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ロシア革命とは何か
ロシア革命の定義と概要
ロシア革命とは、1917年にロシア帝国で起こった二つの革命事件の総称です。専制君主制を敷いていたロマノフ朝を倒し、世界初の社会主義国家ソビエト連邦の成立につながった一連の出来事を指します。
ロシア革命は大きく、二月革命と十月革命の二段階に分けられます。二月革命ではロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世が退位に追い込まれ、臨時政府が樹立されました。十月革命では、レーニン率いる過激派マルクス主義政党、ボリシェヴィキが武装蜂起によって臨時政府を倒し、社会主義国家建設へと動き出しました。
この革命は20世紀最大の事件の一つとされ、世界の歴史に大きな影響を与えました。資本主義と社会主義の対立構造を生み出し、冷戦の遠因にもなったのです。
ロシア革命が起こった時代背景
ロシア革命が勃発した20世紀初頭、ロシアは専制君主制の絶対王政国家でした。皇帝は強大な権力を握る一方、議会の権限は弱く、多くの民衆は貧困に苦しんでいました。
1904年に勃発した日露戦争での敗北は、ロシアの政治体制の脆弱さを露呈しました。敗戦への不満から1905年には革命運動が起こり、ニコライ2世は一定の民主化を約束せざるをえませんでした。
しかし、第一次世界大戦への参戦によって国内の混乱に拍車がかかります。戦争の長期化で民衆の不満が爆発し、食料難や物価高騰から大規模なストライキが発生。こうした国内の危機的状況の中でロシア革命は勃発したのです。
ロシア革命の原因
ロマノフ朝の専制政治への不満と第一次世界大戦での敗北
ロシア革命が起こった大きな原因の一つは、ロマノフ朝の専制的な統治への国民の強い不満でした。皇帝は絶対的な権力を持つ一方、国民には自由や権利がほとんど認められておらず、議会の権限も極めて限定的でした。
こうした政治体制の問題点は、1904〜05年の日露戦争で露呈します。近代化が遅れたロシア軍は日本に敗北を喫し、国威は地に落ちました。戦争への反対運動は1905年革命として爆発。ニコライ2世は議会の設置など民主化を約束しましたが、改革は不徹底でした。
さらに1914年、ロシアは第一次世界大戦に参戦。国力の衰えから戦線は崩壊し、多大な犠牲を出して敗退します。戦死者は約170万人、負傷者は約500万人にのぼりました。
食料や物資が不足し、物価が高騰。国民生活は困窮を極めました。
社会主義思想の広がりとボリシェヴィキの台頭
もう一つの重要な原因は、19世紀後半から徐々に広がっていた社会主義思想です。カール・マルクスの唱えた共産主義の理論は、貧しい労働者や農民の間に浸透していきました。
特に、レーニンが率いる過激派の社会主義政党・ボリシェヴィキは、労働者による革命を訴えて支持を拡大。「平和、土地、パン」のスローガンを掲げ、戦争で疲弊した民衆の心をつかみました。
1905年革命後、大都市の工場では労働者評議会(ソビエト)が続々と結成され、ストライキが頻発。ボリシェヴィキはソビエトを革命の拠点にしようと画策します。
こうして専制政治の行き詰まりと戦争の悲惨、社会主義勢力の台頭が重なり、ロシアは革命へと向かったのです。民衆の不満が爆発するのは、時間の問題でした。
ロシア革命の経緯
二月革命と臨時政府の樹立
二月革命は1917年2月23日、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で勃発しました。食料不足に業を煮やした女性労働者らによる「パンをよこせ」デモから始まった抗議行動は、たちまち市中に拡大します。
25日には約20万人の労働者がストライキに突入。翌26日には兵士も反乱に呼応し、27日には首都の大部分が革命側の手に落ちました。臨時政府樹立を求める圧力は日増しに高まり、3月2日、ニコライ2世は300年に及ぶロマノフ朝の統治に終止符を打つ退位に追い込まれたのです。
ニコライ2世の退位後、リベラル派を中心に臨時政府が樹立されました。首相には第一次世界大戦で戦線を指揮していたルヴォフ公が就任。しかし、社会主義勢力の一角を占める臨時政府は不安定で、ペトログラード・ソビエトと二重権力状態に陥ります。
7月には、ルヴォフの後を継いだケレンスキーが首相に就任。しかし臨時政府は戦争継続の方針を変えず、民衆の支持を次第に失っていきました。
十月革命とソビエト政権の成立
こうした情勢をチャンスととらえたのが、レーニン率いるボリシェヴィキです。亡命先から4月にロシアに帰国したレーニンは「平和、土地、パン」のスローガンを掲げ、ソビエトを通じて積極的に民衆に働きかけました。
ボリシェヴィキは臨時政府打倒と武装蜂起を目指し、赤衛隊を組織。労働者や兵士の支持を着実に拡大していきます。
10月24日深夜、レーニンの指導下で赤衛隊が首都の主要施設を占拠する十月革命が決行されました。ほぼ無血のクーデターによって、ケレンスキー政権は崩壊。翌25日、レーニンを首班とするソビエト政府が樹立されたのです。
レーニンは無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時停戦提案の平和についての布告や地主の土地の無償没収を宣言した土地ついての布告を発表。広大な農地の国有化や工場の労働者管理を宣言して、革命勢力の結束を固めていきます。こうして世界で初めての社会主義国家への一歩が踏み出されました。
ロシア革命後の内戦と新体制
赤軍と白軍の内戦
十月革命によってソビエト政権が誕生しましたが、その直後からロシア国内は混乱に陥ります。旧体制派や社会主義に反発する勢力が結集し、レーニン政権の打倒を狙う白軍が各地で蜂起したのです。
これに対しボリシェヴィキは赤軍を結成。トロツキーが国防人民委員に就任し、徹底した軍規で赤軍を鍛え上げました。1918年6月、内戦は全面的に勃発。シベリアやウクライナ、南部など広範な地域に拡大します。
白軍側には連合国も援軍を送り、革命の挫折を企図。まさに世界規模の介入戦争の様相を呈しました。1918年7月にはニコライ2世一家が白軍に拘束され、エカテリンブルクで銃殺されるという悲劇も起きています。
しかし、1920年までに赤軍は国内のほぼ全域を制圧。白軍を壊滅させることに成功しました。組織力と戦略的優位性が勝因となり、ソビエト政権は内戦での勝利によって基盤を固めたのです。
ソビエト連邦の成立とスターリンの台頭
内戦中の1918年7月、ソビエト政権は「戦時共産主義」政策を導入。余剰農産物を国家に供出させ、主要産業を国有化して経済を集中管理下に置きました。
内戦終結後の1922年12月、ロシア連邦を中核にソビエト社会主義共和国連邦が成立。それまでロシア領だった地域の独立を形式的に認める一方、中央集権的な連邦制国家としてスタートを切りました。
しかし、革命の理想とは裏腹に、共産党の一党独裁体制が次第に強化されていきます。1924年のレーニンの死去後、書記長のスターリンが他の有力者を排除し、権力を掌握。30年代には大粛清を断行し、絶対的な支配者の座についたのです。