【徹底解説】アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール – ポルトガルを長期独裁で支配した政治家

サラザール

アントニオ・デ・オリベイラ・サラザールは、ポルトガルの政治家であり、1932年から1968年まで長期に渡って首相を務めた。第一次世界大戦後の混乱期に、軍部の支持を得て権力を掌握。カトリック教会との協調を図りながら、独裁的な統治を行った。第二次世界大戦では中立を守り、戦後はNATO加盟によって欧米諸国との関係を強化した一方、アフリカの植民地の独立を認めず、植民地戦争を継続した。1968年に発症した脳卒中により政界を引退し、1970年に死去した。

1. サラザールの生い立ちと教育

サラザールのプロフィール画像

1.1 貧しい家庭に生まれ、優秀な学生として成長

アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールは、1889年4月28日にポルトガル中部のサンタ・コンバ・ダン州ヴィミエイロに生まれました。両親はともに農民で、厳格なカトリック信者でした。家庭は貧しく、幼少期のサラザールは質素な生活を送りました。

しかし、サラザールは幼い頃から非常に優秀な学生で、地元の小学校と中学校で常に最優秀の成績を収めました。11歳でカトリック系の神学校に入学し、神学を学び始めます。

1.2 法律と経済学を学び、大学教授に

1910年、サラザールはコインブラ大学法学部に入学し、法律と経済学を学びます。在学中も優秀な成績を維持し、卒業後は同大学の経済学部で教鞭を執るようになりました。

大学教授時代のサラザールは、経済学と財政学の分野で頭角を現しました。ポルトガル経済の立て直しを訴える論文を発表し、徐々に国内で知られる存在となっていきます。サラザールは学者として高い評価を得ながら、政治への関心も高めていったのです。

重要ポイント!
  • 貧農の家に生まれ、厳格なカトリック教育を受けた優等生
  • コインブラ大学で法律・経済学を学び、経済学者として頭角を現す

2. 政界入りと権力の掌握

青年期のサラザール

2.1 クーデターによる政権奪取と大蔵大臣就任

1926年5月、保守派将校によるクーデターが発生し、ポルトガルに軍事政権が樹立されます。当初、クーデターにはほとんど関与していなかったサラザールでしたが、軍部は経済政策の専門家として彼に白羽の矢を立てました。

1928年、サラザールは大蔵大臣に就任します。就任直後から、サラザールは緊縮財政と税制改革に着手し、わずか1年で財政の均衡を達成。この手腕が高く評価され、サラザールの政府内での影響力が急速に高まっていきました。

2.2 首相に就任し、独裁体制を確立

1932年、サラザールは首相に就任します。首相の座に就いたサラザールは、翌1933年に新憲法を制定し、事実上の独裁体制を確立しました。

議会の形骸化、検閲の強化、秘密警察の設置など、サラザールは反対勢力を徹底的に弾圧。「エスタド・ノヴォ(新国家)」と呼ばれる独裁体制の下、サラザールはカトリック教会の支持を得ながら、長期政権の基盤を固めていったのです。首相就任から約40年間、サラザールの独裁は続くことになります。

重要ポイント!
  • 1926年のクーデター後、経済政策の手腕を買われ大蔵大臣に就任
  • 1932年に首相に就任し、翌年の新憲法制定で独裁体制を確立

3. エスタド・ノヴォ体制下のポルトガル

3.1 コーポラティズムに基づく社会・経済政策

サラザールの独裁体制を特徴づけたのが、コーポラティズム(協調組合主義)に基づく社会・経済政策でした。コーポラティズムとは、国家が職能団体を通じて社会を統制する仕組みです。

サラザールは、労働組合や経済団体を国家の管理下に置き、国家によって調整された社会秩序の維持を図りました。また、カトリック的価値観を重視し、家族主義的な社会政策を推進。女性の社会進出を抑制し、伝統的な家族観を称揚しました。

経済面では、農業や伝統的産業の保護育成に力を入れる一方、外資の導入には消極的でした。自給自足的な経済政策は、ポルトガル経済の停滞を招く一因ともなりました。

3.2 検閲と秘密警察による言論統制と弾圧

エスタド・ノヴォ体制の下では、表現の自由は大きく制限されました。政府は検閲を徹底し、反体制的とみなされた出版物を数多く発禁処分に。知識人の多くが亡命を余儀なくされました。

また、秘密警察PIEが設置され、反体制活動への監視と弾圧が強化されます。政治犯の拷問や政敵の暗殺も行われました。サラザール体制は、徹底した言論統制と恐怖政治によって、国民の自由を奪っていったのです。

3.3 カトリック教会との関係強化

独裁体制の正当化を図るため、サラザールはカトリック教会との関係強化を進めました。1940年には教会との間で政教条約を結び、カトリック的価値観の教育や宣教活動を推進。

また、ファティマの聖母マリア出現の奇跡を国策として利用し、反共産主義と結びつけることで、体制の正統性アピールに利用しました。サラザールにとって、カトリック教会は独裁体制を支える重要な柱だったのです。

重要ポイント!
  • コーポラティズムに基づく社会・経済政策と、カトリック的価値観の称揚
  • 検閲と秘密警察による徹底した言論統制と政敵の弾圧

4. サラザールの外交政策

4.1 第二次世界大戦での中立維持

第二次世界大戦が勃発すると、サラザールはポルトガルの中立を宣言します。枢軸国とも連合国とも一定の距離を置く一方、戦略物資の供給を通じて連合国側に協力。ポルトガルの領土が連合軍の作戦拠点となるのを許容しました。

