毛沢東の公式な死因はパーキンソン病。しかしその真相は?
中国政府が発表した死因の概要と経緯
1976年9月9日、中国の最高指導者である毛沢東主席が82歳で死去しました。
中国政府が公式に発表した死因は、長年にわたって毛沢東を苦しめていたパーキンソン病でした。
公式発表について
「毛主席が逝去」『人民日報』1976年9月9日第1面。
「毛沢東主席の医療記録」『人民日報』1976年9月10日第3面。
毛沢東の健康状態については、文化大革命後期から憶測が飛び交っていました。1974年の段階で、外国の情報機関は毛沢東の重病説を報じています。しかし中国政府は毛沢東の健康問題を徹底して秘匿し、公の場に現れる機会も厳しく制限したのです。
そのため毛沢東の死去が公表された際、多くの中国国民は驚きを隠せませんでした。毛主席という超人的な存在もまた、病に侵され死すべき定めにあることを突きつけられたのです。
パーキンソン病説に対する疑問の声。毛沢東の健康状態の秘密
しかし発表された死因をめぐっては当初から疑問の声があがっていました。
毛沢東の主治医の李志綏は、回顧録の中で、毛沢東が死亡する直前に、「彼の口から大量の血が噴き出した」と証言しています。これは、肺炎や心筋梗塞とは異なる症状であり、毛沢東の死因に関する疑問を呼び起こしました。
李志綏の証言について
李志綏『毛沢東私人医生回憶録』(中央文献出版社、1994年)、434頁。
また毛沢東の健康状態については、政治的に都合の悪い情報が隠蔽された可能性が高いとされます。文革派と実務派の権力闘争が最終局面を迎えるなか、毛沢東の体調悪化は両派にとって致命的な打撃になりかねなかったからです。
公表された死因の背後には、さまざまな憶測を呼ぶ火種がくすぶっていました。病魔に冒された毛沢東の晩年と、権力の座をめぐる熾烈な後継者争いの関係を考えていくと新たな疑問が立ち現れます。
毛沢東の健康悪化の真の原因
晩年の毛沢東に確認された症状。ALS説なども浮上
毛沢東の体調不良が表面化したのは1970年代初頭のことです。71年のニクソン大統領訪中時には、すでに歩行障害などの症状が見られたといいます。
毛沢東の主治医だった李志綏医師は、晩年の毛沢東について次のような症状を挙げています。
- 四肢の筋力低下と萎縮
- 嚥下障害による誤嚥性肺炎の反復
- 構音障害による不明瞭な発語
- 感情失禁と涙もろさ
これらの症状から、パーキンソン病以外の可能性も指摘されてきました。なかでも有力視されているのが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)説です。ALSは運動ニューロンが選択的に侵される難病で、進行性の筋力低下と筋萎縮を主症状とします。
晩年の毛沢東がALSを発症していた可能性は以前から指摘されていましたが、李医師の証言はそれを裏付ける有力な根拠となりました。
鍼治療に活路を見出せず。病状悪化で権力も旦夕に
病魔に苦しむ毛沢東は、西洋医学への不信から主に漢方薬と鍼治療に活路を見出そうとしました。だがそれも功を奏さず、毛沢東の健康状態は悪化の一途をたどります。
権力の座から滑り落ちることを恐れた毛沢東は、一時的に政治の表舞台に復帰を果たします。だがそれも束の間、体調悪化によって再び政治の前線から離脱せざるを得なくなったのです。
こうして文革派と実務派の権力闘争は、毛沢東抜きで最終局面へと向かっていきました。党内の主導権争いは日増しに苛烈さを増し、かつての革命の同志が潰し合う泥沼の争いへと突入していったのです。
晩年の毛沢東の健康状態は、単なる医学的問題にとどまらず、中国の政治的命運を左右する重大事となっていました。毛沢東の死期が近づくにつれ、その死因をめぐる陰謀論すら現れ始めます。
