朝鮮の近代化に情熱を燃やした改革者、金玉均。儒学者から開明的政治家へと変貌を遂げた波瀾の生涯は、東アジアの国際情勢に翻弄された朝鮮知識人の宿命を映し出します。急進的な革新運動は挫折したが、その理想は今に脈々と受け継がれています。本記事ではそんな彼の生涯をたどっていきましょう!
金玉均とは?朝鮮の開化を目指した政治家
開化思想に目覚めた青年時代
金玉均は1851年、朝鮮の両班(特権階級)の家に生まれました。幼少期より儒学を学び、科挙試験にも合格するなど才能を発揮しました。1881年、修信使の一員として日本に渡り、文明開化の進んだ日本社会に感銘を受けます。ここで金玉均は福沢諭吉らと交流し、欧米の近代思想や技術を朝鮮に導入する必要性を痛感しました。。
金玉均が目指した開化思想の柱は以下の3点である。
- 朝鮮の伝統的な身分制度を撤廃し、人材登用の機会を広げる
- 欧米の科学技術を積極的に取り入れ、産業の近代化を図る
- 中国への事大主義を脱し、日本と連携して独立国家を目指す
帰国後、金玉均は朝鮮社会の改革に乗り出しますが、保守勢力の反発は根強かったです。しかし、彼の情熱と行動力に多くの若者が共鳴し、次第に開化派は勢力を拡大していきました。
朝鮮の近代化に奔走した政治家時代
1884年、金玉均は香港で朴泳孝、徐載弼らと会談し、急進的な改革を目指す開化党を結成しました。同年12月、開化派は閔氏政権打倒のクーデター(甲申政変)を決行しましたが、清国軍の介入により3日で鎮圧されました。金玉均は日本に亡命し、伊藤博文の庇護を受けつつ朝鮮改革の方策を練りました。
甲申政変後、朝鮮をめぐる国際情勢は大きく変化しました。日本は朝鮮の独立を支持しましたが、清国とロシアは朝鮮への影響力を強めようとしました。欧米列強も朝鮮の利権をめぐって角逐し、朝鮮は列強の思惑が交錯する場となりました。金玉均は各国を行き来し、朝鮮の君主や政府要人に進言しましたが、保守派の抵抗は根強く改革は遅々として進みませんでした。
金玉均が目指した改革の骨子は次の通りです。
- 中央集権体制を確立し、近代的な法制度や税制を整備する
- 租税・兵役の公平化を図り、特権階級の既得権を剥奪する
- 商工業を振興し、殖産興業・富国強兵を推し進める
- 欧米の教育制度を導入し、実学を奨励して人材を育成する
しかし、朝鮮国内の親清派・ロシア派・保守派が改革に反発し、開化派は苦境に立たされました。日清戦争後、日本の朝鮮進出が本格化すると、金玉均の立場はさらに難しいものとなりました。
変革の志半ばで倒れた最期
1894年に上海で金玉均は閔氏の刺客によって暗殺されてしまいます。享年は43歳でした。この年には東学農民運動と甲午改革が発生し、騒乱の年でした。
1895年10月、親日派の興宣大院君が襲撃され、閔妃が殺害される事件が発生しました。朝鮮国内では金玉均の指示を受けた独立協会員の犯行との噂が広まりましたが、真相は闇に包まれています。
金玉均は志半ばで倒れましたが、彼の残した功績と教訓は後世に大きな影響を与えました。近代学校の設立、ハングル普及運動、民権伸張の土壌づくりなど、朝鮮の近代化を推し進めた功績は大きいといえるでしょう。一方で、過激な改革姿勢が反発を招いたことは、為政者の心構えを考えさせられる教訓でもあります。金玉均の生涯は、理想と現実の板挟みで苦悩した近代アジアの知識人の典型とも言えます。彼の残した言葉「我心則君心」(私の心は君の心)は、祖国愛と犠牲の精神の象徴として、今も朝鮮半島で語り継がれています。
金玉均の業績と歴史的評価
朝鮮の近代化に与えた影響
金玉均が主導した開化思想は、朝鮮の近代化に大きな影響を与えた。旧来の身分制度や因習・特権を打破し、民衆の政治参加を促す機運を高めた。近代学校の設立によって人材育成の基盤が整い、実学を重んじる学風は社会の活力となった。
