ピピン: 出自の謎に包まれたメロヴィング朝最後の王が開いたカロリング朝。その生涯とフランクの歴史を5分で解説

ピピン

ピピンは8世紀のフランク王国で宮宰から国王へと上り詰めた人物です。メロヴィング朝を終わらせ、カロリング朝を開いた功績で知られるピピン。この記事ではピピンの生涯をたどりながら、彼がフランク史や西欧中世にもたらした影響について解説します。

ピピンとは?

ピピンのプロフィール画像

メロヴィング朝最後の国王

ピピンはメロヴィング朝最後の国王であるキルデリク3世の宮宰を務めた人物です。メロヴィング朝は5世紀末にフランク王国を建国したクロヴィス1世によって始まった王朝で、ピピンの時代には長きにわたり衰退の一途をたどっていました。国王は形式的な存在と化し、実権は宮宰であるピピンが握っていたのです。

カロリング朝の開祖となった政治家

ピピンはメロヴィング朝の衰退に乗じ、751年に教皇ザカリアスの承認を得て国王の座に就きました。これによりメロヴィング朝に代わる新王朝・カロリング朝が開かれ、ピピンはその初代国王となりました。息子のシャルルマーニュのもとでフランク王国は全盛期を迎え、カロリング朝は西欧中世の歴史に大きな影響を与えることになります。

重要ポイント!
  • メロヴィング朝最後の国王の宮宰を務めた人物
  • カロリング朝を開いた初代国王となり、西欧中世に大きな影響を与えた

ピピンの生涯

不明な出自と貴族への登用

ピピンの出自には諸説ありますが、名門貴族の出身とする説が有力視されています。また彼がどのようにしてメロヴィング王の宮宰に抜擢されたのかも定かではありません。ただ8世紀前半の史料には、ピピンがすでに国王に匹敵する権力を持つ存在として登場しており、その政治手腕が買われていたことがうかがえます。

メロヴィング国王の補佐役から専制君主へ

ピピンは国王の補佐役として国政を担いましたが、次第にその権力を強化していきました。741年に父カール・マルテルが残した広大な所領を相続し、752年にはメロヴィング王キルデリク3世を退位させて自ら国王となります。事実上の専制君主となったピピンは、王国の統治基盤を整備し、対外的にはイタリアやアキテーヌなどへの遠征を行いました。

重要ポイント!
  • 出自は不明ながら、名門貴族説が有力視されている
  • メロヴィング国王の補佐役から、次第に専制君主としての地位を確立した 

メロヴィング朝の衰退と王権収奪

ピピンの寄進

ピピンの寄進

実質的な支配者となりメロヴィング王を簒奪

8世紀に入るとメロヴィング朝の衰退に拍車がかかり、国王は名目的な存在と化していきます。ピピンは国王に代わって国政を取り仕切る宮宰として、次第に権力を強化。751年にはメロヴィング朝最後の国王キルデリク3世を退位させ、自らが国王に即位しました。

教皇の承認を受けてフランク国王に即位

ピピンの王位簒奪を正当化したのが、ローマ教皇ザカリアスでした。ザカリアスはピピンからの照会に対し、「国王の名に値するのは実権を握る者である」との見解を示しました。ピピンはこの教皇の承認を背景に、752年にフランク貴族の支持を得て国王に選出されます。教会の後ろ盾を得たピピンの即位は、カロリング朝の正統性を担保する上で決定的な意味を持ちました。

重要ポイント!
  • 衰退したメロヴィング朝で実権を握り、国王を退位させた
  • 教皇の承認を得てフランク国王に即位し、カロリング朝の正統性を担保した

カロリング朝の創設と発展

神聖ローマ帝国の開始と皇帝即位

800年、ピピンの息子シャルルマーニュがローマ教皇レオ3世から戴冠し、「ローマ人の皇帝」の称号を授かりました。これにより西ローマ帝国が事実上復活し、フランク王国と教皇領の協力関係を軸とする「神聖ローマ帝国」の始まりを告げました。ピピンによるローマ教皇との提携がこうした発展の土台となったのです。