死因の背景| 四人組と毛沢東の確執
江青ら過激派の台頭。毛沢東と四人組の蜜月と亀裂
毛沢東の死因を理解する上で看過できないのが、晩年の政治的権力闘争です。とりわけ重要なのが、四人組と呼ばれる過激派との関係でしょう。
四人組とは、江青、張春橋、王洪文、姚文元の4人を指します。かれらは文化大革命の中で頭角を現し、急進的な革命路線を推し進めました。当初、四人組は毛沢東の絶大な信任を得ており、毛沢東の妻であった江青は毛沢東の代弁者としての立場を確立していたのです。
しかし文革の行き過ぎに危機感を募らせた周恩来ら実務派と、四人組の対立は次第に先鋭化していきます。江青らは周恩来を批判し、実務派の粛清を画策。一方で周恩来も、四人組追い落としの機会をうかがっていました。
晩年の毛沢東は、この権力闘争に決着をつけられないまま、次第に四人組との距離を置き始めます。江青との亀裂は決定的なものとなり、晩年の毛沢東は「四人組は私を裏切った」と漏らしたといいます。
毛沢東の死で急転。四人組粛清の舞台裏
毛沢東の死後、華国鋒を実質的なトップとする実務派が一気に巻き返しを図ります。「四人組摘発」の名目で江青らが逮捕され、文革派は一掃されることとなったのです。
だが四人組の失脚には、不可解な点が残されています。逮捕された四人組のメンバーが一様に、毛沢東の死の直前に何者かに「毛主席が危篤だ」と告げられたと証言しているのです。真偽のほどは定かではありませんが、毛沢東の死をめぐる陰謀説を裏付ける根拠の一つとされているのです。
毛沢東の死因をめぐる謎は、四人組追放の政治的な意図と無関係ではないのかもしれません。毛沢東の「遺言」をめぐる攻防は、その死後の権力闘争の帰趨を左右する重大な意味を持っていたはずです。
だが真相の全貌は、いまだ歴史の闇の中に閉ざされています。死因の公表からほぼ半世紀を経た現在も、依然として多くの疑問が残されたままなのです。
歴史に消された毛沢東の最期。死の真相が揺さぶる「毛沢東神話」
毛沢東の死をめぐる陰謀論
毛沢東の死の経緯については、さまざまな疑惑が取り沙汰されてきました。中でも有力なのが毒殺説です。毛沢東の遺体からは一部の臓器が摘出されており、入念な検死も行われなかったといいます。果たしてこれらの疑惑は真実なのでしょうか。
また、毛沢東の最期の様子を知る者はほとんどいません。側近たちの証言によれば、容体の急変した毛沢東は、最後の言葉さえ発することができなかったとのこと。革命の指導者としてこの世を去ることが叶わなかった、毛沢東の無念の最期。歴史の皮肉なのか、あるいは周到に準備された茶番なのか。
かつて紅衛兵たちが盲信的に「万歳」を叫んだ毛沢東。しかしその死の瞬間から、毛沢東という人物の「神話化」が始まっていたのかもしれません。
死因をも覆い隠す「毛沢東神話」
死後、毛沢東の遺体は防腐処理が施され、天安門広場に設けられた記念堂に安置されました。共産党の永遠の指導者として、死してなお人民を導く存在となったのです。
だがその陰で、晩年の権力闘争に敗れ、孤独のうちに息絶えた毛沢東の真実が封印されることとなりました。パーキンソン病による死因も、毛沢東神話を守るための方便だったのかもしれません。
「毛沢東思想」を国是とする現代中国にとって、毛沢東の死の真相は触れてはならないタブーなのです。歴史の闇に光を当てることは、時に危険を伴う行為となります。
しかし真実に迫ろうとする歴史家の探究心は、為政者の禁忌をものともしません。死因の謎を解き明かすことは、神話の仮面に隠された毛沢東の「人間性」を浮き彫りにするでしょう。否定も美化もしない、公正な評価を下すために。毛沢東の死をめぐる歴史の闇に、新たな光が差し込む日は来るのでしょうか。