また、金玉均は朝鮮語の独自性を認め、ハングルの普及に尽力した。それまでハングルは女性や庶民の文字とされ、漢文に比して低く見られていたが、彼の運動によって公文書でもハングルが使われるようになり、民族のアイデンティティ形成に役立った。
しかし、急激な改革への保守層の反発は根強く、甲申政変の失敗は開化運動の限界を示すものでもあった。朝鮮の伝統的価値観や国際情勢を考慮せず、過激な改革を性急に進めたことが仇となった。また、日本への傾斜が強まるにつれ、朝鮮の自主性を損ねるとの批判も高まった。
後世に残した功績と教訓
金玉均の志は後の独立運動にも引き継がれ、彼は民族の先覚者として称えられるようになった。大韓帝国期の独立協会は、彼の遺志を継いで民衆啓蒙に努め、言論の自由と民権意識の高揚に貢献した。また、彼の唱えた自主独立の理念は、日本の植民地支配に抵抗する原動力ともなった。
一方、金玉均の非業の死は、近代アジア国際政治の荒波に翻弄された知識人の悲哀を物語っている。開明的とはいえ、権力闘争に巻き込まれた彼の姿は、理念と現実のジレンマに悩む為政者の宿命を示している。暗殺という非道な手段が横行した時代相を、彼の最期は象徴しているとも言えよう。
金玉均の功罪は、近代化の荊棘の道を歩んだ朝鮮の歴史そのものでもある。彼の志は結実することなく散ったが、その理想は後世の人々の心の中に脈々と受け継がれている。今日の韓国の繁栄は、かつて金玉均が胸に描いた文明開化の理想が結実したものと言えるかもしれない。
試験で問われる重要ポイント
金玉均の生涯と朝鮮史上の位置づけ
金玉均は朝鮮王朝末期、開化思想を主導した政治家でございます。両班の家に生まれ、幼少期から儒学を修められました。1881年の日本留学で福沢諭吉らと交流し、文明開化の理想に燃えられました。帰国後は急進的な改革を目指す開化党を結成されました。甲申政変を主導されましたが失敗に終わり、日本に亡命されました。その後も変革運動を続けられましたが、1894年に43歳で非業の死を遂げられました。 金玉均の志は結実いたしませんでしたが、彼の理想は後の独立運動にも受け継がれました。旧弊打破、人材登用、自主独立の思想は、朝鮮の近代化と民族意識の覚醒に大きな影響を与えたと評価されております。一方で、過激な改革姿勢が反発を招いたことは、為政者の在り方を考えさせる教訓とも言えます。東アジアの国際情勢に翻弄された金玉均の生涯は、近代化の荊棘の道を歩んだ朝鮮知識人の悲哀の物語でもございます。
甲申政変の原因と結果
甲申政変は1884年、金玉均ら急進開化派が起こされたクーデターでございます。朝鮮国内の保守勢力を打倒し、朝鮮の近代化と自主独立を目指されました。しかし、事前に決起計画が露見したため閔氏政権の警戒を招き、さらに清国軍の介入もございまして、わずか3日間で鎮圧されました。 甲申政変の背景には、朝鮮をめぐる列強の角逐と王朝内の勢力争いがございました。日本は朝鮮の近代化を支持されましたが、清国は朝鮮への宗主権を主張し改革を牽制されました。国内では、開化派と守旧派が朝廷の実権を巡って対立を深めておりました。変革を急がれる金玉均らは武力蜂起に訴えられましたが、国内外の情勢を見誤られた感は否めません。
甲申政変の失敗は、朝鮮の開化運動に大きな打撃を与えました。金玉均ら主要メンバーは国外追放となり、国内の改革勢力は弾圧されました。親清派が勢いを増す一方、日本の干渉も強まり、朝鮮の自主性は損なわれていきました。保守勢力も改革の必要性を認識されましたが、急進的な変革は忌避されるようになりました。甲申政変は朝鮮史の転換点となりましたが、その後の歴史を考えますと、時期尚早の感は拭えません。
日清戦争前後の東アジア情勢
