ムスタファ・ケマル・アタチュルク

ムスタファ・ケマル

ムスタファ・ケマルの簡単な解説!

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881-1938)は、オスマン帝国の将校であり、後のトルコ共和国初代大統領

第一次世界大戦後、オスマン帝国が連合国に敗れた際、ムスタファ・ケマルはトルコ民族主義を掲げ、祖国解放戦争を指揮。

1923年、ケマルはトルコ共和国を宣言し、大統領に就任。世俗主義近代化を進め、アラビア文字からローマ字へ表記を変更するなど、西欧化を推進。また、中立外交を掲げ、トルコの安定と発展に尽力し、トルコの父と呼ばれた。

ムスタファ・ケマルの生い立ちと軍人としての活躍

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ムスタファ・ケマルの生い立ちと軍人としての活躍
  • ムスタファ・ケマル1881年オスマン帝国領のサロニカに生まれ、軍学校で教育を受けた。
  • 第一次世界大戦ではガリポリの戦いで活躍したが、戦争末期にオスマン帝国は崩壊した。

サロニカで過ごした少年時代

ムスタファ・ケマルは1881年、現在のギリシャ領マケドニアの都市サロニカで生まれました。当時この地域はオスマン帝国の支配下にありました。父はミュスリムの木材商人、母はスラブ系ムスリムの女性でした。幼少期をサロニカで過ごし、早くから軍人になることを志していたと言われています。

将校教育を受けた青年期

軍人への夢を抱いて郷里を離れ、13歳でサロニカ軍学校に入学します。その後、モナスティルとイスタンブールの軍学校で学び、優秀な成績を修めました。1905年にはオスマン帝国陸軍士官学校を主席で卒業。参謀本部付となり、軍人としてのキャリアをスタートさせます。在学中に「ケマル(完璧な)」の名を獲得。ムスタファ・ケマルと呼ばれるようになりました。

第一次世界大戦での活躍と帝国の崩壊

第一次世界大戦が勃発すると、ムスタファ・ケマルは大佐に昇進し、ダーダネルス海峡に面したガリポリ半島の守備を担います。ガリポリの戦いでは、連合国軍の上陸を阻止することに成功。卓越した指揮能力を発揮し、国民的英雄となりました。しかし戦争の末期、オスマン帝国は敗戦国となり崩壊。故国は連合国軍に占領されるという危機に直面します。ムスタファ・ケマルは祖国再建のため、新たな戦いに身を投じることとなります。

トルコ独立戦争における活躍

トルコ独立戦争における活躍
  • ケマルは1919年にアナトリアに渡り、シヴァス会議で民族主義勢力を糾合して総司令官に就任
  • アンカラに新政府を樹立し、ギリシャ軍を撃破して独立

シヴァス会議と総司令官就任

敗戦で占領下に置かれたオスマン帝国の現状を憂えたムスタファ・ケマルは、1919年5月にサムスン港に上陸。アナトリア各地の抵抗勢力の結集を訴え、民族主義者を統合していきます。同年9月にはシヴァス会議を開催。独立のための闘争を進めることを決議し、民族主義勢力の総司令官に就任しました。

アンカラ政府樹立と大国民議会の開設

1920年4月、ムスタファ・ケマルはアンカラに新政府「トルコ大国民議会」を樹立スルタンに代わる正統な政府として独立運動の中心となります。議会はケマルを執政官に選出。汎イスラム主義に基づくオスマン帝国とは異なる、トルコ民族主義に立脚した近代国家の建設へと動き始めました。

ギリシャとの戦いと勝利

トルコ領土の割譲を狙うギリシャは、連合国の支援を受けて軍事侵攻を開始。ケマル率いるトルコ軍は劣勢ながら、ギリシャ軍を各地で撃破します。1922年8月の大攻勢で首都アンカラ目前まで迫られますが、サカリヤの戦いでケマルが勝利。9月にはイズミルを奪還し、小アジアからギリシャ軍を完全に追放しました。こうしてムスタファ・ケマルは、旧オスマン帝国領土の大半を回復。独立を勝ち取り、トルコ共和国建国への道を切り拓いたのです。

