盧溝橋事件とは?
盧溝橋事件の概要
盧溝橋事件は、1937年7月7日夜、中国北京郊外の盧溝橋付近で発生した日中両軍の衝突事件です。日本軍が夜間演習を行っていた際、一人の兵士の行方が分からなくなったことから、日本軍は中国軍に対して兵士の捜索と引き渡しを要求しました。これに対し、中国軍は日本兵の捕獲を否定。日中両軍の交渉は平行線をたどり、7月8日未明、盧溝橋付近で双方による射撃戦が勃発しました。その後、両軍が増援部隊を投入したことで戦闘が拡大。停戦交渉は決裂し、本格的な戦闘に発展していきました。この事件をきっかけに、日中両国を巻き込んだ全面戦争である日中戦争が始まったのです。
事件の当事者となった日本軍と中国軍
事件当時、盧溝橋付近には日本軍の駐屯地がありました。日本軍は1901年の北清事変以降、北京郊外に駐留していましたが、1937年7月には約5,000人の兵力を保持していました。一方、中国側は国民党政府の正規軍である第29軍の部隊約10,000人が盧溝橋周辺に駐屯していました。日中両軍は緊張関係にありましたが、大規模な衝突は避けられていました。
盧溝橋事件が起きた背景
当時の日中関係と日本軍の中国駐留
1931年の満州事変以降、日本は中国東北部に満州国を建国し、華北地域にも影響力を拡大していきました。日本軍は1901年の北清事変の結果、北京郊外に駐留が認められていましたが、次第に駐留地を拡大していきます。一方、中国側は日本の影響力拡大に反発を強めていました。
華北分離工作と中国側の反発
日本は1935年頃から、中国国民政府の影響力が強い華北地域を分離させ、親日政権の樹立を画策する「華北分離工作」を進めていました。これに対し、中国側は強く反発。日本の要求を拒否する姿勢を見せ、軍事的な対抗措置も取り始めます。華北地域の緊張が高まる中、日中両軍の衝突の危険性が増していきました。
盧溝橋付近での日中両軍の緊張状態
盧溝橋周辺には日中両軍の駐屯地が置かれ、双方の部隊が近接して警戒にあたっていました。挑発行為や小競り合いが頻発し、互いに相手の動きに神経をとがらせる状況となっていました。日本軍は満州国国境付近の練兵を理由に軍事行動を活発化させており、衝突の危険性がさらに高まっていたのです。
盧溝橋事件の経過〜衝突から泥沼の戦闘へ
日本軍による夜間演習と行方不明者の捜索
1937年7月7日夜、日本軍は盧溝橋付近で夜間演習を行っていました。演習終了後、一人の兵士の帰還が確認できませんでした。日本軍は兵士が中国軍に捕らえられたと判断し、中国軍に対して捜索と引き渡しを要求。これに対し、中国軍は日本兵の捕獲を否定します。日本軍は中国軍の駐屯地への立ち入りを求めましたが、拒否されました。
射撃の応酬と双方の増援部隊の投入
捜索をめぐる交渉が平行線をたどる中、7月8日未明、盧溝橋付近で日中両軍による射撃の応酬が始まりました。きっかけは定かではありませんが、日本側は「中国軍からの無謀な射撃」と主張し、中国側は「日本の挑発」と反論しました。戦闘は拡大し、双方が大規模な増援部隊を投入。盧溝橋を挟んだ攻防戦へと発展していきます。
停戦交渉の決裂と本格的な戦闘へ
戦闘開始から数日間、日中両軍は停戦に向けた交渉を続けましたが、双方の主張は平行線をたどりました。7月11日、停戦交渉が決裂。日本軍は宛平県城への総攻撃を開始し、激しい市街戦が繰り広げられました。中国軍も必死の応戦を見せましたが、日本軍の攻勢を抑えきれず、20日には宛平を放棄。盧溝橋周辺の制圧を日本軍に許す形となりました。
盧溝橋事件の結果〜日中戦争勃発
日本軍の北京・天津占領
日本軍は盧溝橋事件での勝利を受け、北京と天津に軍を進め、8月上旬までに両都市を占領しました。これにより、華北地域の主要都市のほとんどが日本軍の支配下に置かれることになりました。日本軍の目的であった「華北分離」は大きく前進したかに見えました。
中国国民党による対日抗戦方針の決定
日本軍の華北侵攻に危機感を抱いた中国国民党は、8月上旬、南京で最高指導部会議を開催。全面的な対日抗戦に踏み切ることを決定します。国内の統一を優先し、日本への抵抗を後回しにする従来方針を転換しました。日本軍に対し、全面戦争に突入する構えを見せました。
中国全土に拡大した日中戦争
中国国民政府の抗日戦宣言を受け、日本政府も「挑戦を処断する」との声明を発表。8月中旬以降、上海や華中、華南の各地で日中両軍の戦闘が拡大していきます。盧溝橋事件に端を発した衝突は、たちまち中国全土に拡大。日中両国を巻き込んだ本格的な戦争、日中戦争が勃発したのです。
盧溝橋事件後の日中関係
泥沼化する日中戦争と中国における抗日運動の拡大
日中戦争開戦後、日本軍は各地で侵攻を続けましたが、国民党軍や共産党軍の抵抗に遭い、戦線は膠着状態に陥りました。日本軍は大量の兵力を投入し、各地で無差別攻撃を行うなど泥沼の戦いが続きます。一方、中国国内では日本への抵抗を訴える抗日運動が活発化。国共合作による抗日民族統一戦線も結成され、対日抗戦の態勢が整えられました。
日本の中国侵略と欧米諸国の対日制裁
日本軍の中国侵攻は、欧米諸国から「国際秩序への挑戦」と非難されました。とりわけ、1937年12月の南京攻略戦において、日本軍による大規模な民間人虐殺、いわゆる「南京大虐殺」が発生したことで、対日批判が一気に高まります。アメリカを中心に対日制裁の動きが活発化し、日本は国際的な孤立を深めていきました。
第二次世界大戦へと向かう国際情勢の悪化
日中戦争の拡大と欧米諸国の対日姿勢の硬化は、アジア太平洋地域の緊張を急速に高めていきました。ナチスドイツやファシストイタリアとの連携を深めた日本は、1940年9月、枢軸国であるドイツ、イタリアとの三国同盟を結成。対する中国は、戦いの長期化に備えるため、アメリカやイギリスとの提携を強化します。盧溝橋事件から始まった日中の戦いは、やがて第二次世界大戦へと発展していきました。