ベトナム戦争のきっかけを5分で理解|戦争勃発の理由と背景を解説

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ベトナム戦争のきっかけ

ベトナム戦争のきっかけは、1954年のジュネーブ協定によって北緯17度線を境にベトナムが南北に分断されたこと。

その後、アメリカは南ベトナムを支援し、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の勢力を抑えようとした。1964年8月、トンキン湾事件が発生し、北ベトナム軍がアメリカ軍艦に攻撃を仕掛けたとされる。これを機に、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決し、北ベトナムへの軍事行動を承認した。

1965年3月、アメリカ軍の北爆が開始され、同年7月からは地上軍の派遣も始まった。こうしてアメリカの本格的な軍事介入が始まり、ベトナム戦争が勃発したのである。

ベトナム戦争勃発の直接のきっかけ「トンキン湾事件」

1964年8月、トンキン湾で米駆逐艦が北ベトナム魚雷艇から攻撃を受けたと報告され、ジョンソン大統領は北ベトナムへの報復爆撃を命じた。議会はトンキン湾決議を可決し、大統領に戦争遂行の大幅な権限を付与したことで、トンキン湾事件は戦争勃発への転機となった。

しかし、2度目の攻撃については不明瞭な点が多く、北ベトナム攻撃の大義名分として事件が利用された可能性がある。

トンキン湾事件の概要

1964年8月2日、南シナ海のトンキン湾で米駆逐艦マドックスが北ベトナム海軍の魚雷艇から攻撃を受けました。米国はただちに北ベトナム艇を攻撃し撃退したと発表。さらに8月4日未明、マドックスと駆逐艦ターナー・ジョイが再び北ベトナム艇から魚雷攻撃を受けたと米国防総省が公表しました。
しかし、この2度目の攻撃について米艦船内からは「攻撃の証拠はない」との報告があり、状況は不明瞭でした。にもかかわらず、ジョンソン大統領は北ベトナムへの報復爆撃を即座に命じ、事態は大きなエスカレーションを見せることになります。

北ベトナム攻撃の口実に

北ベトナムは、1度目の事件について米艦船が北ベトナム領海に侵入したため警告を行ったと主張。2度目の攻撃に至っては全面的に否定しました。一方、アメリカは北ベトナムによる「明白な侵略行為」と断定。トンキン湾事件を北ベトナム攻撃の格好の口実として利用し始めます。
対北ベトナム強硬派だったジョンソン大統領にとって、トンキン湾事件は格好の軍事介入のきっかけとなりました。事件を受け、上下両院合同会議で北ベトナムに対する断固たる姿勢を示すジョンソン大統領。アメリカの世論もこれを支持し、一気に強硬路線へと傾斜していきます。

トンキン湾決議の可決

事件からわずか3日後の8月7日、アメリカ議会はトンキン湾決議を圧倒的多数で可決しました。トンキン湾決議は、「東南アジアにおけるアメリカ軍の戦闘行動に関し、大統領に一任する」というもの。大統領に戦争遂行の大幅な裁量を与える内容でした。
上院では全会一致、下院でもわずか2人の反対を除き416人が賛成するなど、ほぼ満場一致での可決となりました。これにより北ベトナムへの本格的な軍事行動が大統領の判断で可能となり、戦争勃発へと大きく舵を切る転機となりました。

実際には攻撃はなかった?トンキン湾事件の真相に迫る

戦後、機密指定を解除された多くの政府文書から、2度目の攻撃の事実はなかったのではないかとの見方が強まりました。2度目の攻撃を示す決定的な証拠はなく、むしろ多くの疑問点が浮上したのです。
北ベトナム側の公文書でも、2度目の攻撃は米国の捏造だったとする記述が見られました。アメリカ政府がベトナム戦争拡大の大義名分を得るために、トンキン湾事件を利用した可能性は十分にあったと考えられています。
事件の真相は闇に包まれたままですが、トンキン湾事件がベトナム戦争勃発の引き金となったことは紛れもない事実です。不明瞭な状況証拠をもとに、拙速な軍事行動に踏み切った教訓は、現代にも通じるものがあるのではないでしょうか。

ベトナム戦争の歴史的背景〜なぜ米国は軍事介入したのか

第二次世界大戦後、ベトナムはフランスからの独立闘争を経て南北に分断されたが、統一選挙をめぐる対立が深まった。東西冷戦下、アメリカはベトナムの共産化がアジア全体に波及することを警戒し、南ベトナム情勢の悪化を受けて軍事介入を開始した。

インドシナ戦争から続くベトナムの混乱

ベトナム戦争の遠因は、1940年代からのベトナム独立闘争に遡ります。当時のベトナムは、フランスの植民地支配下にあるインドシナの一部でした。第二次世界大戦後、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が武装闘争を開始。1945年9月、ハノイで独立を宣言し、ベトナム民主共和国が樹立されました。
しかしフランスはこれを認めず、1946年からベトミンとの全面戦争(第一次インドシナ戦争)に突入します。戦線の拡大と泥沼化が続く中、1954年5月、ベトミン軍がフランス軍を大敗させるディエンビエンフーの戦いが勃発。この屈辱的敗北により、フランスのインドシナ支配が事実上終焉を迎えました。

