辛亥革命をわかりやすく解説|清朝崩壊から中華民国成立までの歴史的背景と影響

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辛亥革命を簡単に解説!

辛亥革命は、1911年に清朝打倒を目指して起こされた革命

アヘン戦争以降の列強による中国侵略と、太平天国の乱鎮圧後も改革が進まない清朝への不満が高まる中、孫文らを中心とした革命派が蜂起。

武昌蜂起を契機に各地で革命派が蜂起し、清朝は1912年に滅亡。革命の結果、中華民国が成立したが、袁世凱など軍閥の台頭により、中国は分裂の時代を迎えた。

辛亥革命は、2000年以上続いた中国の皇帝制を終わらせ、アジア初の共和制国家を樹立した。

辛亥革命とは何か

辛亥革命とは何か
  • 辛亥革命は1911年に起きた清朝打倒共和制樹立を目指した革命
  • 革命の結果、清朝は滅亡しアジア初の共和制国家中華民国が誕生。

辛亥革命の概要

辛亥革命は、1911年に中国で勃発した革命です。「辛亥」とは、革命が起きた1911年の干支を指します。この革命は、当時の中国を支配していた満州族の王朝・清朝の打倒と、共和制国家の樹立を目指して行われました。革命の中心人物は、孫文を始めとする革命派でした。彼らは、清朝の腐敗と無能を批判し、民主主義民族自決理念を掲げて蜂起しました。

辛亥革命発端は、1911年10月10日に起きた武昌蜂起です。この蜂起を皮切りに、各地で次々と革命軍が蜂起し、約1ヶ月で中国の大半の省革命派の手に落ちました。これに対し、清朝側西太后袁世凱保守派の力を結集して革命鎮圧に乗り出しましたが、革命軍の勢いを止めることはできませんでした。結局、1912年2月に清朝は滅亡し、アジア初の共和制国家中華民国誕生するに至ったのです。

辛亥革命の簡単な結末

辛亥革命の結果、2000年以上続いた中国の君主制崩壊し、アジア初の共和制国家誕生しました。しかし革命後の中国は、すぐに安定を得ることはできませんでした。権力を掌握した袁世凱独裁化し、のちには帝政復活を企てるなど、革命の理念は早くも危機に瀕したのです。

袁世凱の死後は、軍閥割拠時代が始まります。各地の軍閥が割拠し、中央政府の統制が効かない状態が続きました。1920年代には国民党共産党が台頭し、両党の対立が激化します。1927年には国共合作決裂し、国共内戦へと発展していくのです。

このように辛亥革命は、中国の近代化民主化の第一歩を記した革命でしたが、その後の道のりは平坦ではありませんでした。君主制の打倒には成功したものの、真の共和制の定着までには、まだ幾多の曲折が待ち受けていたのです。それでも、専制打倒と民主の理念を掲げた辛亥革命の意義は決して小さくありません。近代中国の出発点として、今日まで大きな影響を与え続けているのです。

辛亥革命勃発のきっかけと背景

辛亥革命勃発のきっかけと背景
  • 1911年10月10日の武昌蜂起が直接のきっかけ。
  • 19世紀末から活発化した革命運動や、アジア各地の民族運動の影響を受けて勃発。

武昌蜂起(1911年10月10日)

辛亥革命きっかけとなったのが、1911年10月10日に起きた武昌蜂起である。この蜂起は当初、革命派の一部組織による清朝打倒計画であった。しかし革命派メンバーの一人が爆弾を誤って爆発させ、計画が露見してしまう。

蜂起を決行するしかなくなった革命派は、湖北省の都市・武昌で挙兵。「共和立憲」を掲げ、各地に蜂起を呼びかけた。武装蜂起という突発的な形で始まった辛亥革命だが、各地に飛び火する原動力となったのが、次に述べる革命派の主張と民衆の支持であった。

清朝打倒・共和制樹立を掲げた革命派の台頭

辛亥革命勃発背景として、19世紀末から活発化していた革命運動の存在は欠かせない。興中会(1894年結成)、同盟会(1905年結成)など、孫文らを中心とする革命団体が次々に誕生。彼らは、清朝打倒共和制樹立を主要目標に掲げ、各地で革命の機運を高めていった。

