
1707年イングランドスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、初代グレートブリテン女王となる。

スペイン継承戦争では、ルイ14世率いるフランスと戦い、ユトレヒト条約によってジブラルタルなどの重要な領土を獲得。また、対外的には奴隷貿易に関わり、イギリスの経済的繁栄の基礎を築いた。国教会を支持し、カトリック教徒を迫害

アン女王の治世は政情が安定し、イギリスが議会制民主主義を確立していく上で重要な時代。

アン女王とは? – スチュアート朝最後の君主

アン女王のプロフィール画像
重要ポイント!
  • アン女王は、1665年に生まれ、1702年から1714年までイングランド・スコットランド・アイルランドの女王を務めた。
  • スペイン継承戦争に勝利し、イギリス連合法を制定するなど、イギリスの発展に尽力した君主であった。

アン女王の生涯 – 1665年の誕生から1714年の死去まで

アン女王は、1665年2月6日にイングランド王ジェームズ2世アン・ハイドの次女として生まれました。父王が、カトリック教徒であったために1688年名誉革命で退位に追い込まれると、アンは新しい王ウィリアム3世メアリー2世(アンの姉)に忠誠を誓いました。

1702年ウィリアム3世が後継者を残さずに死去すると、アンが女王に即位しました。アンは、対外的にはスペイン継承戦争に臨み、国内ではイングランドスコットランドの合邦を実現させるなど、イギリスの発展に尽力しました。しかし、17回の妊娠にもかかわらず後継者を残せず、49歳でこの世を去りました。アンの死去により、スチュアート朝は断絶し、ハノーヴァー朝が始まることとなりました。

スペイン継承戦争とユトレヒト条約における役割

アン女王の治世において、最も重要な出来事の1つがスペイン継承戦争1701年1714年です。この戦争は、スペイン王カルロス2世が後継者を指名せずに死去したことから勃発しました。フランス王ルイ14世の孫フィリップ5世オーストリア大公カール(のちのカール6世)が王位継承を巡って対立したのです。

イギリスは当初、オーストリア側につきましたが、1711年にアン女王の主要な側近であったマールバラ公爵夫人が失脚すると、戦争継続に否定的なトーリ党が台頭しました。アン女王は和平交渉を主導し、1713年ユトレヒト条約によって、フィリップ5世スペイン王位を認める代わりに、フランスとスペインの同君連合を禁じ、イギリスに大きな利益をもたらしました。アン女王の外交手腕が、イギリスの国際的地位向上に大きく貢献したのです。

名誉革命とアン女王即位の経緯

重要ポイント!
  • 名誉革命は、専制君主化したジェームズ2世に対する1688年の無血革命で、議会主権と新教の地位を確立した。
  • アンは、名誉革命後、姉のメアリー2世と義兄のウィリアム3世の共同統治を支え、1702年に女王に即位した。

名誉革命が起こった背景と経過

名誉革命は、1688年イングランドで起こった無血革命です。アン女王の父であるジェームズ2世は、イングランド国教会の教義に反するカトリックの信仰を持ち、また専制君主としての傾向を強めていました。議会や国民の不満が高まる中、ジェームズ2世の娘婿であるオランダ総督ウィリアム3世が上陸し、ジェームズ2世が国外逃亡する事態となりました。

議会は、ジェームズ2世を廃位とし、1689年権利章典によって議会主権を確立すると同時に、ウィリアム3世メアリー2世を共同統治者として迎えましたこの一連の出来事を名誉革命」と呼び、議会制民主主義の礎を築いたと評価されています。アン女王も、名誉革命を支持し、新体制に協力的な姿勢を示しました。

メアリー2世との共同統治からアン女王の単独統治へ

名誉革命後、アン女王はメアリー2世ウィリアム3世の共同統治を支えました。しかし、1694年にメアリー2世が天然痘で早世すると、ウィリアム3世が単独統治者となりました。アンは、ウィリアム3世の信任を得て、王位継承順位第1位となりました。

