エドワード黒太子とは?
エドワード黒太子の生涯
エドワード黒太子(1330年-1376年)は、イングランド王エドワード3世の長男で、プランタジネット朝の王子です。 1343年にウェールズ公に叙任され、のちにコーンウォール公、ガスコーニュ公などに就きました。
若くして軍事的手腕を発揮し、百年戦争の最初期、クレシーの戦い(1346年)やポワティエの戦い(1356年)で活躍。 イングランド軍を勝利に導き、「黒太子」の異名をとりました。晩年はガスコーニュ公として同地を統治。後継者に恵まれず、36歳で死去したため王位には就きませんでしたが、イングランド中世史に名を残す人物の一人です。
エドワード黒太子の別名の由来
エドワード黒太子の「黒太子」という別名には諸説ありますが、最も有力なのは黒い鎧を着用していたことに由来するという説です。他にも、戦場で鮮血に染まった姿から「黒」と呼ばれるようになったという説や、厳格な性格を表す「黒」という形容が使われたとする説もあります。
いずれにせよ勇猛果敢な戦いぶりと、その威名を反映した異名と言えるでしょう。なお正式な姓はプランタジネットですが、エドワード黒太子は「黒太子」の名で広く知られています。
百年戦争とエドワード黒太子
百年戦争の概要と原因
百年戦争(1337年-1453年)は、イングランドとフランスの間で断続的に行われた一連の戦争の総称です。 その発端は、イングランド王エドワード3世がフランス王位継承権を主張したことにあります。
当時のイングランド王は、フランス西部のガスコーニュ地方を領有していましたが、これに対しフランス王は宗主権を主張。 さらにフランドル地方の羊毛貿易をめぐる対立も重なり、両国の関係は悪化の一途をたどりました。1337年、フランス王フィリップ6世がガスコーニュ地方を没収すると、エドワード3世は宣戦を布告。ここに百年戦争が始まったのです。
エドワード黒太子のクレシーの戦いでの活躍
クレシーの戦い(1346年)は、百年戦争初期の転換点となった戦いです。 フランス軍の2倍以上の兵力を揃えたイングランド軍は、エドワード3世とその子エドワード黒太子の指揮下、新戦術を駆使して大勝利を収めました。
この戦いで16歳の若さながら騎馬隊を率いて奮戦したのがエドワード黒太子です。 父王からの信頼も厚く、イングランド軍の中核として戦線を支えました。味方が窮地に陥った際も、エドワード3世は「彼に戦わせよ」と援軍を送るのを拒んだと伝えられ、初陣から黒太子の武勇は際立っていました。
ポワティエの戦いとエドワード黒太子
ポワティエの戦い(1356年)は、エドワード黒太子が総指揮官を務めたことで知られる一戦です。 イングランド軍はフランス軍の半数以下の兵力でしたが、黒太子の巧みな采配によって再び大勝利を収めました。
この戦いではフランス王ジャン2世が捕虜となるなど、イングランド優位の展開を決定づける出来事がありました。 エドワード黒太子は26歳にして、名将としての名を不動のものとしたのです。ポワティエの戦いは、エドワード黒太子の戦術眼と統率力を示す象徴的な戦いと言えるでしょう。
エドワード黒太子の功績と影響
ガスコーニュ公としての統治
エドワード黒太子は、1362年にガスコーニュ公に任命され、イングランド領であるガスコーニュ地方の統治を担いました。
ガスコーニュでは課税をめぐって住民の反発が強く、統治は困難を極めましたが、黒太子は全体としては有能な領主として評価されています。特に司法制度の整備や治安対策に力を入れ、ガスコーニュの秩序維持に尽力しました。 遠征に明け暮れた晩年を除けば、おおむね安定した統治を行ったと言えるでしょう。
英仏関係に与えた影響
エドワード黒太子の活躍は、百年戦争の趨勢を大きく左右しました。クレシー、ポワティエの戦いでの勝利により、イングランドは一時的にフランスに優位に立ちました。
ただし、エドワード黒太子はガスコーニュ統治の末期、カスティーリャ遠征(スペイン遠征、1367年)を行いますが、これは失敗に終わります。この遠征により財政は逼迫し、ガスコーニュ統治も次第に行き詰まりを見せるようになりました。
エドワード黒太子の死後、百年戦争の主導権はフランス側に移っていき、最終的にイングランドは敗北を喫することになります。 黒太子の活躍は、百年戦争の一時期を画したものの、イングランドの勝利を決定づけるには至らなかったのです。
試験で問われる重要ポイント
- エドワード黒太子の父はエドワード3世、イングランド王
- 「黒太子」の異名の由来は諸説あるが、黒い鎧説が有力
- 百年戦争初期、クレシーの戦い(1346年)、ポワティエの戦い(1356年)で活躍
- ポワティエの戦いではフランス王ジャン2世が捕虜に
- ガスコーニュ公として同地を統治。司法制度整備などに尽力
- エドワード黒太子の活躍で一時英仏関係はイングランド優位に
- 晩年のカスティーリャ遠征の失敗が、ガスコーニュ統治の行き詰まりに
確認テスト
問1 エドワード黒太子の父親は誰か?
a. エドワード1世
b. エドワード2世
c. エドワード3世
d. エドワード4世
解答:c
問2 エドワード黒太子が活躍した戦いはどれか?
a. アザンクールの戦い
b. クレシーの戦い
c. ポワティエの戦い
解答:d
問3 エドワード黒太子の異名「黒太子」の最も有力な由来は何か?
a. 容姿が黒人に似ていたから
b. 黒い鎧を着ていたから
c. 残虐性の象徴として
d. 暗い性格を表すため
解答:b
問4 ガスコーニュ公としてのエドワード黒太子の功績は?
a. 課税の強化
b. 治安対策
c. 司法制度の整備
解答:d
問5 エドワード黒太子の晩年の遠征先は?
a. イタリア
b. フランドル
c. スペイン
d. ドイツ
解答:c
まとめ
エドワード黒太子は、百年戦争の最初期に活躍したイングランドの武将であり、王子です。「黒太子」の異名で知られ、クレシーやポワティエの戦いで勇名を馳せました。ガスコーニュ公としても活躍しましたが、晩年のカスティーリャ遠征の失敗が、その功績に影を落とすことになりました。エドワード黒太子の活躍は、百年戦争の趨勢を一時的にイングランド優位に傾けましたが、最終的にイングランドを勝利へと導くことはできませんでした。それでも、中世イングランドを代表する武将の一人として、歴史に名を残しています。