プロイセン王国を欧州の強国へと導いた名君フリードリヒ2世。「フリードリヒ大王」の名で知られるこの啓蒙君主は、18世紀のプロイセンに黄金時代をもたらしました。戦争での勝利と領土拡張、大胆な国内改革と産業振興、芸術文化の振興など、多岐にわたる彼の業績は今なお人々を魅了してやみません。厳格な父との確執から、孤独な青年期を過ごしたフリードリヒ2世が、どのようにして「国家の僕」たる覚悟を固めていったのか。波乱に満ちた生涯と、プロイセンの近代化を促した政策の数々を、10の論点で解き明かします。
フリードリヒ2世とは?
プロイセン王にして神聖ローマ皇帝
フリードリヒ2世(1712-1786)は、ホーエンツォレルン朝プロイセン王国の国王(在位1740-1786)であり、神聖ローマ帝国の皇帝を兼ねた君主でした。即位してから彼の死に至るまでの46年間、プロイセンの絶対王政を確立し、国力を大幅に高めました。
「大王」の称号を与えられた啓蒙専制君主
当時の啓蒙思想を取り入れ、上からの改革を断行したフリードリヒ2世は「啓蒙専制君主」の代表とされています。戦争での活躍と合わせ「フリードリヒ大王」と呼ばれ、卓越した軍事的手腕と行政手腕から、プロイセンを一地方国家から欧州の強国へと押し上げました。
フリードリヒ2世の生涯
厳格な父の下での苦難の青年時代
フリードリヒ2世は、行財政改革を進めた先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の下、スパルタ式の厳しい教育を受けて育ちました。父子の確執から、フリードリヒは一時期国外逃亡を企てるも、発覚して投獄されるなど、波乱に満ちた青年期を過ごしました。
即位後の政治改革と国力増強
1740年に国王に即位すると、フリードリヒ2世はさっそく改革に乗り出しました。重商主義経済の促進、行政組織の効率化、法制度の近代化など、国力増強に向けたさまざまな政策を矢継ぎ早に実施。また文化面でも、宗教的寛容策を打ち出すなど、啓蒙思想に基づく開明的な姿勢を示しました。
対外政策と戦争
オーストリア継承戦争での領土拡大
フリードリヒ2世は即位直後の1740年、オーストリアのハプスブルク家断絶の混乱に乗じ、シュレージエン地方に侵攻しました。1742年のブレスラウ和約でシュレージエンの割譲を認めさせ、プロイセンの領土拡張に成功。これが「オーストリア継承戦争」の発端となりました。
七年戦争におけるプロイセンの勝利
シュレージエン獲得に脅威を感じたオーストリアは、ロシアやフランスと同盟を結び、プロイセンに宣戦布告。1756年に勃発した「七年戦争」では、フリードリヒ2世の俊敏な指揮により、プロイセン軍は連合軍を撃破しました。1763年のフーベルトゥスブルクの和約で、プロイセンはシュレージエンの割譲を正式に認められ、勢力を拡大しました。
国内政策と啓蒙専制
重商主義と産業振興策
フリードリヒ2世は重商主義経済の促進に力を注ぎ、国内産業の保護と育成を図りました。特に農業では、土地の開墾や干拓を奨励し、生産性の向上に努めました。また官営工場の設立や技術者の招聘により、工業化を推し進めるとともに、関税政策で国内市場の発展を後押ししました。
宗教的寛容政策と法整備
啓蒙思想の影響を受けたフリードリヒ2世は、信教の自由を尊重し、カトリックとプロテスタントの平等な扱いを保証しました。「私の国では、各人が自分の方式で救われればよい」という言葉に象徴されるように、寛容な宗教政策を推進。また、『プロイセン一般ラント法』の編纂を命じ、法の下の平等の理念を打ち出しました。
芸術家・思想家としてのフリードリヒ
ヴォルテールなど知識人との交流
フリードリヒ2世は、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと親交を結び、書簡を交わしました。ベルリン郊外のサンスーシ宮殿には、詩人や哲学者を招いて議論を交わすサロンが設けられ、フリードリヒ自身もしばしば参加して見識を深めました。こうした知的交流が、寛容な政策立案の源泉となったのです。
フルート奏者としての音楽的才能
芸術を愛したフリードリヒ2世は、みずからフルート奏者としても活躍しました。毎晩曲を作るほどの情熱を注ぎ、若い頃には一日に4、5時間の練習を欠かしませんでした。宮廷音楽家のクヴァンツに師事し、難曲をこなすほどの腕前に。フリードリヒが残した121のフルート・ソナタと4つの協奏曲は、楽聖J・S・バッハも賞賛したと伝えられています。
フリードリヒ2世の歴史的評価
プロイセン勢力の確立と近代化への貢献
フリードリヒ2世の治世は、プロイセンの勢力拡大と国力増強の時代でした。戦争での勝利により領土を広げ、中央集権化と官僚制の確立で国家の効率化を推し進めました。啓蒙専制の下での政治・経済・文化面での改革は、プロイセンの近代化の礎を築いたと評価できるでしょう。
戦争と専制政治をめぐる評価の分かれ目
一方で、シュレージエン獲得を目的とした戦争の是非や、強権的な政策運営への批判も存在します。「国家は法と秩序の番人」と述べながらも、法の上に立つ専制君主でもあったフリードリヒ2世。啓蒙思想の実践者であると同時に、絶対王政の強化者でもあった彼の統治は、相反する評価を生んでいます。
試験で問われる重要ポイント
- プロイセン台頭の背景とフリードリヒ2世の果たした役割、啓蒙専制の特徴などを整理。
- オーストリア継承戦争・七年戦争の影響と、プロイセンを取り巻く国際情勢の変化を押さえる。
プロイセン台頭の背景とフリードリヒ2世の役割
- オーストリア継承戦争と七年戦争でのプロイセンの勝利と領土拡大
- 中央集権化と官僚制の確立によるプロイセンの国力増強
- 重商主義政策と産業振興によるプロイセン経済の発展
フリードリヒ2世の啓蒙専制の特徴
- 法の整備と近代的統治システムの導入
- 宗教的寛容政策と信教の自由の保証
- 教育の振興と学問・芸術の奨励
オーストリア継承戦争・七年戦争の影響
- プロイセンとオーストリアのライバル関係の先鋭化
- ロシア・フランスを巻き込んだヨーロッパ規模の戦争へ
- イギリスとの同盟関係の深化
確認テスト
問1 フリードリヒ2世がプロイセン王に即位した年はいつか。
1740年
問2 フリードリヒ2世が獲得を目指した、オーストリア領内の地方名は何か。
シュレージエン
問3 啓蒙専制君主としてのフリードリヒ2世の政策の特徴を2つ挙げよ。
(1)宗教的寛容政策の推進、(2)法制度の近代化