革命派の基本的主張は以下の3点に集約される。

  1. 満州族による清朝専制打倒
  2. 漢民族の中国樹立
  3. 共和政体の創立

特に「満州族による異民族支配からの解放」というナショナリズム的主張は、民衆の心情に強く訴えるものだった。世界各地の民族運動の高まりを背景に、革命派の影響力は1900年代に入り飛躍的に拡大。彼らの主張は次第に全国的な共感を呼ぶようになっていった。

アジア各地の民族運動の影響

20世紀初頭、中国国内で革命の機運が高まるのと並行して、アジア各地でも民族運動活発化していた。例えば、朝鮮半島では日露戦争後の1910年日韓併合が断行され、韓国の独立をめぐる民族運動が本格化する。

東南アジアでも、フィリピンベトナムなどで民族意識の高まりが見られた時期である。インドでも、1906年にはイギリスからの独立を目指すインド国民会議派が結成されている。

こうしたアジア諸国の動きは、「アジア人によるアジアの解放」を標榜する辛亥革命の理念に、大きな影響を与えたと考えられる。列強の進出民族の危機という問題は、程度の差こそあれ、当時のアジア諸国に共通する歴史的文脈だったのである。それだけに、辛亥革命の勃発は同時代のアジアに大きな衝撃を与え、各地の民族運動を勢いづけることになった。

辛亥革命の経過 – 清朝崩壊から中華民国成立へ

辛亥革命の経過
  • 武昌蜂起後、各地で革命軍が蜂起し、清朝軍と戦闘。
  • 袁世凱の寝返りにより清朝が退位
  • 1912年1月、中華民国臨時政府が成立。

各地での革命軍蜂起と清朝軍との戦い

武昌蜂起の知らせは瞬く間に全国に広がり、わずか1〜2ヶ月のうちに、15もので次々と独立が宣言された。革命派は旧暦1911年を「革命元年」と改め、武昌に湖北軍政府樹立。これを皮切りに、南京江蘇軍政府が、広州広東軍政府成立する。各省の軍政府はいずれも孫文を「総統」に推戴した。

一方の清朝側は、革命軍との戦いを指揮するため袁世凱を起用。袁は直隷(現在の河北省)で「北洋軍」を組織し、革命軍に対抗した。1911年10月末には、北洋軍が革命軍の拠点・武昌を奪還するなど、一時は形勢不利に見えた革命軍だが、11月中旬以降は各地で反転攻勢をかける。清朝軍を押し戻し勢力を拡大していった。

袁世凱の清朝支持から革命派支持への転換

辛亥革命が成功したのは、清朝側についていた袁世凱寝返りだった。1912年1月、袁世凱は清朝への支持を翻し、革命派に協力する姿勢を見せ始める。背景には革命軍優勢の情勢から、「時勢に乗じて権力を握りたい」という袁世凱の野心があったとされる。

袁世凱は革命派との交渉で、「清朝退位と引き換えに「臨時大総統就任」を要求孫文らはこれを受け入れ袁世凱を臨時大総統に選出することで合意した。南北の妥協が成立したことで、辛亥革命は新たな局面を迎えることになる。

南京で中華民国臨時政府樹立(1912年1月)

1912年1月1日革命派南京中華民国臨時政府樹立を宣言した。臨時大総統には孫文就任三民主義民族民権民生)に基づく中国初の共和政体がスタートした。しかし孫文は、前述の南北妥協に基づき、わずか数ヶ月で大総統の座を袁世凱に譲ることになる。

南京臨時政府の樹立は、辛亥革命の目標が一応達成されたことを意味するものだった。しかし軍事力を掌握した袁世凱への政権委譲は、その後の中華民国の不安定化を予兆するものでもあった。「共和」の名の下で、新たな専制の時代が幕を開けようとしていたのである。

清朝の帝位退位と消滅(1912年2月)

1912年2月12日、宣統帝溥儀が帝位を退位し、清朝は260年の歴史に幕を下ろした。一連の革命の過程で、アジア最後の帝国が崩壊したのである。ただし皇帝の地位は「大総統制度が全国的に施行されるまで」という条件付きで廃止されている点には注意が必要だ。

