ポルポトの生涯
若き日のポルポトとクメール・ルージュ結成
ポルポトことサロット・サーは1925年、カンボジアの富裕層の家庭に生まれました。優秀な学生だったポルポトは、1949年にパリに留学。そこで、マルクス主義思想に傾倒していきます。
帰国後の1960年代、ポルポトは反政府組織「クメール・ルージュ」を結成。アメリカによる大規模な爆撃など、カンボジア情勢の不安定化に乗じて勢力を拡大していきました。クメール・ルージュは、プノンペンのエリート知識層を敵視する一方、農村部の貧しい農民を重用する独特の組織でした。
独裁政権樹立と大量虐殺
1975年4月、クメール・ルージュはカンボジア全土を制圧し、ポルポトを最高指導者とする独裁政権を樹立。このポル・ポト政権の下で、徹底した共産主義政策と知識人の粛清が行われました。
ポルポトは都市住民を強制的に地方に移住させ、農業労働を強いるなど、過酷な統制を敷きました。この間、少なくとも150万人が飢えや過労、処刑によって命を落としたと言われています。知識人や反体制派への徹底的な弾圧は、カンボジアから教養層を一掃し、国の発展を大きく阻害しました。
以下の記事でポルポトについてより深く解説しています。
【徹底解説】ポルポト – カンボジアを恐怖に陥れた独裁者の生涯と虐殺ポルポト政権崩壊
ベトナム軍侵攻と政権崩壊
1977年末からベトナムとの武力衝突が激化したポルポト政権は、1978年12月のベトナム軍の全面侵攻を受けて瓦解へと向かいます。圧倒的な戦力差の前に、クメール・ルージュ軍は各地で敗走。1979年1月7日、ベトナム軍はプノンペンに無血入城し、ポルポト政権に終止符を打ちました。
ポルポト政権崩壊後、親ベトナム派のヘン・サムリン政権が樹立されます。しかし、ポルポト派の抵抗は続き、10年以上にわたる内戦状態が続くことになりました。この間、国際社会から孤立したカンボジアは、飢餓と政情不安に苦しめられました。
ポルポトの逃亡生活
政権崩壊とともにタイ国境へ逃れたポルポトでしたが、国際社会からの非難と指名手配を受けて、各地を転々とする逃亡生活を送ります。
1980年代を通じて、ポルポトは残存するクメール・ルージュ勢力を率いて反政府活動を続けました。しかし、1990年代に入ると、クメール・ルージュ内部の権力闘争が激化。1996年には、ポルポトの側近だったイエン・サリがクメール・ルージュの多数派を率いて政府側に投降したため、ポルポトの影響力は大きく低下しました。
さらに、1997年6月、ポルポトはかつての側近であるタ・モクとの権力闘争に敗れ、クメール・ルージュ残党から「裏切り者」のレッテルを貼られました。タ・モクはポルポトが秘密裏に政府との和平交渉を進めていたことを知り、ポルポトを粛清しようとしたのです。こうしてポルポトはアンロン・ベンの拠点で事実上の軟禁状態に置かれました。
カンボジア政府軍とクメール・ルージュの和平交渉が進む中、国際社会からの処罰を恐れたポルポトは、1998年4月、最後の拠点であるアンロン・ベンを離れ、ジャングルの奥地へと姿を消したのでした。
ポルポトの最期
カンボジア奥地のジャングルで死去
1998年4月15日、ポルポトがカンボジア北部のアンロン・ベンで死去したとの報道が世界を駆け巡りました。当時72歳だったポルポトは、クメール・ルージュ最後の拠点を離れた直後に死亡が確認されました。
ポルポトの死は、30年近くにわたるクメール・ルージュの抵抗、そしてカンボジア内戦の事実上の終結を意味するものでした。長年ポルポトの処罰を求めていた国際社会は、その死を受けて「20世紀最悪の独裁者の一人」と改めてポルポトを非難。一方で、責任追及の機会を失ったことで、カンボジアの人々の中には、晴れぬ恨みを残す形となりました。
死因をめぐる謎と諸説
ポルポトの死因については諸説が飛び交い、その真相は闇に包まれています。もっとも有力なのが心不全説で、長年の逃亡生活によるストレスが引き金になったのではないかと言われています。一方、毒殺説や自殺説なども取り沙汰され、ポルポトの死をめぐる謎は深まるばかりです。
ポルポトの遺体は荼毘(だび)に付され、その死は、彼の犯した罪の大きさとは対照的に、ひっそりと迎えられました。「殺人フィールド」と呼ばれたポルポト時代のカンボジアで、そのきっかけを作った独裁者が、歴史の闇の中に消えていったのです。