江華島事件をわかりやすく解説|日朝修好条規につながる歴史の転換点を簡単理解

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江華島事件を簡単に解説!

江華島事件は、1875年に朝鮮江華島で日本の軍艦である雲揚号が砲撃を受けた事件。

当時、朝鮮は鎖国政策をとっており、外国船の入港を拒否。日本は不平等条約の締結を求めて交渉を試みるも、朝鮮側は応じなかった。

この事件をきっかけに、日本は翌年に日朝修好条規を結び、朝鮮に開国を迫った。

1. 江華島事件とは何か

1-1. 江華島事件の概要

江華島事件とは、1875年9月20日に起きた、日本の軍艦による朝鮮の江華島砲台への攻撃事件です。明治維新後、朝鮮との国交を求めていた日本は、軍艦「雲揚号」を朝鮮に派遣。江華島沖で測量を行っていた雲揚号に対し、朝鮮軍が砲撃を加えたことから、日本側が報復としてこの地の砲台を攻撃しました。 この事件は、朝鮮が鎖国を続ける中、開国を迫る日本との間で起きた軍事衝突であり、その後の日朝関係に大きな影響を与えることになります。

2. 江華島事件に至る背景

江華島事件に至る背景
  • 19世紀後半、欧米列強のアジア進出が加速し、朝鮮も開国を迫られる危機
  • 明治維新後の日本は、朝鮮との国交樹立を目指すが、朝鮮は鎖国を続けた

2-1. 19世紀の東アジア情勢

19世紀後半、欧米列強のアジア進出が加速し、東アジアの国際秩序は大きく変容しつつありました。1840年代のアヘン戦争清が敗北し、列強との不平等条約を結ばされると、朝鮮も開国を迫られる危機に直面します。 一方、1868年の明治維新によって近代国家への道を歩み始めた日本は、欧米列強と同様に朝鮮との関係改善を模索。しかし、朝鮮は頑なに鎖国を続けました。

2-2. 明治政府の朝鮮修交試み

明治新政府は、朝鮮との国交樹立を目指し、1868年以降、たびたび使節の派遣を試みます。しかし、朝鮮側はこれを拒否。使節派遣は一向に実現しませんでした。 こうした中、政府内では対朝鮮強硬論が台頭。1873年の征韓論では、西郷隆盛らが武力による朝鮮征伐を主張しました。征韓論は退けられましたが、朝鮮の開国を求める機運は高まっていたのです。

3. 江華島事件の経過

江華島事件の経過
  • 1875年9月、測量のため江華島沖に派遣された軍艦「雲揚号」が朝鮮軍の砲撃を受ける
  • 日本側も応戦し、江華島に上陸し、砲台や官庁施設を破壊した

3-1. 軍艦「雲揚号」の派遣

日本政府は1875年8月、軍艦「雲揚号」を朝鮮沿岸に派遣しました。名目上は海図作成のための測量でしたが、その実、朝鮮の国情視察と開国交渉の糸口を探ることが目的でした。 9月20日、雲揚号は江華島沖で測量を開始。日本側は通商を求める国書を携えていましたが、朝鮮側の対応は冷淡でした。

3-2. 朝鮮軍による砲撃と日本軍の報復

9月20日午前11時頃、測量に来た雲揚号に対し、江華島の砲台から朝鮮軍が砲撃を開始しました。不意の攻撃でしたが、雲揚号も応戦。両軍の艦砲射撃は約1時間続きました。 戦闘の後、朝鮮軍は白旗を掲げて降伏の意を示しますが、これに応じた日本軍は江華島に上陸砲台を破壊し、武器や弾薬を接収しました。翌21日にも上陸を継続し、砲台や官庁施設の破壊を進めたのです。

4. 江華島事件の結末と日朝修好条規

江華島事件の結末と日朝修好条規
  • 事件後、日本は朝鮮に宥和的姿勢を示し、国交樹立交渉を開始
  • 1876年、日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国

4-1. 日本の朝鮮に対する宥和外交

江華島事件後、日本政府は朝鮮に対し、宥和的な姿勢を示します。開戦は回避し、朝鮮の開国を外交的手段で実現しようとしたのです。 そこで外務卿の寺島宗則は、朝鮮との国交樹立交渉に乗り出します。朝鮮側にも戦争を回避したい考えがあったことから、交渉は順調に進みました。

4-2. 日朝修好条規の締結

交渉の結果、1876年2月26日、日朝修好条規が締結されます。この条約により、日朝両国は国交を樹立朝鮮は日本を「自主の邦」と認め、日本人の朝鮮渡航や貿易を許可しました。 日朝修好条規は不平等条約の性格を持っていましたが、朝鮮にとって初の近代的国際条約でもありました。日本にとっては、朝鮮進出の足がかりを得る重要な一歩となったのです。