【アッティラ完全ガイド】フン族の王の生涯・業績・歴史的意義を徹底解説!

アッティラ

必ず押さえるべき重要ポイント!

アッティラは、5世紀フン族の王となった人物です。生没年ははっきりしませんが、406年頃に生まれ、453年に没したと考えられています。「神の鞭」という別名で知られ、東ローマ帝国や西ローマ帝国と外交関係を持ちました。

アッティラは、東ゴート人を支配下に置き、ローマ帝国に大打撃を与えました。451年のカタラウヌムの戦いでは、西ローマ帝国軍と対峙しましたが決着はつきませんでした。翌年にはイタリア半島に侵攻し、ローマ教皇レオ1世との交渉により撤退しました。

フン族の視点から見ると、アッティラの下でフン族は最盛期を迎え、ヨーロッパの広い地域を支配下に置きました。アッティラの死後、フン族は勢力を急速に失っていきました。

アッティラとは?フン族の王の基本プロフィール

アッティラのプロフィール画像
重要ポイント!
  • 中央アジア出身の遊牧民・フン族の王で、406年頃〜453年の生涯を送る
  • 幼少期にローマ人の人質となった経験を持ち、20代半ばで単独の王位に就いた

アッティラの出身と生い立ち

アッティラは、406年頃に中央アジアの遊牧民であるフン族の王家に生まれました。父はフン族の王ムンドゥックです。幼少期にはローマに人質として送られ、ローマ文化に触れる機会を得ました。 20代半ばでフン族の共同統治者に就任し、やがて単独の王としてフン族を率いるようになります。在位期間は434年から453年までの約20年間で、この間にフン族は大きな勢力を築き上げました。 アッティラは生涯独身を通し、453年に自らの結婚式の夜に鼻血が喉に入ったことが原因で急死したと伝えられています。享年は47歳前後とされ、比較的短い生涯でしたが、ヨーロッパ史に大きな足跡を残しました。

フン族について知っておくべき基礎知識

アッティラが率いたフン族は、中央アジア出身の遊牧民族です。4世紀後半になると、フン族は西方への大移動を開始します。 フン族最大の強みは、その高い機動力を誇る騎馬軍団でした。当時の他民族の歩兵中心軍とは一線を画す存在で、いくつものゲルマン民族を従えながら勢力を拡大していきました。 5世紀に入るとフン族はローマ帝国領内に進出し、ヨーロッパ各地で活発に活動します。他民族を圧倒する軍事力によって周辺諸国を脅かし、東ローマ帝国などから多額の貢物を得ていました。 特に、5世紀中頃のアッティラ統治下で、フン族は全盛期を迎えます。ローマ帝国をしのぐ勢力として君臨し、ヨーロッパ情勢を大きく動かしたのです。

アッティラの業績①:軍事的功績と勢力拡大

重要ポイント!
  • 高い機動力を誇る騎馬軍団を率いて、東ローマ帝国方面に幾度となく侵攻
  • 帝国に臣従を強いて多額の貢物を得るなど、周辺諸国を圧倒した

東ローマ帝国を脅かした対外遠征

アッティラは440年代、東ローマ帝国方面への大規模な遠征を繰り広げました。東ローマ帝国の各地を攻略し、帝国に大きな脅威を与えました。 特に、バルカン半島方面には幾度となく侵攻し、略奪を行っています。これによって東ローマ帝国からは多額の貢物を獲得しました。帝国の首都コンスタンティノープル付近にまで進軍した時期もありましたが、要求を飲む形で東ローマ側との講和に応じ、撤退しています。 アッティラ率いるフン族の騎馬軍団は、機動力に優れ、敵を各個撃破する戦術で各地を攻略しました。東ローマ帝国はフン族の軍事力の前に屈服を余儀なくされたのです。

ローマ帝国との緊張関係と和平交渉

アッティラとローマ帝国の関係は、常に緊張を孕んでいました。450年には、西ローマ皇帝の妹ホノリアから、婚姻と帝国統治の申し出がアッティラに届きます。しかしローマ側はホノリアの申し出を否定し、両者の緊張が一気に高まりました。 ローマ帝国は対フン戦争の回避を望み、使節団をアッティラの下に派遣します。交渉の末、ローマ側が譲歩する形で和平が成立しました。この時、歴史家プリスクスがアッティラの王宮を訪れ、その様子を記録に残しています。 アッティラはフン族の軍事力を背景に、ローマ帝国に対して常に強気の外交姿勢を貫きました。皇帝に匹敵する権威を持つ存在として、ローマ帝国と渡り合ったのです。