1702年、ウィリアム3世が事故で亡くなると、アンが37歳で女王に即位しました。即位後、アンは国内の安定と統一を図るために、ホイッグ党トーリ党の勢力均衡を保つ努力を続けました。また、スペイン継承戦争に臨むなど、イギリスの国際的プレゼンスの向上にも尽力しました。アンの治世は、イギリスが名実ともに近代国家へと発展する過渡期だったのです。

アン女王治世下の内政と外交

重要ポイント!
  • アン女王は、1707年のイギリス連合法により、イングランドとスコットランドを合邦してグレートブリテン王国を樹立した。
  • 対外的には、スペイン継承戦争に勝利し、ユトレヒト条約でフランスの覇権主義を阻止するとともに、イギリスの海外領土を拡大した。

イギリス連合法の制定と影響

アン女王の治世における最大の内政上の成果は、1707年イギリス連合法(合同法)の制定でした。これにより、イングランドスコットランドが合邦し、グレートブリテン王国が誕生しました。両国の議会は解散され、新たにグレートブリテン議会が設置されました。

連合法の主な狙いは、スコットランドのジャコバイトスチュアート朝復興を目指す勢力)の脅威を排除し、プロテスタント王朝の安定を図ることでした。また、イングランドとスコットランドの経済的統合によって、貿易の活性化や関税の撤廃など、経済的利益も期待されました。連合法は、現在に至るまでのイギリスの枠組みを決定づけた、歴史的な法律だったのです。

二大政党制の萌芽 – ホイッグ党とトーリ党の台頭

アン女王の時代は、イギリスにおける二大政党制の原型が生まれた時期でもありました。ホイッグ党は、議会の権限拡大や宗教的寛容を主張し、トーリ党は国教会の擁護と王権の強化を唱えました。両党は、アン女王の意向を巡って主導権争いを繰り広げました。

初期には、ホイッグ党の領袖であったマールバラ公爵夫人の影響力が強く、トーリ党は劣勢でした。しかし、1710年代に入ると、マールバラ公爵夫人の失脚や、スペイン継承戦争に対する国民の厭戦気分の高まりを背景に、トーリ党が勢力を拡大。アン女王晩年の政局は、トーリ党優位となりました。ホイッグ党とトーリ党の拮抗は、その後のイギリス政治の特徴となっていきます。

対フランス外交とスペイン継承戦争

アン女王の外交政策は、何よりもフランスの脅威に対抗することを目的としていました。ルイ14世治下のフランスは、スペイン王位継承問題をきっかけに、ヨーロッパの覇権を狙っていたのです。アン女王は、神聖ローマ帝国オランダなどと大同盟を結成し、フランスに宣戦布告しました。

1704年ブレンハイムの戦いで、マールバラ公爵率いるイギリス軍が大勝利を収めるなど、戦局はしだいに連合国側に有利に展開しました。しかし、長期化する戦争に国民の不満が高まり、1711年にマールバラ公爵夫人が更迭されると、アン女王はフランスとの和平交渉に転じました。1713年ユトレヒト条約で、フィリップ5世スペイン王位が認められる一方、フランスとスペインの同君連合は禁止され、イギリスはジブラルタルなどの重要な領土を獲得しました。

アン女王の死去とハノーヴァー朝への移行

重要ポイント!
  • アン女王には後継者がなく、1701年の王位継承法により、ハノーヴァー家のゲオルク・ルートヴィヒが後継者に指名されていた。
  • 1714年のアン女王死去により、ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として即位し、イギリスはハノーヴァー朝へと移行した。

後継者問題と王位継承法

アン女王には、17回の妊娠にもかかわらず、成人した子どもがいませんでした。そのため、アン女王の後継者問題は、常に政治の焦点となっていました。1701年に制定された王位継承法は、アン女王の死後、プロテスタントであるハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(のちのジョージ1世)を後継者に指名していました。

ジャコバイト派は、亡命中のジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ3世)の王位継承権を主張していましたが、アン女王はこれを認めませんでした。アン女王は、ハノーヴァー家から将来の女王候補を呼び寄せることも検討しましたが、実現には至りませんでした。

