南北戦争をわかりやすく解説|アメリカを二分した内戦の背景から結末まで簡単理解

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南北戦争を簡単に解説!

南北戦争は、アメリカ合衆国における南部連合北部連邦の間で1861年から1865年にかけて行われた内戦

1860年のリンカーン大統領の選出を機に、南部諸州が連邦からの離脱を宣言し、1861年4月に戦闘が勃発。ゲティスバーグの戦いリー将軍の降伏など、激戦が続くも、工業力や人口で勝る北軍が優勢となり、1865年4月に南軍が降伏、戦争は北部の勝利に終わった。

この戦争により、奴隷制度は廃止され、アメリカは統一国家となった。

南北戦争とは?

南北戦争とは?
  • 南部連合11州と北部連邦政府23州の間で戦われた戦争。
  • アメリカ史上最大規模、最多の犠牲者を出した戦争。

南部連合軍 vs 北部連邦軍

南北戦争は、アメリカ南部11州からなる南部連合と、北部23州からなる連邦政府の間で戦われました。南部連合軍は「グレーの軍団」、北部連邦軍は「ブルーの軍団」と呼ばれ、互いに激しい戦闘を繰り広げました。

双方の軍隊は志願兵が中心で、北軍は約210万人、南軍は約85万人の兵士が動員されました。戦争の初期は南軍が優勢でしたが、北軍の物量と工業力が徐々に差を広げ、最終的には連邦軍が勝利を収めました。

アメリカ史上最悪の戦争

南北戦争は、アメリカ史上最大規模の戦争であり、最も多くの犠牲者を出した戦争でした。双方併せて60万人以上の戦死者を出し、負傷者は40万人以上に上りました。

当時の米国人口は約3,100万人だったので、これは全人口の2%が死亡し、1.3%が負傷したことになります。この数字からも、南北戦争がいかに激しく、そして悲惨な戦争であったかが分かります。

南北戦争は、アメリカの歴史に深い傷跡を残しました。奴隷制度の是非を巡る対立は、戦争終結後も社会問題として長く尾を引くことになります。戦争の爪痕から立ち直るには、長い年月を要したのです。

南北戦争の対立の背景

南北戦争の対立の背景
  • 南部農業・奴隷制度が中心、北部工業化が進展し、関税政策で対立。
  • 南部は州権を盾に奴隷制度廃止反発し、北部奴隷制度廃止主張し対立。
  • 南部州の自治権を重視し、北部は国家統一のため連邦政府の強化を主張して対立。

南部と北部の経済的な差異

南部経済農業、とりわけ綿花プランテーションが中心でした。広大な農園経営には多くの労働力が必要で、奴隷労働に大きく依存していました。一方、北部工業化が進み、都市部を中心に製造業商業発達していました。

両者の経済構造の違いは、関税政策を巡る対立にも繋がりました。南部輸出に不利になるとして自由貿易を求めた一方で、北部の製造業者は国内産業保護のために高関税を主張しました。

奴隷制度をめぐる議論の先鋭化

南部経済を支えていた奴隷制度には、北部廃止を求める声が上がっていました。

南部の農園主たちは奴隷制度が南部経済の基盤であり、廃止は州の権利に対する重大な侵害だと反発しました。一方で北部奴隷解放論者たちは、奴隷制度は非人道的で道徳に反すると主張し、廃止を訴えました

両者の主張は平行線をたどり、議論は先鋭化の一途を辿ったのです。

連邦政府と州の権限のバランス

連邦政府の権限と、州の自治権バランスを巡っても対立がありました。建国当初から、各州が主権を持つ州権」の考え方と、連邦政府に権限を集中させる「連邦主義の考え方が拮抗していました。

南部諸州は州権を重視し、連邦政府の権限拡大に警戒感を示していました。一方の北部は、国家統一のために連邦政府の強化が必要と考えていました。両者の溝は深まるばかりで、事態は戦争へと向かっていったのです。

南北戦争のきっかけと経過

南北戦争のきっかけと経過
  • 1861年の南軍によるサムター要塞砲撃が南北戦争のきっかけ
  • 戦争は長期化し、両軍とも疲弊。
  • 1863年のゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し戦局は北軍優位に。