アッティラの業績②:ヨーロッパ情勢への影響力

重要ポイント!
  • フン族の西進がゲルマン諸民族の移動を促し、民族大移動の時代の引き金に
  • ゲルマン民族との同盟・敵対関係を軸に、ヨーロッパ情勢を大きく左右した

民族大移動を促進したアッティラの存在

アッティラ率いるフン族の活動は、当時のヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。とりわけ、民族大移動の促進において、アッティラの存在は看過できません。 フン族の西方進出は、ゲルマン諸民族などを刺激し、次々に新天地を求めて移動させる引き金となりました。ゲルマン民族の西ローマ帝国領内への大規模な移住は、フン族の脅威と無関係ではありません。 ゲルマン人の流入は西ローマ帝国の弱体化を促し、帝国の衰退とゲルマン諸国家の台頭へとつながっていきます。アッティラはローマ帝国だけでなく、広くヨーロッパ全土の情勢に影響を与えたのです。 アッティラ自身も、単にローマ帝国との抗争だけでなく、各地を転戦しながらダイナミックに活動しました。中部ヨーロッパを中心に、ときにゲルマン民族と同盟し、ときに対立するなど、民族間の力関係をも動かしたのでした。

ゲルマン民族との同盟と対立

アッティラ統治下のフン族は、複数のゲルマン民族と同盟関係を築いていました。例えば、東ゴート族などはフン族の傘下に入り、有力な軍事力となりました。 フン族にとって、ゲルマン民族は対ローマ戦を有利に進めるための重要なパートナーだったのです。傘下のゲルマン人を治めることで、より大規模な軍勢を動員することが可能になりました。 その一方で、フン族と対立するゲルマン民族もありました。ローマと組むゲルマン人と戦闘になることもあり、ゲルマン民族の間でもフン族への態度は一枚岩ではありませんでした。 アッティラ率いるフン族のヨーロッパでの活動は、ゲルマン民族との同盟と対立を軸に展開されました。ローマとの戦いの中でも、ゲルマン人は同盟軍、あるいは敵対勢力として登場したのです。

カタラウヌムの戦い:アッティラの運命を分けた一戦

重要ポイント!
  • ガリア遠征を試みたアッティラ軍が、東西ローマ連合軍・ゲルマン人部隊と衝突
  • 激戦の末に引き分けとなるが、アッティラにとっては初の本格的敗北となった

東西ローマ帝国の連合軍VS.アッティラ軍の戦い

451年、絶頂期のアッティラ率いるフン族はガリア(現在のフランス)方面への大規模な遠征に乗り出します。これに危機感を抱いた東西両ローマ帝国は、連合軍を結成してアッティラに立ち向かいました。
ローマ軍には多数のゲルマン人部隊も参加し、ローマ軍とゲルマン人の混成部隊がアッティラ軍と対峙することになりました。両軍はガリア北部のカタラウヌムの野で衝突し、一大決戦となったのです。
戦いは熾烈を極め、双方に多数の死傷者が出ました。アッティラ軍の中核をなすフン族の騎兵と、ローマ・ゲルマン連合軍の歩兵・騎兵が入り乱れての消耗戦が続いたと伝えられています。
この戦いはアッティラにとって初の大規模な敗北となる可能性を孕んだ、重要な戦いでした。

戦いの勝敗と歴史的意義

カタラウヌムの戦いは、結果的には引き分けに終わりました。決定的な勝敗はつかず、アッティラ軍は戦闘後に撤退しています。 ローマ・ゲルマン連合軍は壊滅は免れましたが、大きな被害を受けており、積極的な追撃はできませんでした。とはいえ、西ローマ帝国にとってはフン族の本格的なガリア侵入を食い止めた意義のある戦いでした。 一方、アッティラにとってカタラウヌムの戦いは、初めて経験した大規模な敗北でした。東西ローマの連合およびゲルマン人を相手に苦戦を強いられ、その後のフン族衰退の端緒となった戦いと言えるでしょう。 カタラウヌムの戦いは、当時のヨーロッパ情勢を大きく左右する一大事件でした。フン族の西進を遅らせ、西ローマ帝国の命脈を保ったという点で、この戦いの歴史的意義は大きいのです。