ハノーヴァー朝ジョージ1世への王位継承

1714年8月1日、アン女王が49歳でこの世を去ると、王位継承法に基づき、ハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王ジョージ1世として即位しました。ジョージ1世は、ドイツの選帝侯としての職務もあったため、頻繁に不在となり、名目的な立憲君主としての性格が強くなりました。

ジョージ1世の即位により、グレートブリテンはハノーヴァー朝の時代に入りました。ハノーヴァー朝の君主は、議会の権限を尊重し、政党政治の発展を促進する役割を果たしました。アン女王の治世は、名誉革命とグレートブリテン王国の成立、二大政党制の萌芽など、イギリスが近代国家へと移行する過渡期だったのです。

試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント!
  • アン女王の治世における重要事項として、スペイン継承戦争やユトレヒト条約、イギリス連合法の内容と意義を理解することが求められる。
  • アン女王の前後の国際情勢や、ホイッグ党とトーリ党の台頭など、イギリスの政治・社会の変化についても押さえておく必要がある。

アン女王の治世における主要出来事と業績の整理

  • 1702年アン女王即位
  • 1704年:ブレンハイムの戦いマールバラ公爵率いるイギリス軍が勝利
  • 1707年イギリス連合法成立、グレートブリテン王国誕生
  • 1710年代:ホイッグ党からトーリ党への政権交代
  • 1713年ユトレヒト条約締結、スペイン継承戦争終結
  • 1714年:アン女王死去、ハノーヴァー朝開始

アン女王前後の国際情勢 – スペイン継承戦争とユトレヒト条約


スペイン継承戦争1701-1714は、スペイン王位継承を巡るハプスブルク家ブルボン家の対立から勃発した大規模な国際紛争でした。イギリスは神聖ローマ帝国側に立ち、フランス・スペイン連合と戦いました。戦争は連合国側の優位で進み、1713年ユトレヒト条約で終結しました。条約では、フィリップ5世スペイン王位は認められましたが、フランスとスペインの同君連合は禁止され、イギリスはジブラルタルや北米の広大な領土を獲得するなど、大きな利益を得ました。

イギリス連合法の内容と意義の理解

1707年に制定されたイギリス連合法(合同法)は、イングランドスコットランドを合邦し、グレートブリテン王国を誕生させました。連合法の主な内容は以下の通りです。

  • イングランドとスコットランドの議会を解散し、グレートブリテン議会を設置
  • スコットランド教会の地位を保障し、イングランド国教会との共存を図る
  • 両国の法律や司法制度は基本的に維持するが、関税や通商規制は撤廃

連合法は、スコットランドのジャコバイトの脅威を排除し、プロテスタント王朝の安定を図ると同時に、経済的な統合によって両国の発展を促すことを目的としていました。現在のイギリスの基礎を作った重要な法律だと言えます。

確認テスト

アン女王に関する客観式問題と解説

問1:アン女王が即位したのは何年でしょうか?
a) 1702年
b) 1707年
c) 1713年
d) 1714年

答え:a) 1702年
解説:アン女王は、1702年にウィリアム3世の死去を受けて即位しました。

問2:アン女王の治世中に勃発した大規模な国際戦争は何でしょうか?
a) 薔薇戦争
b) 英西戦争
c) スペイン継承戦争
d) オーストリア継承戦争

答え:c) スペイン継承戦争
解説:スペイン継承戦争は、アン女王の治世における最大の外交課題でした。イギリスは神聖ローマ帝国側に立ち、フランス・スペイン連合と戦いました。


問3:イギリス連合法(1707年)によって誕生した国家の名称は何でしょうか?
a) イングランド王国
b) スコットランド王国
c) グレートブリテン王国
d) 連合王国

答え:c) グレートブリテン王国
解説:イギリス連合法により、イングランドとスコットランドが合邦し、グレートブリテン王国が誕生しました。