南北に分断されたベトナム

インドシナ戦争後、ベトナムの地位を定めるためジュネーブ会議が開催されました。1954年7月、停戦協定とインドシナ問題の政治的解決に関する最終宣言(ジュネーブ協定)が調印。北緯17度線を境にベトナムが南北に分断され、南はベトナム共和国、北はベトナム民主共和国となりました。
ジュネーブ協定では、「2年以内に南北統一のための総選挙を実施する」ことが定められていました。しかし、アメリカの支援を受けた南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権が選挙を拒否。統一への道筋は閉ざされ、南北の対立が深まっていきます。

共産主義の脅威

当時のアメリカにとって、ベトナム情勢は冷戦戦略の文脈で捉えられていました。東西冷戦の最前線に位置するベトナムで共産勢力が台頭することは、アジア全体の共産化につながりかねないと懸念されたのです。
この「ドミノ理論」に立脚し、アメリカは北ベトナムを支援する中国・ソ連の動向を警戒しました。特に中ソ対立が表面化する中で、中国の影響力拡大は脅威と見なされます。アメリカはベトナムを「自由主義陣営」に引き留めおくことが、アジアの安全保障に不可欠と考えたのです。

南ベトナムの不安定化

一方、アメリカの後ろ盾を得た南ベトナムのジェム政権は、独裁色を強めて国民の反発を買っていました。仏教徒など政権に反対する勢力への弾圧を強め、政情は次第に不安定化。その間隙を突くように、共産ゲリラ勢力のベトコンが勢力を拡大しました。
1963年11月、ジェム大統領が部下によるクーデターで殺害され、南ベトナム情勢は一気に混迷に陥ります。政権基盤の弱体化が進む中、北ベトナムの支援を受けたベトコンの攻勢が激化。アメリカは南ベトナムの陥落の危機感を強め、事態打開に向け軍事介入を開始していくことになります。

戦争勃発後の展開

アメリカはトンキン湾決議後、北ベトナムへの爆撃と地上部隊の派遣を開始し、戦況の泥沼化とともに派兵規模を拡大させた。和平交渉は難航し、国内の反戦運動が激化する中、1973年のパリ和平協定調印によりアメリカ軍は南ベトナムから撤退したが、わずか2年後の1975年4月、南ベトナムは北ベトナムに降伏し統一された。

北爆とアメリカ地上軍の大規模投入

トンキン湾決議によって、ジョンソン大統領は戦争遂行の大幅な権限を得ました。アメリカはただちに北ベトナムへの大規模爆撃(北爆)を開始。これと並行して地上部隊の派遣規模を次第に拡大させていきます。いわゆる段階的な「エスカレーション」の始まりです。
1965年3月、南ベトナムのダナンに海兵隊を上陸させ本格的な地上戦が勃発。1964年8月時点で南ベトナムに駐留していた軍事顧問は約2万3000人でしたが、戦争末期の1968年には50万人以上に膨れ上がりました。泥沼化する戦況の中、派兵規模はどんどんと拡大していきます。

和平交渉へ

泥沼の戦況に業を煮やしたジョンソン大統領は、1968年3月31日のテレビ演説で、北爆の部分的停止と和平交渉の用意があることを表明。南ベトナムのグエン・ヴァン・チュー大統領も4月3日、無条件で和平交渉に応じる用意があると発表しました。
しかし、パリでの和平交渉は難航を極めました。アメリカが南ベトナムからの完全撤退を主張する一方、北ベトナムはアメリカ軍の即時無条件全面撤退を求め平行線をたどります。国内では反戦運動が激化し、世論の戦争に対する失望と倦怠感は決定的となっていきました。

パリ協定締結とアメリカ軍の撤退

長期化する和平交渉に業を煮やしたニクソン大統領は、1972年5月、北ベトナムへの爆撃を再開。ハノイとハイフォンへの大規模な爆撃を断行し、北ベトナムに和平交渉を迫りました。その結果、1973年1月27日、パリ和平協定が調印されます。
パリ協定では、アメリカ軍の南ベトナムからの撤退と、南北ベトナム政府間の政治的解決が定められました。アメリカ軍は協定調印から60日以内に南ベトナムから完全撤退。この間に最後の米兵も本国へ帰還し、アメリカのベトナム戦争は事実上の終結を迎えました。
しかし、南ベトナム政府軍の戦意は完全に喪失しており、米軍撤退後わずか2年で南ベトナムは陥落。1975年4月30日、北ベトナム軍によりサイゴンが制圧され、南北ベトナムの統一が宣言されました。ここに、アメリカの大義もむなしく30年以上に及ぶベトナムの悲劇は幕を下ろしたのです。
ベトナム戦争は、アメリカが「共産主義の脅威」にとらわれ泥沼の泥仕合に突入した悲劇でした。不明瞭な証拠に基づく軍事介入の危うさ、世論を無視した戦争遂行の愚かしさなど、私たちに多くの教訓を残した戦争と言えるでしょう。二度とこのような悲劇を繰り返さぬよう、ベトナム戦争の記憶を風化させてはならないのです。