イラク戦争とは
戦争の概要
イラク戦争は、2003年3月20日にアメリカ・イギリスを中心とする多国籍軍がイラクに軍事侵攻したことで始まった戦争です。サダム・フセイン率いるイラク政権の打倒と大量破壊兵器の脅威除去が主な目的とされました。わずか1ヶ月余りでイラク軍は敗北し、フセイン政権が崩壊しましたが、その後のイラク国内は混乱に陥りました。
多国籍軍はイラクに暫定政権を樹立し占領を続けましたが、現地では反米武装勢力による激しい抵抗が続発。2011年12月に至ってようやく駐留米軍の撤退が完了しましたが、戦後のイラクは政情不安や治安悪化に苦しめられることになりました。
戦争勃発の経緯
2001年9月11日に起きた同時多発テロ以降、ブッシュ政権は「テロとの戦い」を前面に掲げ、テロ支援国家への先制攻撃も辞さない強硬姿勢を打ち出しました。この方針は「ブッシュ・ドクトリン」と呼ばれます。
フセイン政権の打倒を狙うアメリカは、イラクが大量破壊兵器の開発を進めテロリストを支援していると主張。国連安保理でイラクへの武力行使容認を求めましたが理解は得られず、イギリスなど賛同国とともに単独でイラク攻撃へ踏み切りました。アメリカは大義名分を示すため、フセインの人権弾圧も併せて非難しました。
イラク戦争に至った背景
湾岸戦争とフセイン政権
1990年8月、サダム・フセイン率いるイラクは隣国クウェートに侵攻し、これを併合しました。石油利権が背景にあったとされるこの侵略行為に対し、アメリカを中心とする多国籍軍が湾岸戦争を開始。1991年2月までの空爆と地上戦でイラク軍を圧倒的に破り、クウェートから撤退させました。
しかし、サダム・フセインの独裁体制は続き、国連の査察を妨害して大量破壊兵器疑惑をくすぶらせました。また、反体制派を弾圧するなど国内統治も強権的でした。アメリカはイラクに強い不信感を抱き続けましたが、すぐには動きませんでした。
9.11同時多発テロとブッシュ・ドクトリン
事態が動いたのは2001年9月11日、イスラム過激派組織アルカイダによる同時多発テロでした。世界貿易センタービルなどが攻撃され、3千人近い犠牲者を出す大惨事となりました。
ブッシュ大統領はテロとの戦いを最優先課題に掲げ、テロの脅威を除去するためには先制攻撃も辞さないとする新たな軍事ドクトリンを打ち出します。いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」です。この方針の下、2001年10月にはアフガニスタンへの軍事作戦を開始。次なる標的として名指しされたのがイラクでした。アメリカは大量破壊兵器疑惑を理由に、フセイン政権打倒へ突き進んでいきます。
イラク戦争への道のりと開戦
大量破壊兵器疑惑と国連決議
2002年、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器の開発を進めていると断定し、国連安全保障理事会に査察受け入れを迫る決議案を提出しました。フセイン政権はこれを受諾するも十分に履行せず、査察は難航。アメリカとイギリスは2003年2月、イラクに対する武力行使を容認する新決議案を提案しましたが、フランスやドイツ、ロシアの反対で採択には至りませんでした。
アメリカは証拠不十分として武力行使に反対する国々を「古いヨーロッパ」と批判。外交的な解決を模索するより、単独でのイラク攻撃へと傾斜していきました。一方、イラク国内では大量破壊兵器疑惑を全面的に否定し、国連査察に応じている姿勢をアピールしましたが、アメリカを納得させることはできませんでした。
アメリカの先制攻撃とイラク戦争勃発
2003年3月17日、ブッシュ大統領はフセイン大統領に対し、48時間以内の国外退去を要求する最後通告を突きつけました。これを拒否したフセイン政権に、アメリカとイギリスは同月20日未明、「イラクの自由作戦」と銘打って先制攻撃を開始。ミサイルや空爆でバグダッドの政府庁舎などを破壊し、地上軍も国境から侵攻しました。