清朝退位の背景には、前述の袁世凱と革命派の妥協があった。革命派は「共和国家樹立と引き換えに清朝側には「皇帝の安全と財産の保障を約束したのである。つまり辛亥革命は、君主制の完全な否定には至らなかった。その後の中国で、複雑な政治的余波が続いた背景には、こうした妥協の産物としての「不徹底な革命」の性格があったと言えるだろう。

辛亥革命後の中国

辛亥革命後の中国
  • 袁世凱の専制軍閥割拠の混乱。
  • 五四運動などナショナリズムと革新の潮流。
  • 国民党共産党対立が始まり、のちの国共内戦へとつながる。

袁世凱の専制と中華民国の混乱

臨時大総統に就任した袁世凱は、その後の中華民国期に強大な権力を振るうことになる。1913年には国民党弾圧し、翌1914年には国会を解散。1915年12月には自ら皇帝に即位しようとするなど、共和制を蹂躙する露骨な専制ぶりを示した。

袁世凱の死後軍閥・政党の割拠と抗争が激化し、中華民国は分裂の様相を呈する。1916年以降は「軍閥割拠時代」と呼ばれ、北京政府の統治は名目的なものとなった。この時期、中央政府の政治的主導権は次々と軍閥の手に渡り、国家としての統一性は大きく損なわれていった。

五四運動とナショナリズムの高まり

辛亥革命後の政治的混迷の中で、中国社会の変革を求める新たな動きが生まれてくる。代表的なのが1919年5月4日に勃発した五四運動である。第一次世界大戦後パリ講和会議で、中国の要求(旧ドイツ租借地の主権回復)が拒絶されたことに端を発したこの運動は、帝国主義列強への抵抗とともに、軍閥支配打倒民主化の実現を求めるものだった。

五四運動は当初、北京の学生を中心とする抗議運動だったが、各地に飛び火し大規模なデモへと発展した。さらに日貨排斥ボイコット労働者のストライキなども伴い、国民的な政治・社会運動の様相を呈するようになる。五四運動を通じ、中国で反帝国主義・反軍閥のナショナリズムが空前の高まりを見せたのである。

また思想面では、伝統的な儒教的価値観を否定し、民主科学を重視する新文化運動活発化した。魯迅に代表される新文学は、辛亥革命の理念を継承し、近代的な価値観を社会に浸透させる上で大きな役割を果たした。五四運動とそれに連なる一連の潮流は、近代中国を特徴づける革新の思潮として位置づけることができよう。

軍閥割拠時代へ

1920年代、中国は群雄割拠の時代を迎える。各地の軍閥が勢力を伸ばし、中央政府の統制力が大きく低下したためである。この時期、実質的な政治権力段祺瑞張作霖など、地方の実力者たちに委ねられた。彼らは互いに角逐し、連合と離反を繰り返しながら、中国を分断支配下に置いた

特に北洋系安徽系対立が先鋭化し、1920年代には奉直戦争などの軍閥間抗争が相次いだ。各軍閥は帝国主義列強と結び、外国勢力を後ろ盾にしながら勢力の拡大を図った。軍閥支配の下で、中国は政治的統一を失い、近代化の歩みも大きく停滞することになったのである。

国民党と共産党の対立の始まり

辛亥革命後の中国を語る上で欠かせないのが、国民党共産党台頭である。両党はいずれも1920年代に勢力を拡大し、のちの国共内戦(1927〜1950年)へと至る歴史の伏線を形作っていく。

国民党1912年結党。辛亥革命の立役者である孫文指導者に、三民主義の実現を掲げて活動を開始した。1923年には孫文・国民党による「国民革命」が提唱され、軍閥打倒国家統一をスローガンに掲げて勢力を拡大。一方、1921年創設された中国共産党は、1920年代に入ると労働運動の指導で存在感を高めていった。

当初国民党共産党反軍閥の統一戦線を形成し協力関係にあった。しかし1927年蒋介石率いる国民革命軍による共産党弾圧上海クーデター)を機に、両党は決定的に対立。以後、両党の抗争は国共内戦へと発展し、辛亥革命後の中国の命運を左右する最大の政治的対立軸となっていったのである。