甲申政変後の10年間は、朝鮮をめぐる国際関係が大きく変化した時期でございます。日本は1876年の江華島条約以来、朝鮮の近代化と開国を推し進めてまいりました。他方、清国は朝鮮の宗主国としての立場を守ろうとされました。ロシアもシベリア鉄道建設を控え、朝鮮の不凍港に関心を示しておりました。欧米列強も貿易の利権を求めて朝鮮に接近し、朝鮮は列強の角逐する国際舞台と化しました。 こうした状況下、1894年に朝鮮では東学農民運動が勃発し、援軍をめぐる日清の対立が先鋭化いたしました。結果、日清戦争が勃発し、1895年の下関条約で日本が勝利を収められました。清国の朝鮮宗主権は否定され、代わって日本の影響力が強まりました。戦後、日本主導の甲午改革が行われましたが、三国干渉で日本は朝鮮から手を引かざるを得なくなりました。以後、親露派が台頭する一方、日本は義兵闘争の鎮圧などで存在感を示しました。
日清戦争を機に朝鮮の国際的地位は大きく変化いたしましたが、列強の角逐は新たな局面を迎えました。ロシアは南下政策を強め、日本は大陸進出の足掛かりを求められました。朝鮮は両国の緩衝地帯となり、自主性を発揮する余地は狭められました。東アジアの国際秩序が激変するなか、朝鮮は主体的な近代化を模索されましたが、列強の思惑に翻弄される宿命を免れませんでした。
朝鮮の開化と反発勢力の対立構図
金玉均に代表される開化派は、朝鮮の近代化を目指して旧弊打破を訴えられました。身分制度の撤廃、人材登用、殖産興業など、急進的な改革案を提示されました。また、自主独立のため、伝統的な事大主義を脱し、欧米の国際法に基づく対等な外交を唱えられました。しかし、彼らの主張は保守勢力の根強い反発を招きました。 開化派に反発されたのは、既得権益を守ろうとする両班層や親清派の勢力でございました。彼らは儒教的な華夷秩序を重んじ、中国への事大の伝統を守ろうとされました。非人道的とはいえ、身分制度は社会の安定装置とみなされ、その撤廃には難色を示されました。外交面でも、欧米との条約締結には消極的で、開国は華夷思想の放棄につながると危惧されました。
こうした守旧層に対し、開化派は様々な手段で変革を迫られました。民衆に向けた言論活動や、近代学校の設立による教育を通じて、開化の理想を広められました。また、甲申政変に見られるように、クーデターによる武力闘争も辞さずにおられました。甲申政変の失敗後は、独立協会など公然組織を通じて世論喚起に努められました。
しかし、急進的な改革運動は国論を二分し、かえって社会の混乱を招く面もございました。伝統と近代化の調和を図る漸進的改革派も、開化派の強硬姿勢には批判的でございました。他方、列強の干渉に憂慮した穏健派は、開化と独立を両立するバランス外交を志向されました。朝鮮の近代化をめぐっては、二項対立的な構図だけでは捉えきれない複雑な力学が働いていたのでございます。
確認テスト
問1. 金玉均が幼少期に学んだ学問は何か。
a. 儒学 b. 兵学 c. 蘭学 d. 洋学
解答:a. 儒学
問2. 金玉均が修信使の一員として訪れた国はどこか。
a. 中国 b. 日本 c. アメリカ d. イギリス
解答:b. 日本
問3. 金玉均が目指した開化思想の内容として当てはまらないものはどれか。
a. 身分制度の撤廃 b. 科学技術の導入 c. 中国への服従 d. 人材登用の機会拡大
解答:c. 中国への服従
問4.甲申政変後、金玉均が亡命した国はどこか。
解答:日本
問5. 甲申政変に介入した国はどこか。
a. 日本 b. 清国 c. ロシア d. アメリカ
解答:b. 清国
問6. 日清戦争の結果、朝鮮で行われた改革は何か。
a. 壬午改革 b. 甲午改革 c. 乙巳改革 d. 己酉改革
解答:b. 甲午改革