開戦に踏み切ったアメリカを、イギリスやオーストラリア、ポーランド、日本など約40カ国が支持。一方、フランスやドイツ、ロシア、中国などは武力行使の正当性に疑問を呈し、インドやパキスタン、イランなどイスラム諸国も反発を強めました。国連の承認なき先制攻撃をめぐり、国際社会の亀裂が浮き彫りになった格好です。こうして始まったイラク戦争は、新たな火種を抱えながら泥沼化の様相を呈していくのでした。
イラク戦争の経過と戦後
有志連合軍のイラク攻撃と占領
圧倒的な軍事力を誇る有志連合軍の前に、フセイン政権は瓦解へと向かいました。2003年4月9日にはバグダッドが陥落し、フセイン大統領も行方をくらましました。同月末には主要な戦闘が終結し、ブッシュ大統領が勝利宣言を発表。5月1日、大規模戦闘の終結が宣言されました。
しかし、大量破壊兵器は発見されないまま、イラクに暫定占領当局が設置され、連合国軍による事実上の占領が始まりました。混乱に乗じた略奪や復讐も相次ぎ、治安は急速に悪化。スンニ派とシーア派の宗派対立が激化する一方、連合軍への反発から反米武装勢力が台頭し、泥沼の様相を呈していきました。
戦後復興の難航と国内混乱
戦後のイラクでは、選挙を経てマリキ政権が発足するも、政治の安定には至りませんでした。経済復興も遅々として進まず、失業率は高止まり。電力や水道などインフラの復旧も難航し、国民の不満は募るばかりでした。
その一方で、反米武装勢力による連合軍への攻撃は激化の一途をたどります。アルカイダ系の過激派組織も暗躍し、各地でテロが頻発。2004年4月には日本人の人質が殺害される事件も発生し、国際社会に衝撃が走りました。イラン国内では宗派間の抗争も絶えず、連合国は泥沼にはまり込む状況に陥りました。
2011年12月、アメリカ軍の撤退が完了しましたが、その後もイラクの混乱と分裂は収束せず、湾岸戦争以来の⻑い苦難の時代に終止符は打たれていません。イラク戦争がもたらした傷跡の深さと、平和構築の困難さが浮き彫りになった形です。
イラク戦争の影響と教訓
イラク情勢の不安定化とテロの脅威
イラク戦争後の国内では、欧米から「民主化」を期待されながらも政情不安が続きました。スンニ派とシーア派の対立が激化し、宗派間の抗争が絶えません。フセイン政権の要職を握っていたスンニ派勢力は、戦後の政治プロセスから疎外されたことで反発を強め、武装蜂起を繰り返しました。
こうした混乱に乗じ、「イラク・レバントのイスラム国(ISIL)」が台頭。過激思想に基づく残虐な支配を拡大し、欧米への敵対心を煽りました。結果、シリア内戦への介入も含め、中東地域の不安定化は新たな段階へと進んでいきました。テロの脅威は国際社会全体の大きな懸念となり、イラク戦争の後遺症の深刻さを物語っています。
中東地域への影響と国際社会の課題
イラク戦争は、中東地域のパワーバランスにも大きな変化をもたらしました。戦後のイラクでは、イランの影響力が強まる一方、親米国だったサウジアラビアなどのアラブ諸国は警戒感を募らせました。シリアやイエメンの内戦でも、この対立構造が下敷きになっているのが実情です。
国連の承認なき武力行使という先例を作ったことで、アメリカの道義的立場も大きく低下。テロとの戦いを掲げながら、かえってイスラム諸国の反発を招く結果となりました。大量破壊兵器の不在が明らかになり、開戦の大義名分自体への疑念も拭えません。戦争を回避する外交努力の重要性が改めて浮き彫りになった形です。
戦後のイラクが示すように、軍事力によって一時的に体制を崩壊させても、真の安定と平和を実現することは容易ではありません。国際社会には、紛争の火種を軍事的圧力で除去するよりも、対話を通じて平和的に解決する英知が求められています。その意味で、イラク戦争の悲劇は人類への重要な警鐘となったのです。