満州事変をわかりやすく解説|きっかけの柳条湖事件から結末まで簡単理解

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満州事変について簡単に解説!

満州事変は、1931年に関東軍満州の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして軍事行動を開始した事件。

日本は、この事件を契機に中国東北部に軍を展開し、1932年には清朝最後の皇帝溥儀を執政に据えた満州国を建国。日本は満州国を独立国家として認めましたが、国際連盟は日本の行動を非難し、日本は1933年に国際連盟を脱退。

満州事変は、日本の中国への軍事進出の始まりとなり、その後の日中戦争へとつながった。

満州事変とは

満州事変とは
  • 1931年に日本軍が起こした中国東北部での軍事行動
  • 柳条湖事件を口実に満州を占領し、1932年に傀儡国家「満州国」を樹立

満州事変の定義と位置づけ

満州事変とは、1931年に日本関東軍が中国東北部で起こした軍事行動のことです。これを機に、日本は中国の主権を無視して満州を占領し、傀儡国家「満州国」を樹立しました。日本の中国侵略の始まりとされるこの事変は、第二次世界大戦勃発への導火線ともなった歴史的に重要な出来事です。

柳条湖事件から満州国建国までの簡潔なあらすじ

満州事変のきっかけは、1931年9月18日夜に起きた柳条湖事件でした。満州の鉄道爆破口実日本軍中国軍を攻撃し、わずか数ヶ月で満州全土占領します。そして1932年3月1日、日本の後ろ盾の下、「満州国」が建国されました。しかし建前上は独立国家でも、実態は日本の傀儡国家に過ぎませんでした。

満州事変の背景

満州事変の背景
  • 列強同士の競争と日本の権益拡大の対象が満州だった。
  • 日本は満州の権益拡大を図る一方、中国は満州の一体性を守ろうとした。

満州の地理的・歴史的特性とは

満州は中国の東北部に位置し、豊かな資源に恵まれた広大な地域です。19世紀末から20世紀初頭にかけて、清朝の衰退に乗じて帝国主義列強同士の競争の舞台となりました。特に日本は、日露戦争で勝利して南満州鉄道(満鉄)の権益獲得し、満州への足掛かりを築きました。

20世紀初頭の満州をめぐる国際情勢

第一次世界大戦後、ワシントン体制の下で列強間の勢力均衡が保たれる中、日本満州での権益拡大を図ります。1920年代には在満州の関東軍を増強し、満鉄附属地の治外法権を盾に現地での特権を固めていきました。一方、満州をめぐる国際的緊張は次第に高まっていきました。

日本と中国、それぞれの満州への思惑

日本は、満州自国の勢力圏に収めることで、政治的・経済的な安全保障を確保しようとしました。特に世界恐慌後、満州日本経済の「生命線と見なされるようになります。対する中国は、満州を失えば国家の一体性が損なわれると危惧しました。張学良率いる東北政権は、民族自決を主張しつつも、対日宥和政策を取らざるを得ない状況でした。

柳条湖事件から満州事変へ

柳条湖事件から満州事変へ
  • 1931年9月18日、関東軍が仕組んだ柳条湖事件が満州事変のきっかけ
  • 関東軍独断侵攻を拡大
  • 中国側は不抵抗方針を取り、国際連盟はリットン調査団を派遣

柳条湖事件勃発

1931年9月18日夜、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖南満州鉄道線路爆破される事件が発生しました。実行犯は関東軍の謀略部隊でしたが、中国軍の仕業と称して直ちに反撃を開始。奉天を制圧した後、各地に軍事行動を拡大していきました。

関東軍の独断専行

柳条湖事件に際し、関東軍は東京の統帥部の許可なく行動を起こしました。陸軍中央の「不拡大方針」を無視し、独断侵攻作戦を遂行したのです。事態を制御できない若手将校らの専横ぶりは、のちの「張作霖爆殺事件」の予兆とも言えるものでした。

中国側の反応と張学良の対日不抵抗政策

事変勃発直後、中国国民党政府は厳重抗議の姿勢を見せました。しかし軍事力の劣勢を踏まえ、最終的には不戦の方針を採ります。満州の実質的支配者だった張学良も、日本軍に抵抗せず撤退しました。内戦続きで疲弊していた中国にとって、日本との全面戦争は得策でなかったのです。

満州事変の拡大と国際連盟の動き

9月から11月にかけ、日本軍は錦州、ハルビン、チチハルなど満州各地の主要都市を次々と陥落させました。この急速な軍事行動の拡大に国際社会は衝撃を受けます。満州の平和と安定を脅かす日本の行為に、国際連盟は強い懸念を表明。真相究明のため、リットン卿を団長とする調査団派遣を決定しました。

満州事変の結末

満州事変の結末
  • 1932年、日本の傀儡政権である満州国が建国
  • リットン調査団が日本の行為を侵略と断定
  • 日本はこれに反発し、1933年に国際連盟を脱退

日本の主導で成立した満州国

1932年2月、日本の強い働きかけにより、満州国建国の運びとなりました。3月1日、表向きは清朝最後の皇帝・溥儀が執政に就任し、「満州国」の成立が宣言されます。しかしこの新国家は、実質的日本がデザインした傀儡政権でした。溥儀も日本側の意向に従わざるを得ない立場に置かれたのです。

「独立」の仮面を被った満州国の実態


满州国表向き主権国家でしたが、その実態は関東軍を頂点とする軍事的支配体制でした。憲法議会形骸化し、日本人官僚実権を握りました。国際法上も満州国の地位は曖昧で、日本の外交的保護下に置かれた「独立」国家という矛盾を孕んでいたのです。

リットン調査団と国際社会の反応

1932年、国際連盟リットン調査団満州実情視察しました。同年10月に提出された報告書は、日本の満州事変を侵略行為と断じ、満州国の承認拒否する内容でした。この結論に日本反発し、1933年3月、ついに国際連盟からの脱退を表明。この脱退が、日本の孤立への第一歩となったのです。

満州事変が与えた影響

満州事変が与えた影響
  • 満州事変後、日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立
  • 満州事変は1937年に勃発した日中戦争原因の一つになった。

満州事変が導いた日本の孤立への道


国際連盟を去った日本は、欧米諸国との溝を深めていきました。東アジアで勢力拡大を目指す日本と、現状維持を望む列強対立構造が、次第にはっきりとしてきたのです。孤立を深める中、日本は1937年7月、ついに日中戦争へと突入します。満州事変から始まった一連の流れが、大戦の泥沼へと通じていったと言えるでしょう。

日中全面戦争の遠因となった満州事変

満州事変日中戦争勃発の大きな要因となりました。事変後、日中の緊張関係悪化の一途を辿ります。相次ぐ衝突や民間人の被害は、両国民の敵愾心を煽りました。そして1937年7月の盧溝橋事件を機に、ついに全面戦争が始まりました。