近代トルコ共和国の樹立とアタチュルク改革

近代トルコ共和国の樹立とアタチュルク改革
  • 1923年、トルコ共和国が宣言され、初代大統領に就任
  • 世俗主義を徹底し、「6つの矢」に基づく社会改革や文化の近代化を推進

共和制の宣言とムスタファ・ケマルの大統領就任

1923年10月29日トルコ共和国の樹立が宣言されました。ムスタファ・ケマルが国民議会で初代大統領に選出され、アンカラが新国家の首都と定められます。かつてのオスマン帝国とは異なる、単一民族による近代国民国家としての一歩を踏み出しました。

世俗主義の徹底と政教分離

ムスタファ・ケマルは、トルコの近代化のためにはイスラム法に基づく伝統的な体制からの脱却が不可欠と考えました。1924年カリフ制を廃止してイスラム法を否定政教分離を明確にし、国民の宗教の自由を保障する世俗主義を国家の基本原則としました。また、イスラム諸学校を閉鎖してフランス式の教育制度を導入。女性の社会進出を推し進めるなど、様々な世俗化政策を行いました。

6つの矢に基づく社会改革

新生トルコ共和国の指導原理として、ムスタファ・ケマルは「共和主義、国民主義、人民主義、国家主義、世俗主義、革命主義」の6つを「六つの矢としました。特に、オスマン帝国時代のイスラム的規範を排除し、国民の統合と近代化を目指す世俗主義は徹底して施行されました。

文化・教育面での近代化政策

言語の面でも、アラビア文字による表記を廃してラテン・アルファベットを公用文字に採用。学校教育を通じてラテン文字の習得を国民に義務付けました。また、オスマン帝国時代の男女別学を廃し、共学を義務化女性の社会的地位向上にも力を入れました。伝統的なイスラム服の着用を禁止し、近代的なファッションを奨励するなど、国民の生活様式の改革にも着手。西欧的で世俗的な新文化の創造を進めたのです。

外交政策と後継者の育成

重要ポイント!
  • ムスタファ・ケマルはソ連と友好関係を築く一方、欧州列強とも実利的な関係を維持
  • トルコ語の純化民族主義を高揚させ、イスメット・イノニュを後継者に指名

対ソ・対欧州外交のバランス

ムスタファ・ケマルは近代トルコの生存と発展のため、バランスの取れた外交政策を展開しました。かつての宿敵ロシア・ソビエト連邦とは友好関係を築き、1925年には中立条約を締結。一方で、イギリス、フランス、イタリアなど欧州列強とも、領土問題の解決や通商関係の改善を通じて実利的な関係を築きました。第二次世界大戦が迫る中、あくまで中立を保ち、トルコを戦禍から守ることに専念しました。

トルコ語の純化と民族主義の高揚

言語改革では、トルコ語からアラビア語・ペルシア語由来の語彙を一掃する「純化運動」を展開。学校でのアラビア語教育を禁止し、イスラム的・東洋的な言語の影響を排除していきます。代わって、中央アジアの古代トルコ語に由来する語彙を復活。「偉大なるトルコ語」の創造を目指しました。言語を通じてイスラムとの決別を図り、民族としてのアイデンティティの醸成に努めたのです。

イスメット・イノニュの後継者指名

晩年のムスタファ・ケマルは、盟友イスメット・イノニュを後継者に指名。イノニュは独立戦争でケマルの参謀を務め、首相や外相として政権を支えてきました。ムスタファ・ケマル没後の権力の空白と混乱を避けるため、後継体制を整えておく必要がありました。1938年11月10日、57歳でこの世を去ったムスタファ・ケマルの遺志を継いで、イノニュが第ニ代大統領に就任しました。

確認テスト

トルコ独立戦争の主な戦いでケマルが勝利した相手国は?
a.ギリシャ
b.イギリス
c.ロシア

解答: a.ギリシャ

アタチュルク改革の基本原則「6つの矢」に含まれないのは?
a.共和主義
b.自由主義
c.世俗主義

解答:b.自由主義(6つの矢は共和主義、国民主義、人民主義、国家主義、世俗主義、革命主義)

ケマルが後継者に指名したのは誰?
a.アドナン・メンデレス
b.イスメット・イノニュ
c.ジェラル・ギュルセル

解答:b.イスメット・イノニュ