ノモンハン事件をわかりやすく解説|背景から結果までを簡単理解

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ノモンハン事件の簡単な解説!

ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の国境地帯で起こった日本軍とソ連軍の武力衝突。日本軍は関東軍を中心に侵攻するも、ソ連軍の反撃により敗北したのちに休戦。

この事件は、日本軍の対ソ戦略に大きな影響を与え、日独伊三国同盟の形成や日ソ中立条約の締結につながり、太平洋戦争へと向かう一因となった。

ノモンハン事件とは?その概要を簡単に説明

ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけてモンゴル人民共和国(現在のモンゴル)と満州国(現在の中国東北部)の国境地帯で起きた日本軍とソ連軍の武力衝突です。

当時、日本は満州国を支配下に置いていましたが、モンゴルを支援するソ連との間で国境をめぐる対立が続いていました。5月にモンゴル軍が満州国領内に侵入したことをきっかけに、満州国軍と関東軍が越境し、ソ連軍と交戦しました。

双方に大きな被害が出る中、8月下旬にソ連軍がジューコフ将軍の指揮下で大反撃を開始。日本軍は壊滅的な打撃を受け、9月には停戦協定が結ばれました。

この事件は日ソ両国の力関係を示すとともに、第二次世界大戦へとつながる重要な転換点となった歴史的出来事です。

ノモンハン事件が起きた背景

ノモンハン事件が起きた背景
  • 19世紀末からの日露対立と、満州・モンゴルでの勢力争い
  • ハルハ川の国境画定問題から、日本軍が武力衝突を引き起こした

国境画定をめぐる日ソの対立

ノモンハン事件の遠因は、19世紀末からの日露対立に遡ります。日清戦争日露戦争を通じ、日本は朝鮮半島と満州(中国東北部)に勢力を伸ばしていきました。一方ソ連は、極東での影響力拡大を目指していました。

1920年代後半、中国東北部で張学良による反ソ運動が高まると、日本は張学良を支援。これに対抗するソ連は、1924年にモンゴル人民共和国の独立を承認し、同国との協調関係を深めていったのです。

日ソ両国はそれぞれモンゴルと満州の国境地帯に軍を展開。国境線の確定を求める日本に対し、ソ連は曖昧な現状維持を望み、緊張が高まっていきました。

ハルハ川界河問題の発生

事件の直接のきっかけとなったのが、1935年頃から表面化したハルハ川界河問題です。

満州国とモンゴルの国境となるハルハ川は、たびたび流路が変わる蛇行河川でした。モンゴル政府は川の東岸を国境と主張したのに対し、満州国側は主流の中心線を国境とみなすよう要求両国の見解は平行線をたどりました。

1938年には満州国軍がハルハ川対岸のモンゴル領に侵入する事件が発生。ソ連は独立の同盟国として、モンゴルの領土保全を徹底的に守る姿勢を鮮明にしました。

日本軍がノモンハン地域(ハルハ川東岸)を自国の勢力範囲だと一方的に判断したことで、武力衝突へと発展したのです。

ノモンハン事件の経過

ノモンハン事件の経過
  • 1939年5月から7月にかけて、満州国軍と関東軍がソ連軍と交戦
  • 8月、ジューコフ将軍率いるソ連軍の大反撃により、日本軍が壊滅的な敗北

満州国軍と関東軍の戦闘

1939年5月11日未明、モンゴル軍の騎兵隊約70名がハルハ川を越え、満州国領内に進入しました。これに対し、駐留していた満州国軍守備隊が応戦双方に死傷者が出る交戦となりました。

その後も小競り合いが断続的に続く中、5月28日に関東軍の一部部隊がノモンハン付近に増援として投入されます。指揮官の根本博中将は「徹底的にモンゴル軍を撃破せよ」と命じました。

6月中旬には、ソ連軍も戦車部隊を投入して反撃。日本軍は大きな損害を被りましたが、7月1日に根本中将が大規模な総攻撃を開始。激しい戦闘が約1週間続きました。

しかし戦況は日本軍に不利に展開し、7月下旬には一時休戦となります。ソ連軍は着々と増強を進め、8月下旬、反撃の準備を整えていました。

ジューコフ率いるソ連軍の反撃と日本軍の敗北

1939年8月20日、ソ連軍極東方面軍司令官のジューコフ将軍は、ノモンハン地域で大反撃を開始しました。

5万人以上の兵力、500両以上の戦車、500機以上の航空機を投入した大規模作戦で、日本軍を包囲殲滅しようと試みたのです。対する日本軍の兵力は2万人程度。戦力差は歴然でした。

ソ連軍は重戦車を先頭に、3方向から集中砲撃を加えながら進攻。日本軍は散発的な抵抗を試みましたが、8月23日には阻止線が突破され、総崩れの状態に。

8月31日までに、関東軍とモンゴル軍の大半が壊滅。戦死傷者は日本軍約1万7千人、ソ連軍約9千人に上ったとされます。

9月15日、日ソ両軍の停戦協定がモスクワで調印され、武力衝突は終結しました。日本軍の完敗を示す結果となったのです。

ノモンハン事件の結果と影響

ノモンハン事件の結果と影響
  • 日本は「北進論」から「南進論」へ転換し、対英米戦争への道を選択
  • 日ソ中立条約の締結により、ソ連は対独戦に注力できる態勢を整えた

日ソ中立条約の締結

ノモンハン事件での敗北は、日本の対ソ政策に大きな影響を与えました。

北進論」を唱えていた関東軍は勢いを失い、代わって南進論」が台頭対英米戦争へと舵を切る契機となりました。

また日本政府は、ソ連との関係改善を目指す方針に転換。1941年4月13日、日ソ中立条約を結んだのです。両国は互いに相手国に対する敵対行為や、相手国の敵対国への加担を行わないことを約束しました。

これによりソ連は、ドイツとの戦いに集中する態勢を整えます。一方の日本も、南方での戦いに専念できるようになりました。

第二次世界大戦へのみちのり

ノモンハン事件は、第二次世界大戦勃発の伏線となった重要な出来事です。

日本は大敗の屈辱から、対英米戦争に突き進む道を選びました。真珠湾攻撃に象徴される太平洋戦争へとつながる転換点だったのです。

一方ソ連は、対日戦の脅威から解放され、対独戦に注力。1941年6月に始まるドイツの侵攻(バルバロッサ作戦)を迎え撃つ体制を整えることができました。

さらにソ連は、極東での機動的な戦い方や大規模機甲部隊運用のノウハウを得ました。これが独ソ戦でのソ連軍の戦術に大きな影響を与えたと言われています。

日本の敗北は、帝国主義の限界を示す一方で、ソ連の台頭を予感させる出来事でもありました。まさに第二次世界大戦の前哨戦と呼ぶべき事件だったのです。