アッティラの最期と後継者たち

重要ポイント!
  • 453年、結婚式の夜に急死したアッティラの死因には諸説ある
  • 後継者争いと諸民族の反乱でフン族は急速に衰退し、「アッティラ帝国」は瓦解した

アッティラ急死の謎と諸説

453年、アッティラはある王女との結婚式の夜に急死します。伝承によると、酒に酔って寝込んだアッティラの鼻血が喉に詰まったことが原因とされています。 しかし、アッティラが政敵に毒殺されたのではないかとの説も根強くあります。強大な権力を握る人物の突然の死であったため、陰謀説が流れるのは自然なことでしょう。 アッティラの死の真相は、今なお謎に包まれています。当時のフン族に記録を残す習慣がなかったことから、真相の解明は難しいと言わざるを得ません。 いずれにせよ、フン族全盛の立役者であったアッティラの急死は、フン族にとって大きな痛手となりました。

フン族の衰退とアッティラ帝国の崩壊

アッティラ死後、複数の息子たちによる後継者争いが繰り広げられます。だがどの息子も、アッティラほどの力量と求心力は備えていませんでした。 息子たち同士の内紛に加え、フン族の支配下にあった諸民族の反乱が相次ぎます。かつてアッティラの下で恐れられた強大なフン族も、急速にその勢いを失っていったのです。 アッティラ時代の統一は、あっけなく崩れ去りました。単にアッティラ個人の力によって保たれていた「帝国」は、その死とともに瓦解へと向かったのでした。 西暦460年代には、フン族の勢力は完全に衰退します。アッティラが作り上げた帝国は、わずか10数年で滅亡したのです。彼の「帝国」はアッティラという稀代の指導者なくしては存続し得なかったと言えるでしょう。

アッティラの歴史的評価と後世への影響

重要ポイント!
  • アッティラ像は時代によって変遷し、残虐な異教徒の王と英雄の両面が併存
  • 近代以降は民族の指導者としての再評価が進み、さまざまな芸術分野でも取り上げられた

アッティラをめぐる歴史の謎と論争

アッティラという人物をめぐっては、さまざまな議論が行われてきました。アッティラの人物像や性格については、残虐で野蛮な蛮族の王というイメージと、傑出した軍事的・政治的手腕を備えた指導者というイメージが併存しています。 また、フン族の起源や移動の経緯など、アッティラ時代のフン族の実態には不明な点が多く残されています。遊牧民であったフン族は自ら記録を残すことが少なく、周辺の定住民の記録に頼るしかないのが実情です。 加えて、アッティラは死後、伝説上の人物としても語り継がれてきました。史実として裏付けられる部分と、伝承として脚色された部分の区別は困難を極めます。 アッティラという稀代の人物だけに、未解明の謎に満ちているのです。一つの定説を提示することが難しい、魅力的な歴史上の人物と言えるでしょう。

文学・芸術作品に描かれたアッティラ像の変遷

初期の文献、特にローマ側の記録では、アッティラは残虐な異教徒の王として描かれることが多くあります。キリスト教世界の敵という色合いが強く、ネガティブなイメージが先行しています。 一方、中世のゲルマン民族の間では、英雄叙事詩などでアッティラを英雄視する向きもありました。『ニーベルンゲンの歌』などでは、ゲルマン民族の指導者としてのアッティラ像が見られます。 近代以降は、アッティラを単なる残虐な王ではなく、民族の指導者として再評価する見方が主流になりつつあります。フン族の王としての手腕が見直され、権力者としてのアッティラ像が語られるようになってきたのです。 19世紀以降、アッティラは文学、オペラ、絵画など、幅広い芸術分野で取り上げられるようになります。ただ一つの評価にとらわれない、複雑な人物像が追求されてきました。 アッティラは、時代によって大きくイメージを変えてきた人物だと言えるでしょう。現在でも多様な角度から光が当てられ、新たな解釈の対象となり続ける歴史上の人物なのです。

試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント!
  • アッティラの業績として、ローマへの軍事的圧力、民族大移動の促進などが重要
  • カタラウヌムの戦いの経緯と結果は、アッティラ評価を占う分水嶺となった

