1. 毛沢東の生い立ちと若い頃
1.1 出生と家庭環境
毛沢東は1893年12月26日、湖南省湘潭県で地主の家庭に生まれました。父親の毛世珍は厳格な性格で知られ、一方の母親の文氏は優しい人柄だったと言われています。毛沢東は6歳の時から私塾に通い、儒教的な教育を受けて育ちました。
清朝末期の中国は、内憂外患に悩まされていました。国内では革命運動が活発化し、他方で列強諸国による侵略が続いていた時代でした。このような激動の時代に毛沢東は少年期を過ごしたのです。
1.2 教育と思想形成
1911年、毛沢東は湖南省立第一師範学校に入学します。在学中の1911年10月に辛亥革命が勃発し、清朝打倒と共和制樹立を目指す革命運動が全国に広がりました。毛沢東はこの革命に大きな影響を受け、共和主義的な思想に傾倒していきました。
1918年、毛沢東は北京大学の図書館員として勤務し始めます。この頃、彼はマルクス主義の書物に触れ、社会主義思想に強い関心を抱くようになりました。さらに1919年の五四運動では、毛沢東は学生運動の中心メンバーの一人として活動。この経験を通じて、毛沢東の思想は一層急進化していったのです。
青年期の毛沢東は、辛亥革命と五四運動という二つの歴史的事件に遭遇し、社会変革への強い意欲に駆られていました。彼の思想的原点は、この頃の経験にあると言えるでしょう。
2. 中国共産党での活動と指導者への道
2.1 中国共産党への入党と初期の活動
1921年7月、上海でマルクス主義研究会を母体とする 中国共産党 が正式に成立しました。毛沢東は、この建党大会に湖南代表として参加した13人の創始メンバーの一人でした。
当初、中国共産党は国民党との協力関係を模索します。1923年、毛沢東は共産党の方針に従い、国民党に入党しました。しかし1927年、国民党領袖の蒋介石が共産党への弾圧を開始したことで、両党の合作関係は破綻。共産党は国民党支配地域での活動が困難になり、毛沢東ら一部の党員は農村部での革命活動に活路を見出すようになりました。
2.2 長征と党内での地位確立
1934年10月、国民党軍の包囲網を突破するため、毛沢東ら共産党の主力部隊は「長征」と呼ばれる大移動を開始しました。過酷な自然環境と国民党軍の追撃という困難に直面しながらも、毛沢東は軍事・政治両面で手腕を発揮。特に、遊撃戦を重視するパルチザン戦術を主張し、党内で影響力を高めていきました。
1935年1月の遵義会議では、それまでの党中央の方針を批判し、自身の主張を通した毛沢東。この会議での勝利により、党と紅軍における毛沢東の指導的地位が確立されたと言えます。同年10月、一年にわたる長征の過程を経て、共産党軍は陝北の延安に到着。ここに革命の新たな根拠地を築いた毛沢東は、党内で不動の地位を得るに至ったのです。
長征を通じて、毛沢東は軍事指揮官としての才能を遺憾なく発揮しました。また思想面では、中国の実情に即した革命戦略を打ち出すことで、党内の主流派となっていきます。まさに長征は、毛沢東が共産党の指導者へと駆け上がるための転換点だったのです。
3. 中華人民共和国の建国と毛沢東の統治
3.1 国共内戦と中華人民共和国建国
第二次世界大戦終結後の1945年、国共内戦 が再開されました。4年間にわたる内戦の末、1949年、共産党軍は全土の制圧に成功。10月1日、毛沢東は北京・天安門広場で、中華人民共和国の建国を宣言しました。ここに、毛沢東を指導者とする社会主義中国が誕生したのです。
建国後、毛沢東は初代国家主席に就任。新生中国の指導者として、社会主義建設に着手していきます。
3.2 土地改革と社会主義化
建国直後の1950年、中国共産党は土地改革法 を公布しました。この改革では、地主の土地を没収し、農民に無償で分配。地主階級を消滅させ、農村の生産関係を一変させることになりました。
続く1953年には、ソ連型の計画経済を導入。第一次五カ年計画が始動し、国家主導で重工業部門を優先的に発展させる政策がとられました。さらに1956年までに、農業・手工業・私営工商業の社会主義改造が完了。ここに、中国社会の社会主義化が達成されたのです。
毛沢東の下で、中国は急速に社会主義体制を築き上げていきました。しかし、その過程では強引な手法がとられることも少なくなく、少なからぬ混乱と犠牲が生じたのも事実でした。
3.3 大躍進政策と失敗
1958年、毛沢東は大躍進政策を提唱します。これは、工業と農業の同時的かつ急速な発展を目指すものでした。全国の農村では「人民公社」が設立され、農民は土地や農具の私有を否定されました。