南北戦争のきっかけ

1854年のカンザス・ネブラスカ法により、奴隷制度の是非が州民投票に委ねられると、カンザス準州で流血の抗争が起きました。

1860年の大統領選では、奴隷制度に反対する共和党リンカーン当選南部諸州はこれに反発し、次々と連邦からの脱退を宣言しました。

1861年4月、南軍サムター要塞砲撃したことを機に、南北戦争が勃発しました。激化する対立を背景に、米国は戦争への道を歩んでいったのです。

戦争は長期化の一途を辿り、両軍ともに疲弊していきました。膠着状態を打開すべく、リンカーン大統領は戦略を練り直します。

膠着状態に陥る戦況

1862年の時点で、戦局は膠着状態に陥っていました。ポトマック軍を率いる北軍の将軍たちは優柔不断で、決定的な戦果を挙げられずにいました。

一方の南軍は、リー将軍の指揮下で果敢な戦いを展開。各地の戦闘で北軍を圧倒し、戦意を高めていました。

転機を画したゲティスバーグの戦い

1863年7月、ゲティスバーグの地で南北両軍が激突しました。3日間に及ぶ激戦の末、北軍が勝利を収めます。

南軍は精鋭部隊を失い、戦略的な敗北を喫しました。ゲティスバーグの戦いは南北戦争の転機となり、戦局は北軍優位に傾いていきました。

リンカーン大統領はこの大勝を機に、奴隷解放宣言を発するなど、戦争の大義を明確にしていったのです。ゲティスバーグの戦いは、単なる一つの会戦ではなく、南北戦争全体の行方を左右する重要な契機となりました。

奴隷解放宣言発布と南北戦争の終結

奴隷解放宣言発布と南北戦争の終結
  • 1863年、リンカーン大統領が南部連合の奴隷に自由を付与する奴隷解放宣言を発布。
  • 1865年、南軍のリー将軍が降伏戦争終結

リンカーン大統領による奴隷解放宣言

1863年1月1日、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を発布しました。これにより、南部連合の管轄下にある地域の奴隷はすべて自由の身となりました。

当初リンカーンは、奴隷制度には反対しつつも、戦争の目的をあくまで国家統一の達成に限定していました。しかし戦局の膠着を打開するには、より高次の大義が必要とされました。

奴隷解放宣言は、南北戦争が単なる政治的対立ではなく、人道的な理念を巡る戦いであることを内外に示す、画期的な宣言となったのです。

南北戦争の終結

1865年4月9日、南軍の総司令官リーは、ヴァージニア州アポマトックスの地で降伏文書に調印しました。これにより、事実上南北戦争は終結を迎えます。

東部戦線で北軍を指揮していたグラント将軍は、リー将軍を寛大に扱いました。降伏文書の内容は南軍兵士の武装解除と平和的解散という簡潔なもので、南軍将兵の面目は保たれました。

これはリンカーンの意向を反映したもので、その後の南部再建を見据えた政治的配慮と言えます。南北の融和を重視するリンカーンの姿勢は、戦争終結の場面にも如実に表れていたのです。

南北戦争終結のその後

南北戦争終結のその後
  • 1865年春、南北戦争が終結し、リンカーンの悲願だった国家統一は達成されたが、戦争の爪痕は大きかった。
  • 奴隷制度廃止を定めた憲法修正第13条が成立。
  • 戦後処理は難航し、リンカーン暗殺で南北和解への道は険しくなった。

国家統一の達成と戦争の終結

1865年春、南部連合軍の主力はすべて降伏し、南北戦争は終結しました。4年に及ぶ激戦の末、リンカーンの悲願だった国家統一が達成されたのです。

もっとも、620万人が戦火に巻き込まれ、うち36万人以上が命を落とすなど、戦争の爪痕は計り知れないものでした。荒廃した南部の再建は容易ではなく、今後の困難が予想されました。

奴隷制度の廃止と再建時代の幕開け

1865年12月、奴隷制度を法的に禁止する憲法修正第13条が成立しました。南北戦争で流された多くの血は、決して無駄ではなかったのです。

とはいえ、4百万人の解放奴隷の処遇や、南部経済の立て直しなど、戦後処理には多くの困難が伴いました。南北の対立構造は温存されており、再建時代の米国は多事多難の船出を迎えたのです。

リンカーンの理想と南北和解への努力

リンカーンは、南部諸州の再建に関しては宥和的な方針を採ろうとしていました。報復ではなく和解を重視し、元奴隷州の権利回復を段階的に進める構想を描いていたのです。

しかし1865年4月、リンカーン暗殺されてしまいます。リンカーンの死は、南北和解を困難にしました。

再建時代は、解放奴隷の参政権を巡る対立など、新たな混乱に見舞われることになります。リンカーンという偉大なリーダーを失った米国は、理想の実現へとさらなる試練の道を歩むことになったのです。