オスマン帝国の起源と発展
オスマン帝国の起源と台頭
オスマン帝国は、13世紀末にオスマン1世によって小アナトリア北西部に建国されたイスラム国家でした。当初は小さな国でしたが、14世紀にバルカン半島へ進出し、ビザンツ帝国の領土を次々と征服。1453年にはコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国に事実上の終止符を打ちました。
スレイマン1世の治世と最盛期
16世紀前半、スレイマン1世(在位1520-1566年)の治世下でオスマン帝国は最盛期を迎えます。スレイマン1世は「立法者」の異名をとるすぐれた統治者で、ハンガリー王国を屈服させ、地中海の制海権を握りました。東方ではサファヴィー朝ペルシアとの抗争に勝利。版図はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に跨り、「7つの海と3つの大陸の帝国」と謳われるほどの大国となりました。
一方、国内では法整備や中央集権化を進め、芸術・文化も興隆。世界帝国としての栄華を誇りました。しかし、スレイマンの死後、衰退の兆しが徐々に表面化していきます。
オスマン帝国弱体化の原因
原因1: 軍事技術の遅れと軍事的衰退
17世紀以降、オスマン帝国の軍事技術は西欧諸国と比べ大きく立ち遅れていきました。鉄砲や大砲の改良が進まず、兵站・補給体制も脆弱でした。特に1683年のウィーン包囲戦の敗北は象徴的で、オスマン軍の時代遅れが露呈する転機となりました。
こうした軍事技術の遅れは、帝国の領土的衰退に直結しました。1699年のカルロヴィッツ条約ではハンガリーやトランシルヴァニアなど広大な領土を喪失。18世紀にはロシア=トルコ戦争でロシアにクリミアを割譲するなど、軍事的敗北が相次ぎました。軍の弱体化は国力の低下を招き、帝国の衰退に拍車をかけたのです。
原因2: 新航路開拓による経済的打撃
15世紀末の新航路開拓は、オスマン帝国の経済に長期的な打撃を与えました。従来、香辛料貿易などはアジアから地中海を経由するルートが主流でしたが、大航海時代を迎え、ヨーロッパ諸国がアフリカ南端を迂回する新航路を開拓。その結果、地中海沿岸とヨーロッパを結ぶレヴァント貿易の独占的地位を失い、オスマン帝国の貿易収入は大幅に減少しました。
経済基盤が揺らぐ中、インフレーションや財政難に直面。軍事費の調達が困難になり、軍の近代化も滞りました。富の流出と経済停滞は、帝国衰退の一因となったのです。
原因3: 近代化改革の不十分さと国内不満
19世紀に入ると、オスマン帝国は一連の近代化改革(タンジマート)に着手します。しかし、改革のペースは遅く、不十分な面が目立ちました。
行政・財政・軍制など各方面で行き詰まりが生じ、汚職も横行。非ムスリムへの優遇策は、逆にイスラム教徒の不満を招きました。農業や工業の発展も停滞し、列強との経済格差は一層拡大。近代化の遅れは国力の低下に直結し、遠心力を助長しました。
諸制度の機能不全と国内対立の深刻化は、帝国を内側から蝕んでいったのです。
オスマン帝国存亡の危機
原因4: 列強の干渉と戦争
19世紀後半、弱体化したオスマン帝国は欧州列強の利権争いの場と化しました。領土の保全と一体性の維持が困難になる中、列強の利害が錯綜。直接の軍事介入を招く事態となりました。
1853年のクリミア戦争では、ロシアの南下を恐れたイギリスやフランスが「ヨーロッパの病人」オスマン帝国側として参戦しましたが、戦後もロシアの脅威は続きました。1877-78年の露土戦争では敗北。バルカン半島の広大な領土を割譲に追い込まれます。
列強の干渉は民族独立運動を助長する面もありました。1820年代のギリシャ独立戦争では、英露仏が独立を支持。オスマン帝国の統治能力の限界が明らかになりました。
原因5: 民族独立運動の高まり
19世紀、オスマン帝国の支配下にあった多様な民族で独立の機運が高まりました。スラブ系諸民族の連合・統一をめざす汎スラブ主義の影響を受けたセルビア人やブルガリア人、民族自決を求めるアルメニア人、アラブ人ナショナリズムの台頭などです。
民族意識の高揚は、帝国からの分離独立運動に発展。1875年のボスニア・ヘルツェゴヴィナ蜂起、1876年のブルガリア蜂起と、各地で反乱が勃発しました。オスマン政府の弾圧で一時は鎮圧。しかし基本的な問題は解決せず、民族対立は深刻化の一途をたどりました。
「ヨーロッパの火薬庫」と化したバルカン情勢不安定化は、やがて第一次世界大戦の導火線ともなります。多民族国家としての統治が限界に達し、オスマン帝国の崩壊は不可避となっていったのです。
第一次世界大戦への参戦
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は同盟国側に付きドイツの誘いに乗る形で参戦。しかしドイツの敗北に伴い、オスマン帝国も壊滅的な敗北を喫しました。
戦後、連合国との間で結ばれたセーヴル条約で、帝国領土の大部分を割譲。事実上の分割統治を強いられることになりました。敗戦により、帝国の命運は尽きたのです。
オスマン帝国の滅亡
連合国による分割統治
セーヴル条約で定められた連合国による分割は、イギリス・フランス・イタリア・ギリシャが主導。アナトリアの沿岸部や中東の旧帝国領が委任統治領となりました。
しかし、トルコ人将校ムスタファ・ケマルらはこれに反発。アナトリア奥地を拠点に民族解放運動を展開し、外国勢力に対する武装闘争(トルコ独立戦争)へと突入します。
トルコ独立戦争と帝国の消滅
1919年から1923年にかけて戦われたトルコ独立戦争では、ムスタファ・ケマル率いるトルコ民族軍がギリシャ軍を撃破。他の連合国も徐々に撤退に追い込み、アナトリアの解放を果たしました。
1923年、トルコ共和国が成立。最後のオスマン朝スルタンも退位に追い込まれ、600年に及ぶオスマン帝国の歴史に終止符が打たれました。多民族帝国の理念は挫折。トルコ民族国家の時代が幕を開けたのです。
こうして、一度はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸を支配したオスマン帝国も、近代世界の激動の中でその命運を閉じることになりました。