しかし、この政策は非現実的な目標設定と無理な増産計画によって、深刻な食糧不足を招くことになります。1959年から1961年にかけて、大規模な餓死者が発生。最終的に、数千万人が犠牲になったとも言われています。
1962年、党中央は大躍進の失敗を認め、政策の修正を余儀なくされました。毛沢東の強引な大躍進路線は、中国経済に大きな痛手を与え、社会の混乱を招いたのです。
大躍進の悲劇は、近代史上類を見ない大規模な飢饉でした。毛沢東の指導力に対する国内外の評価を大きく低下させる結果となった出来事と言えるでしょう。
4. 文化大革命と晩年
4.1 文化大革命の発動と経緯
1966年5月、毛沢東は「プロレタリア文化大革命」を発動しました。これは、党内の「ブルジョア反動路線」を批判し、プロレタリア独裁を強化することを目的としたものでした。
毛沢東の指示を受けて、若者たちは「紅衛兵」を結成。知識人や党幹部に対する批判闘争を展開しました。しかし、その過程で暴力や破壊行為が横行し、多くの混乱が生じました。
1969年4月の第9回党大会では、文化大革命の「成果」が確認されました。毛沢東は党内の実権を完全に掌握し、その権威は絶大なものとなったのです。
4.2 文化大革命の影響と終結
文化大革命は、中国社会に深刻な傷跡を残しました。党や国家機関は大きく混乱し、社会秩序は破壊されました。また、教育機関の停止により、人材育成にも大きな遅れが生じました。
経済面でも、文化大革命期の10年間は「失われた10年」と呼ばれるほど、発展が阻害されました。さらに、この革命闘争の中で、推定で数百万人もの人々が迫害を受け、多くの死者を出したと言われています。
1976年、四人組と呼ばれる毛沢東の側近たちが逮捕されたことで、文化大革命は終結しました。しかし、その後遺症は中国社会に長く残ることとなったのです。
4.3 晩年と死去
文化大革命後、毛沢東の健康状態は徐々に悪化していきました。1971年には、後継候補と目されていた国防相の林彪が失脚。これにより、毛沢東の党内での孤立化が進みました。
晩年の毛沢東は、政治の第一線から退き、静養生活を送りました。そして1976年9月9日、心臓発作のため北京で死去。享年82歳でした。
毛沢東の死は、文化大革命終結の象徴ともなりました。彼の死後、中国は改革開放路線へと大きく舵を切ることになるのです。
5. 毛沢東の思想と遺産
5.1 毛沢東思想の概要
毛沢東思想は、マルクス・レーニン主義を中国革命の実践の中で発展させたものです。その特徴は、次の3点にまとめられるでしょう。
- 毛沢東は農民を革命の主力とみなし、農村を革命の基点に位置づけた。中国の農村に根ざした革命理論を打ち立てた。
- 理論よりも実践を重視し、人民大衆の主体性を強調。大衆路線と呼ばれるこの方針は、文化大革命にも通じるものがある。
- 事物の矛盾する二つの側面の関係を重視する弁証法的な思考方法を取り入れた。毛沢東の唱えた矛盾論は、その代表例と言える。
このように、毛沢東思想は中国の現実を踏まえつつ、マルクス主義を独自に発展させた理論体系でした。それは中国革命の指導理論として大きな役割を果たしたのです。
5.2 現代中国への影響
毛沢東の死後、中国は改革開放路線へと舵を切りました。しかし、毛沢東思想は現在も中国共産党の指導思想であり続けています。
ただし、文化大革命など、毛沢東時代の過ちも深く反省されてきました。「毛沢東主義」と呼ばれる個人崇拝的な傾向からの脱却も図られたのです。
現在の中国では、毛沢東思想は「中国の特色ある社会主義」の理論的根拠の一部として位置づけられています。同時に、毛沢東は国父として尊敬され、今なお象徴的な存在となっているのです。
毛沢東の遺産は、光と影の両面を持っていると言えるでしょう。中国の発展を導いた一方で、多くの犠牲も生んだ毛沢東。その功罪は、中国の歴史の中で慎重に評価されるべきテーマだと言えます。
6. 確認テスト
問1.毛沢東は、( )年に中国人民共和国の成立を宣言した。
解答:1949
問2.毛沢東の理論に基づく最初の大規模な経済計画は、( )として知られている。
解答:大躍進政策
問3.毛沢東は( )の思想を基に、中国の文化や伝統に革命的変化をもたらそうとした。
解答:マルクス・レーニン主義
問4.毛沢東の下で実施された、伝統的な文化や知識人を対象とした政治運動は、( )と呼ばれている。
解答:四清運動
問5.毛沢東の指導下で、( )という農業生産の集団化が推進された。
解答:人民公社