アッティラの業績と歴史的意義

アッティラが率いたフン族は、当時の東西ローマ帝国に大きな軍事的圧力をかけました。特に東ローマ帝国への侵攻と和平交渉は、アッティラの代表的な業績と言えるでしょう。 また、フン族の西進が、ゲルマン諸民族の移動を促進したことも重要なポイントです。アッティラの活動が民族移動の時代の引き金となったと考えられています。 アッティラ時代のフン族は、まさに全盛期にありました。強大な軍事力を背景に、ローマ帝国に服属を迫るなど、その勢力は絶大でした。ヨーロッパの覇者として君臨したのです。 さらに、カタラウヌムの戦いでは、東西ローマの連合軍とゲルマン人部隊を相手に、アッティラ軍は善戦しました。結果は引き分けに終わりましたが、ローマ軍を相手に伍していたことは注目に値します。

民族大移動とアッティラの関係

5世紀のヨーロッパで起こった民族大移動は、アッティラ率いるフン族の動向と深く関わっています。フン族の西方進出が、ゲルマン諸民族の移動を促す大きな原動力となったのです。 ゲルマン人の多くが、フン族に押されるようにして西ローマ帝国領内に流入しました。西ローマ帝国の「蛮族化」が急速に進み、帝国衰退の一因となっていくのです。 アッティラは、各地のゲルマン民族と同盟を結ぶ一方で、敵対するゲルマン人とも戦いました。ローマとの戦いの中でも、ゲルマン人は同盟軍あるいは敵軍として登場しています。 こうしたアッティラとゲルマン民族の関係が、当時のヨーロッパ情勢を大きく左右したと言えるでしょう。間接的にではありますが、アッティラは西ローマ帝国衰退の遠因を作ったとも考えられるのです。

カタラウヌムの戦いの経緯と結果

451年、絶頂期のアッティラ軍はガリア遠征に乗り出しました。これに対して東西ローマ帝国が協調し、ゲルマン人の助力も得て、大規模な連合軍を編成します。 連合軍とアッティラ軍は、ガリア北部カタラウヌムの野で衝突しました。激戦の末、両軍に多数の死者が出る消耗戦となり、決着はつきませんでした。 戦いは引き分けに終わりましたが、アッティラは撤退を余儀なくされます。戦況から判断して、追撃を恐れたのだと考えられています。 このカタラウヌムの戦いは、アッティラ率いるフン族にとって、初の本格的な敗北となりました。東西ローマが結束し、ゲルマン人の力も借りた連合軍の前に、苦戦を強いられたのです。
アッティラの「無敵」神話は崩れ、その後のフン族衰退の端緒となったと言われています。フン族の勢いは徐々に衰え、アッティラ死後は急速に弱体化していくことになります。
カタラウヌムの戦いは、西ローマ帝国がフン族の脅威を退けた記念碑的な戦いとなりました。ただし、国力の低下は続き、フン族に代わってゲルマン諸民族の台頭を許す結果ともなったのです。
いずれにせよ、カタラウヌムの戦いは、当時のヨーロッパ情勢の転換点となった一大事件でした。アッティラの全盛期から衰退への流れを作り出した戦いと位置付けられています。

確認テスト

選択式・穴埋め式の問題で知識定着度をチェック

ここまでの内容を踏まえて、アッティラと民族移動の時代について理解度を確認しましょう。以下の選択式・穴埋め式の問題に挑戦してみてください。

問1. アッティラの出身民族である「フン族」の故地はどこか?
a. 中央アジア
b. 北アフリカ
c. 東ヨーロッパ
d. 中東

解答:a

問2. 5世紀のフン族の活動は、現在の(  )付近にまで及んだ。
a. ドイツ
b. ポーランド
c. イタリア
d. バルカン半島

解答:d

問3. アッティラは、(  )帝国から多額の貢物を得ていた。

a. 西ローマ
b. 東ローマ
c. ササン朝ペルシア
d. 中国南朝

解答:b

問4. 451年のカタラウヌムの戦いで、アッティラ軍と戦ったのは次のうちどれ?
a. 東ローマ軍
b. 西ローマ軍
c. 東西ローマの連合軍
d. ササン朝ペルシア軍

解答:c

問5. 中世ヨーロッパの英雄叙事詩では、アッティラを(  )の英雄として描くことがあった。

a. ローマ人
b. ゲルマン人
c. キリスト教徒
d. イスラム教徒

解答:b