1.甲午農民戦争とは何か
1-1. 甲午農民戦争の概要
甲午農民戦争は1894年、朝鮮半島で起きた大規模な農民反乱です。この戦争は第1次と第2次の二段階に分けられ、数万人もの農民が政府軍と戦いました。
主な出来事は以下の通りです。
- 全羅道で全琫準らが農民軍を組織し蜂起(第1次)
- 農民軍が政府軍を破り勢力を拡大し、いったん講和
- 日清戦争の勃発で情勢が変化
- 再び農民軍が蜂起するも、政府軍と日本軍の前に敗北(第2次)
甲午農民戦争は近代に入り最大規模の農民反乱であり、朝鮮の内政に大きな影響を与えました。
1-2. 東学思想と農民運動の関係
甲午農民戦争では東学の教えが、農民を団結させる大きな力となりました。東学とは朝鮮の伝統思想と西洋の天主教の影響を受けた民衆宗教です。
東学は身分制度の撤廃や土地の平等分配を説き、農民の共感を集めました。当時は両班と呼ばれる貴族による収奪や不平等に農民は不満を募らせていました。東学の教えは、農民自身の手で社会を変革しようとする機運を高めたのです。
指導者の全琫準自身も、東学信者で農民軍を束ねました。東学教団が組織的に動員をしたことも、農民軍の勢力拡大の要因の一つと言えるでしょう。
2.第1次農民戦争の勃発
2-1. 全羅道における農民蜂起
1894年1月、全羅道で農民の全琫準が蜂起の狼煙を上げました。当初は数百人程度の農民軍でしたが、東学教団のネットワークを通じあっという間に数万人の大軍に膨れ上がります。
農民軍は両班の処罰や税制改革など12カ条の要求事項をまとめ、政府に突きつけました。政府が要求を退けると、農民軍は県庁を襲撃するなど武力闘争に踏み切ります。
2-2. 政府軍との戦闘と講和
農民軍は士気が高く、政府軍を各地で破りました。3月には全羅道の大部分を制圧し、忠清道や慶尚道にも進出を始めます。
朝鮮政府は農民軍の勢いに畏縮し、清に出兵を要請。日本も朝鮮内に居留する日本人を保護する名目で出兵しました。
最終的には朝鮮政府は講和交渉に応じざるを得ませんでした。農民側の要求を入れた改革案を受け入れ、第1次戦争は一旦終結します。しかし農民の不満は根深く、戦火が再燃するのは時間の問題でした。
3.日清戦争と東学農民運動
3-1. 日清戦争が朝鮮にもたらした影響
蜂起が終息した後も日本と清は朝鮮に滞在し続け、1894年7月、朝鮮の支配をめぐって日本と清が戦端を開きます。いわゆる日清戦争の勃発です。朝鮮の内政に両国が露骨に介入し、政情は著しく不安定になりました。
東学農民運動にとっても、戦争は新たな局面を迎えるきっかけとなりました。清の出兵で戦争に敗北感を抱いた政府は、改革案の履行より農民弾圧を優先し始めたのです。
3-2. 東学農民運動の再燃
講和から数ヶ月、農民の不満は頂点に達していました。弾圧に業を煮やした農民は各地で蜂起を始め、再び大規模な戦闘へと発展していきました。
全羅道など第1次の主戦場では、農民軍が勢力を維持していました。彼らは組織的に武器を集め、軍事訓練を行うなど、再起への周到な準備を進めたのです。
4.第2次農民戦争の勃発と終結
4-1. 第2次農民戦争の展開
1894年10月、農民軍は政府軍への先制攻撃を開始し、第2次農民戦争が勃発しました。反撃に転じた政府軍に加え、韓国駐屯の日本軍も農民軍討伐に乗り出します。
しかし農民軍も十数万人に達する大軍に成長し、各地で激しい戦闘を繰り広げました。一時は漢城(現在のソウル)を包囲するなど、大攻勢をかけます。戦局は一進一退の攻防が続く膠着状態に陥りました。
4-2. 農民軍の敗北と戦争の終結
力をつけた日本軍が本格的に農民軍討伐に乗り出すと、戦局は一気に傾きました。日本の近代兵器の前に農民軍は徐々に劣勢になり、拠点を失っていきます。
政府軍は日本軍と共同で残る農民軍の殲滅作戦を展開し、各地の抵抗勢力をことごとく叩きました。1895年4月、主要な指導者らが処刑され、甲午農民戦争は終結を迎えたのです。