慎重な中立外交によって、ポルトガルは戦火を免れ、戦後の外交でも一定の存在感を示すことができました。この時期のサラザールの手腕は高く評価されています。

4.2 植民地の維持と海外領土との関係

サラザールは、アフリカや東南アジアの植民地の維持にも腐心しました。1950年代以降、アフリカ諸国の独立機運が高まる中、サラザールは「海外領土」という呼称を用いて植民地の存在を正当化。現地の民族運動を徹底的に弾圧しました。

また、ブラジルなど旧植民地との関係強化も図りました。ポルトガル語圏諸国との連帯を唱え、ルソ・ブラジル共同体構想を打ち出します。植民地の保持は、サラザール外交の生命線だったのです。

重要ポイント!
  • 第二次世界大戦での巧みな中立外交と、戦略物資供給での連合国への協力
  • アフリカ植民地の維持に腐心し、現地の民族運動を弾圧

5. サラザール政権の終焉

晩年のサラザール

5.1 アフリカ植民地での独立戦争と国際的孤立

1960年代に入ると、アフリカの「海外領土」でゲリラ組織が台頭し、武力闘争を開始。ポルトガル軍は泥沼の独立戦争に巻き込まれていきます。戦費の増大は国家財政を圧迫し、国民の戦争への反発も強まりました。

また、アフリカでの植民地支配に固執するサラザールに対し、国際社会からの非難も高まっていきます。ポルトガルの孤立は決定的となり、サラザール体制は内憂外患に見舞われることになったのです。

5.2 サラザールの死去とカーネーション革命

1968年、サラザールは脳卒中で倒れ、事実上の政治生命を終えます。後継者のカエターノが政権を引き継ぎましたが、アフリカでの戦争泥沼と国内の経済悪化に歯止めをかけることはできませんでした。

1970年、サラザールは死去。そして1974年4月、親独立派の青年将校によるクーデター「カーネーション革命」が発生します。クーデター後、ポルトガルは民主化への道を歩み始め、アフリカ植民地にも独立が認められました。約40年続いたサラザールの独裁体制は、ここに幕を閉じたのです。

重要ポイント!
  • アフリカでの独立戦争の泥沼化と、国際社会からの孤立
  • 1968年のサラザール失脚と、1974年カーネーション革命による独裁体制の崩壊

6. サラザールの評価と遺産

6.1 長期独裁政権の功罪

サラザールの長期独裁については、評価が大きく分かれています。支持者は、経済的混乱期にあったポルトガルに安定をもたらし、カトリック的価値観に基づく秩序ある社会を実現したと評価します。

一方、批判者は、言論の自由を弾圧し、政治犯への拷問や暗殺も辞さなかった残虐性を指摘。また、植民地支配への固執が、ポルトガルに多大な犠牲を強いたと批判します。

いずれにせよ、サラザールの40年に及ぶ統治は、良くも悪くもポルトガル現代史に大きな影響を与えた。それは、ポルトガルにとって避けて通れない歴史の一部なのです。

6.2 現代ポルトガルへの影響

サラザール体制の崩壊は、ポルトガル社会に大きな変革をもたらしました。民主化とともに表現の自由が保障され、政治犯は釈放されます。女性の地位向上や教育の機会均等も進みました。

また、アフリカ植民地の独立は、ポルトガルに多くの引揚者をもたらしました。彼らの社会統合は、現在のポルトガルが抱える課題の一つとなっています。

経済面でも、サラザール時代の自給自足路線から欧州連合への統合路線へと大きく舵を切りました。現在のポルトガル経済は、EUの一員としての歩みの中にあるのです。

サラザールの独裁がもたらした光と影。それは現在のポルトガルを理解する上でも、避けては通れないテーマであり続けているのです。

7. 試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント!
  • 政情不安から秩序をもたらした一方、残虐な弾圧も行った独裁者としての両面性
  • 民主化とアフリカ植民地の独立、欧州統合への転換など、現代ポルトガルへの影響
  • サラザールの出自と学歴
  • 1926年のクーデターとサラザールの大蔵大臣就任
  • エスタド・ノヴォ体制の特徴(コーポラティズム、検閲、秘密警察など)
  • 第二次世界大戦でのポルトガルの中立外交
  • アフリカ植民地での独立戦争とポルトガルの国際的孤立
  • サラザールの死去とカーネーション革命
  • サラザール独裁の功罪と現代ポルトガルへの影響

8. 確認テスト

問1:サラザールが首相に就任し、独裁体制を確立したのは何年?
a. 1926年
b. 1932年
c. 1940年
d. 1968年

解答:b

問2:サラザール独裁を支えた社会・経済政策の特徴は?
a. 自由主義経済
b. 社会主義計画経済
c. コーポラティズム(協調組合主義)
d. 共産主義

解答:c

問3:サラザール政権を打倒し、ポルトガルの民主化をもたらした1974年の革命は何と呼ばれる?
a. アザレアの革命
b. カーネーション革命
c. ジャスミン革命
d. バラ革命

解答:b

問4:サラザールが独立を認めようとしなかったアフリカの植民地として正しくないのは?
a. アンゴラ
b. モザンビーク
c. ギニアビサウ
d. タンザニア

解答:d

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