フランク王国の拡大と強化

ピピンの治世下でフランク王国は大きく版図を広げました。ピピンはロンバルド王国やバイエルンなどを征服し、王国の勢力圏を拡大。同時に国内統治にも力を入れ、教会や修道院との連携を軸に地方の支配体制を整備していきます。ピピン自身は在位期間こそ短いものの、カロリング朝の全盛期を準備した重要な功績を残しました。

重要ポイント!
  • ピピンの治世で「神聖ローマ帝国」の基礎が築かれた
  • フランク王国の版図拡大と国内統治の強化を進めた

ピピンの功績と評価

メロヴィング朝から新王朝への移行

ピピンの歴史的意義は、長らく形骸化していたメロヴィング朝に代わり、新たな王朝を打ち立てたことにあります。教皇の支持を得て正統な国王としての地位を確立したピピンは、カロリング朝の基礎を築いた人物と評価できるでしょう。

西欧中世政治史への決定的影響

ピピンの登場はフランク王国のみならず、西欧中世の政治や文化に大きな影響を及ぼすこととなりました。ローマ教皇との密接な関係や、国内統治の改革はシャルルマーニュ以降の発展を方向付けたといえます。カロリング朝のもとで古典文化が復興し、様々な分野で西欧文明の基盤が築かれていったのです。ピピンはそうした歴史の転換点に立った人物だったのです。

重要ポイント!
  • メロヴィング朝に代わる新王朝カロリング朝を打ち立てた
  • ローマ教皇との関係構築など、西欧中世の政治・文化の発展に決定的な影響を与えた

試験で問われる重要ポイント

試験で問われる重要ポイント!
  • メロヴィング朝からカロリング朝への移行過程を押さえる
  • ピピンの王権確立とフランク・教皇の協力関係がもたらした影響を理解する
  • 8世紀のメロヴィング朝の衰退と、宮宰ピピンの台頭
  • 751年のピピンによるメロヴィング王キルデリク3世の退位
  • ローマ教皇の承認を得たピピンのフランク王即位 ピピンの王権確立と神聖ローマ帝国の成立
  • ピピンとローマ教皇の密接な関係
  • シャルルマーニュによる「ローマ人の皇帝」号の獲得
  • フランク王国と教皇領の協力関係に基づく「神聖ローマ帝国」の開始 カロリング朝の発展と中世フランクの繁栄
  • ピピンによるロンバルド王国征服などの対外遠征
  • 教会や修道院と連携した国内統治体制の整備
  • カール大帝治下での古典文化復興とフランク王国の全盛期

確認テスト

問1 ピピンの息子が800年に「ローマ人の皇帝」の称号を得て開始した国家体制は?
A. 神聖ローマ帝国
B. 東フランク王国
C. 西フランク王国

  • 正解: A. 神聖ローマ帝国
  • 解説: ピピンの息子、シャルルマーニュは800年にローマ教皇レオ3世から「ローマ人の皇帝」として戴冠され、これが神聖ローマ帝国の始まりとされます。この称号は西ヨーロッパにおけるローマ帝国の継承を象徴し、キリスト教世界の宗教的及び政治的権威を象徴していました。

問2 ピピンが打倒し、フランク王国に併合した王国はどこか?
A. イングランド王国
B. ロンバルド王国
C. アキテーヌ王国

  • 正解: B. ロンバルド王国
  • 解説: ピピンはロンバルド王国を打倒し、その領土の大部分をフランク王国に併合しました。この軍事的勝利は、754年と756年に行われた戦役によるもので、これによりピピンはイタリア北部の広範な領土を掌握し、後に息子のシャルルマーニュに受け継がれました。また、この勝利によりピピンは教皇領の保護者としての地位も確立しました。

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